前回は1~4節より、「真の施し」について観た。「施し」(2節)とは「慈善」と訳せることばだった。その動機は「人に見せるために」(1節)とか、「人にほめられたくて」(2節)ということであってはならないということであった。それは偽善でしかない。売名行為としての慈善活動をキリストは許しておられない。キリストは「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」(3節)と、自分にも隠れている慈善をするように、自分のする良い行いを心にメモらないように、と注意を促しておられる。良い意味での健忘症となり、栄光はただ神に帰さなければならない。得意がったりとか、自分はあれだけやったのに見返りがないとか、そういう自己栄誉、自己賛美の心の態度に陥りやすい私たちは、「右の手のしていることを左の手に知らせないようにしなさい」という戒めを繰り返し聞かなければならない。

今日の箇所では偽善の施しに続いて、偽善の祈りに注意を与えている。5節では当時の偽善の祈りが描写されている。「立って祈る」というポーズは、当時のユダヤ人の一般的な祈りのポーズである。祈りの場所として「会堂」と「通りの四つ角」が挙げられている。「会堂」は公共の祈りの場所としては最もふさわしい場所であった。会堂は集会所であり、そこは礼拝の場所だけでなく、様々な会合の場所で、公民館の機能も持ち、人々が良く集まった。ここで祈れば当然のことながら目立つ。次の「通りの四つ角」だが、5節で「通り」と訳されていることばは、2節の「通り」と訳されていることばとは違う。5節では<プラテイア>ということばが使われており、それは広い通り、メイン通りを意味することばである。よって、この通りには多くの人が集まる。この通りで祈るなら目立つことはまちがいない。キリストは会堂や広い通りの四つ角といった目立つ場所で祈ること自体を戒めているわけではない。群衆が集まっている所で祈ることを戒めているわけではない。そこで祈る動機と目的を戒めている。「人に見られたくて」ということが良くない。

ユダヤ人は祈りの習慣を大切にした。しかし、それが機械的なお決まり事になっていた感があった。もちろん真剣に心を込めて祈っていた人たちもいたわけだが、律法学者やパリサイ人たちのある者たちは、祈りはただぶつぶつと唱えるだけの感があり、心はそこにないというか、人の集まる場所を好み、周囲に敬虔に見られたいがために、記憶している祈りのことばをただ口にしていた。忠実なユダヤ人たちは、「シェマ」という祈りのことばを、朝と夕に唱えていた。それは申命記6章4節の「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」のみことばで始まる祈祷文である(6:4~9;11:13~21)。またユダヤ人たちは「シェモネー エスレイ」と言われる18の祈祷文を祈る習慣があった。それは「私たちの父祖はあなたを賛美しました。アブラハムとサラ、リベカとイサクヤコブラケルとレアは、畏敬の念であなたの御前に立ちました」で始まり、そして様々なことを願い、平和を願う祈りで閉じる。忠実なユダヤ人たちは、これを、朝、午後、夕べと3回祈る。「シェマ」と「シェモネー エスレイ」は毎日、いつ何をしていても、家にいても、仕事先でも、旅先でも、会堂にいても、通りにいても、どこにいても、その時していたことをやめて、祈る習慣があった。祈る時、場合によっては、それぞれの祈祷文の短縮形が用いられた。律法学者やパリサイ人たちは、時間が来ると、祈祷文を形式的に口にした。祈りのことばを明瞭にはっきりと発音することに気を遣いながら、どんどんとお題目のように言い進めて行った。しかも彼らの意識は人に向けられていた。共通の祈りの時間としては、朝9時、昼12時、午後3時。9時と12時と3時は、自分たちを敬虔に見せる絶好の機会となった。これらの時間に人が大勢いる場所に自分がいるように意識した者たちがいただろう。9時と12時と3時に祈る習慣自体はすばらしいと思う。旧約の聖徒ダニエルについて「彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り感謝していた」(ダニエル6章10節)とある。ダニエルは、「王様以外に、いかなる神にも人にも祈る者は、ライオンの穴に投げ込まれる」という国家命令が出ていたにもかかわらず、窓を開けて、人に見られてもかまわないと、堂々と日に三度祈った。そしてライオンの穴に投げ込まれた。彼は人に見られたくて日に三度祈ったのではない。あくまでも意識は神にあった。これなどは私たちも見習わなければならない。初代教会時代では午後3時に祈る習慣があった。「ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って行った」(使徒3章1節)。神に向かって祈る習慣はすばらしい。パウロは「絶えず祈りなさい」と勧めている(Ⅰテサロニケ5章16節)。「絶えず」という原語は「隙間なく」という意味をもつことばである。だから問題はあくまでも動機にある。また律法学者たちは人前では長く祈るクセがあったと言う。「また、やもめの家を食いつぶし、見栄を飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」(マルコ12章40節)。長く祈ること自体も、やはり問題ではない。しかし、人を意識して、格調高いことばで長々と祈るのはどうかと思うことがある。

