今日のテーマは断食である。断食というと、現代では病気治癒の手段として耳にする。しかし聖書においては祈りを強める手段として言及されている。断食は自分に関係ないと思う人も多いと思うが、祈りによって真剣に神と向き合うという姿勢は持っていただきたいものである。

では今日の箇所を観ていこう。今日の箇所は、1節から始まった、偽善を戒める最後の区分である。これまで「施しについて」(2~4節)、「祈りについて」(5~15節)観てきた。律法学者やパリサイ人たちは、それらを、見られるために、自分があがめられるためにしてきた。断食も同じであった。

断食という習慣は異教徒の間でもあった。古代異教徒の多くは、食べ物に悪霊が憑き、それを食べると食べ物と一緒に体に悪霊が入ると信じた。だから断食をすることがあった。また神秘主義者たちは、神秘的なビジョンを見るために断食をした。しかし聖書の断食は、こうしたものとは異なる。

旧約聖書を見ると多くの聖徒が断食したことが記されている。モーセ、サムソン、サムエル、ハンナ、ダビデ、エリヤ、エズラ、ネヘミヤ、エステル、ダニエル、そして他の多くの人々。新約聖書では、アンナ、バプテスマのヨハネとその弟子たち、キリスト、パウロ、他の多くの人たち。それ以降、教会時代に、大勢の聖徒が断食をしてきた。 聖書において断食を命じているのは、実は一箇所だけで、「贖いの日」の断食である(レビ16章29節)。「あなたがたは身を戒めなければならない」というのがそれで、この日は国家的断食の日として定められた。一年に一回、全国民が断食をしなければならなかった。男性も、女性も、子どもたちも。しかし歴史が進むと、預言者ゼカリヤの時代までに四つの断食が定期的に実施されていたことがわかる(ゼカリヤ8章19節)。そしてキリストの時代になると、パリサイ人たちは週に二度の断食をしていた。「わたしは週に二度断食し」(ルカ18章12節)。なぜ二度なのかということだが、モーセが十戒の板を受けるためにシナイ山に二回登ったことに由来しているらしい。曜日としては火曜日と木曜日であった。この日は都合のいいことに「マーケット デイ」、すなわち市場の日、買い物の日であった。大勢の人で外は賑わう。自分を見せるためには絶好の機会。

キリストの時代、食べる食べないということに関して、極端な二つのグループがあった。一つは今日の箇所に見られるもので、見せるために積極的に断食をするという人たち。もうひとつは、食べ物は神からの賜物なのだから積極的に食べるべきで、食べなかった食べ物に関しては、それらの良い物を食べなかったということで、さばきの日にさばかれると主張する人たち。この人たちは食べまくる。しかし最初のグループの人たちのほうが多く、彼らは自己満足と自己栄誉のために断食していた。断食を功績、手柄のように捕え、同時に、人々にほめられるためにしていた。キリストはこのような人たちに報いは残っていないよと警告を与えている。

16節を見よう。見せるための断食について言われているが、ここで「やつれた顔つき」について言われている。顔の表情で断食していることをわからせる。その他、彼らは、断食していることがわかる身なりをしていた。古い服を着る。時に、故意に破ったり、汚す。髪の毛を乱す。時に、ちりを被ったり灰を被ったりする。弱々しい病人のように見えるようにメイキャップする。偽善者ということばは、仮面を被って役を演じた役者に由来することを述べたが、まさしく敬虔に見えるように演じていた。しかし、いんちきな見せかけでしかない。こうなってしまったのには同情できる理由もある。先ほど、断食をする日である「贖いの日」について触れたが、「身を戒めなければならない」と言われていた。彼らはこのことばを、単に食物を断つだけではなく、自分を卑しめるかっこうをしなければならないと理解した。そこで、ヒゲを剃るな、服は洗うな、油を塗るな、といった掟を作っていき、彼らはそれに従うようになった。

17節を見ると、キリストはユダヤ人たちが作りだした掟と反対のことを言っていることがわかる。「自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」。油は身づくろいをするものとして一般的なものであった。顔を洗うというのは毎日の行為だが、特に儀礼的な場に出る時は洗った。キリストが言わんとしたいポイントは、ノーマルに見える姿でいなさい、ということだろう。それは18節からもわかる。「それは、断食していることが、人には見られないで」。人々に断食していることが悟られないような顔つき、身なりでいなさい、ということである。そして続く「隠れた所におられるあなたの父に見られるためです」から、わざと人に見られるような場所に足を運んではならないということである。断食の期間、人の前に出なければならないことはある。しかしわざと見せるためにそうするのは愚かでしかない。断食は人に見せるためにするのではなく、神の前での霊的デボーションである。キリスト教の初期の歴史を見ると、火曜日と木曜日の断食は偽善者のすることだから、断食は水曜日と金曜日にしなさいと言われていたことがわかる。そして実際、水曜日と金曜日に断食することが多かった。しかし、曜日の問題でないことは明らか。キリストが問題にしているのは曜日ではなく、断食の動機、目的、その精神である。

では、聖書から、もう少し、断食について学んでいこう。今日の箇所を見ても明らかだが、キリストは断食そのものを否定していない。断食は当然するものという前提で言われている。続いて、聖書において、断食はどのような場合にするのかを観ていこう。現代ではダイエットが目的で断食がよく行われる。また病気を治すために食を断つという断食療法もある。しかし、聖書が告げる断食は必ず祈りとセットで言及されている。では聖書の断食の特徴を5つに分けて観ていこう。

1)断食は、人の病や死と関連づけられている。ダビデはバテシェバとの間にできた子どもが病気になったとき断食した(Ⅱサムエル12章6節)。彼は敵の病のためにも断食した(詩編35章13節)。またダビデは将軍アブネルが死んだとき哀悼の意を込めて断食した(Ⅱサムエル3章35節)。

2)断食は、悔い改めと関連づけられている。ダビデはバテシェバとの姦淫の罪を悲しんで断食したことはまちがいない。ダニエルは自分と民の罪を告白し、断食した(ダニエル9章)。エズラも民の不信仰を嘆いて断食した(エズラ10章6節)。ペルシャで王の献酌官を務めていたネヘミヤは、エルサレムの城壁がくずされたままでいるのを悲しみ、自分と民の罪を告白しつつ、断食した(ネヘミヤ1章)。悪名高いニネベの住民はヨナのメッセージを聞いて断食した(ヨナ3章5,7節)。ヨエル書では悔い改めの断食が三度にわたり命じられている。「しかし、今、主の御告げ。心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(ヨエル2章12,13節)(1章14節、2章15節参照)。

3)断食は危機が訪れた時にしている。ヨシャパテはモアブの大軍が襲ってきた時に全国に断食を布告した(Ⅱ歴代誌20章3節)。エズラはバビロンから祖国イスラエルに帰還するにあたり、道中の安全を願って断食を布告した(エズラ8章21節)。ペルシャ帝国の王妃であったエステルは、ユダヤ人存亡の危機に立たせられた時、断食を依頼し、また自らも決行した「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル4章16節)。

4)断食は、主の導き、みこころが示されることとの関連がある。ダニエルは断食していた時に、神の啓示を受けている(ダニエル9章、10章)。人生の節目にこれからの導きを求めて断食する方は多いだろう。

5)断食は大切な働きやミニストリーの前に行われている。キリストは公生涯に入る前に荒野で40日間の断食をされた(マタイ4章1~11節)。キリストは悪霊追い出し等において断食の必要性を示唆している(マタイ17章21節等)。初代教会において、パウロとバルナバが宣教師として任命され、遣わされる前後、教会は断食した(使徒13章2,3節)。パウロとバルナバは、教会ごとに長老を選んだ後、彼らの働きのために断食した(使徒14章23節)。これらは福音宣教のための断食である。

聖書の断食はすべて祈りとカップルになっているが、断食は意識を鮮明にし、祈りを強める働きをする。神に集中させるのにベストの方法といっていいだろう。断食は国家規模で、またグループで行われることもあるが、多くは、個人と神との間のプライベートな事柄である。それは見せるものではない。そして断食は砕かれた悔いた心で行うことが大切である。参考として、イザヤ58章5~8節を開こう。この箇所はイスラエルの偽善が告げられている。罪を悲しんでの断食のはずがそうではなく、パフォーマンスとしての態度ではそうであっても、心ではそうではない。私たちも自戒しよう。先に読んだヨエル書で言われているように、心を引き裂き、そして主のみこころを行う決断をするのでなければ意味はない。

続いて、断食の方法に触れておこう。皆さんが祈りに専心したいと思われた時には、半日か一日を祈りの日として過ごすか、あるいは断食されるかのいずれかになるだろう。「断食」<ネスティア>ということばは、文字通り、食べないことを意味する。断食には水も断ってしまう「完全断食」と、水分補給はする「部分断食」がある。どちらか実践されてきた。ただし、心臓病、糖尿病、低血糖、妊娠中といった方は断食は控えたほうがいい。断食は強制ではない。できる人が自発的に行うものである。断食には今述べたように「完全断食」と「部分断食」がある。以下、それを説明していこう。「完全断食」は食物も水分も摂らない断食である。パウロについて「彼は三日の間、目が見えず、飲み食いもしなかった」(使徒9章9節)とある。しかし「完全断食」は水分さえも摂らないということで危険も大きいので、皆さんには「部分断食」をお勧めする。「部分断食」は水分補給をする。水、あるいは果汁100%のフルーツジュースないし野菜ジュースを摂る。この部分断食を一週間以上行う人もいるが、一般の方はそのような時間的余裕もないし、また期間が長いと、体調を管理していく知恵も専門的なものが必要になって来る。長期間断食のあとは、炭水化物や油脂類をすぐに摂取してはならない。摂るにしても御粥程度のものからと徐々に慣らしてく必要があるわけである。虚弱体質の人は長期間は不安要素も大きいので、一日程度の部分断食がお薦めである。私も体力がないという理由と、低血糖になりやすい体質という理由から、実践するのは一日程度の部分断食。やり方を二つあげると、一つは、昼食と翌日の昼食だけを抜く。朝食、夕食は食べる。昼食は抜くと言っても水分は補給する。外見では通常の仕事をこなし、内面では主をあがめ祈り、賛美し礼拝する。神との関係がクリアーなり、その日の仕事をすべてを主イエスに捧げることに有効というスタイル。これは現代人にはもっとも取り組みやすいかもしれない。浮いた昼食代を、貧しい国に寄付するという方もいる。もう一つは、朝食と続く昼食を抜き、祈り続け、夕食は摂るというスタイル。これも無理がなく、誰でもできる。私は、人生の節目と思われた時は、後者のやり方で、導きを求めてきた。祈りの友としては、もちろん聖書以上にすぐれたものはない。断食をして集中力を高めて聖書を読んで、みことばから主の語りかけを受けるわけである。賛美歌等を用いる人もいる。今述べさせていただいたような断食なら病人でない限りできるのではないだろうか?

リチャード・フォスターという方は次のように語る。「聖書は頻繁に断食について述べ、世界のキリスト教界の歴史は幾世紀にもわたって熱心に断食を実践してきた。それにもかかわらず断食を現代社会がほぼ全面的に無視している理由は何か。二点ある。第一は、中世キリスト教界の禁欲的かつ過剰な実践が『断食イコール苦行』という悪評を定着させたことである。・・・断食が過去の世紀にわたって衰退したのはもう一つの理由がある。一日三食とその間にお茶とスナックの小休止を規則的にしなくては栄養不足になるといプロパガンダが、文化、経済、労働、ライフスタイルの場で絶え間なく現代人を教育していること。」つまり、中世は禁欲主義がわざわいしたと言えるし、現代はその逆で、食べることへの異常なまでのこだわりと食べないとからだに悪いという偏見が根強いというわけである。いずれ、私たちの意識を神に向けた生活をしよう。神との交わりを尊び、私たちの心が神に近く引き寄せられることを求め、そして許される人は、許される時に目的意識をもって断食してみよう。

最後に、断食の究極的目的に触れて終わろう。それはパリサイ人たちのように自己栄誉ではない。神の栄光である。断食を習慣としていたジョン・ウェスレーのことばを紹介して終わる。「第一に、われわれの眼差しをただ主にのみ定めて、主に向かって断食をなさしめよ。われらの断食の意図をこのことのみ、すなわち天にましますわれらの父の栄光をあらわすことのみであらせよ」。