さて、律法学者やパリサイ人たちは、大勢の人に見られる場所で祈ることが好きなようだが、キリストが勧める祈りの場所は違った(6節)。「自分の奥まった部屋」とあるが、当時の一般的な家は一間しかなく、そこが幾つかに仕切られていた構造。現代の個室とは違う。いずれ、一人になって静まれるスペースを見つけて祈りなさい、ということである。そこは人から隠れた所である。「隠れた所におられるあなたの父」とは、家の中でかくれんぼしている父親のことではなく、もちろん、父なる神のことである。父なる神と一対一になれる場所で祈ることが勧められている。私たちは隠れ家ならず「隠れ部屋」が必要である。そこはもちろん自室とは限らない。台所がある居間かもしれず、近くの林の中かもしれない。時には風呂場という人もいる。車の中という人もいる。それぞれが落ち着いて祈れる場所を見つければいい。

キリストは異邦人の祈りをまねないようにも警告を与えている(7節)。異教徒は、たくさんの神々の名前を挙げ、下手な鉄砲数打ちゃ当たるで、どれか一つの神ぐらい願いを聞いてくれるだろう、というところがあった(日本にも同じ慣習がある)。異邦人の祈りの性質として、祈りの対象がどうかということよりも、ご利益信仰だから、自分の願い事がかなえられれば対象はどうでもいいというところがある。また異邦人は自分が好んでいる神に対して、同じことばをただ呪文のように繰り返して願うところがある(この慣習も日本にある)。そのためにはお百度参りのようなことも辞さない。だからキリストは言われる(8節)。父なる神さまは私たちの真の必要を知っているのだから、彼らの祈りのまねをするなと。

そして、「主の祈り」として知られる祈りの模範を提示される(9~13節)。この祈りはご利益信仰とは無縁で、祈りの核となる精神は、神の栄光。いつかシリーズで、この「主の祈り」を4~5回に分けて、じっくりと学んでいくこととしたい。今日は、簡単に要点だけを学び取りたい。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」(9節)。キリストは神を「父」と呼び、親密な愛情をもって呼びかけるように勧めている。そして同時に「父」には威厳、尊敬、畏敬という意味も込められる。「天にいます」という形容のことばが、それを確かにしている。だから私たちは愛情を込めると同時に、敬う気持ちで神に呼びかける。そして最初の願いが、御名があがめられることである。名前はその人の人格を表わすものであるから、神ご自身があがめられることを願うということである。しかも真っ先に。そして、この精神が祈り全体を貫くのである。私たちは律法学者やパリサイ人たちのように、自己栄誉、自己賛美を願うのではなく、神があがめられることを願っていく。また私たちは異教徒のように、ご利益信仰で神に向かうのではなくて、神が賛美されることを願っていく。ともすると、それを忘れ、人間的な願い事一辺倒の祈りになってしまいやすい。それであったら、異邦人の祈りと何ら変わりない。私たちは祈りの中で神を賛美する祈りが一番大切であることをわきまえたいし、賛美の祈りをすべてにまさって意識的に捧げていきたい。賛美の精神が祈りを貫かなければならない。私たちは神の栄光のために造られ存在しているわけだから。

「御国が来ますように」(10節前半)。「御国」とは「神の国」のことである。国は支配を意味するので、神の支配を願う祈りである。待ち望まれていた神の国はすでにキリストの出現とともに訪れた。キリストがそう宣言された。しかし、ご存じのように、悪の支配、不義等は地上にまだある。罪の力、闇の力はまだ働いている。人々は神を認めず、信ぜず、そむき、従わず生きている。人々の心は神の支配を拒んでいる。地上には苦しみ、災いも絶えない。死も訪れる。神の国はいまだ完成していない。神の国はすでにいまだの国である。黙示録等に、死や悲しみ、叫び、苦しみがない新天新地の出現が言及されているが、それが神の国の完成の時である。この時、神を知る知識がすべての場所に満ち、神の義が実現し、神の栄光が輝くことになる。私たちは歴史の終点である、この新天新地を目当てに、この地上で生きる。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とマタイ6章33節でキリストは説くことになるが、その精神で私たちは生きる。

「みこころが天で行われるように地でも行われますように」(10節後半)。これは先の祈りの言い換えと言って良い。神のみこころは天では完全に行われているが、この地上は悪と不義、偽りと不真実といったものが働いている。この地上は神と悪魔、光と闇の戦いの場である。神の支配を妨げんとする力、神のみこころを妨げる力が働いている。神のみこころは聖書にふんだんに啓示されているが、その中で大切なものにたましいの救いがある。神はすべての人が真理を信じて救われることを望んでおられる。だから、たましいの救いのために祈ることは大事である。私たちは、こうしたことを祈り求めるとともに、自分が神のみこころを行うことができるようにと祈る。この姿勢で朝のデボーションを迎え、祈る時、神は私たちの心に、あなたは今日これをやりなさい、あなたはこれからの人生こうしなさいと、静かに語りかけてくださる。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」(11節)。キリストは「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて(それにプラスして)、これらのものは(生活に必要なものは)、すべて与えられます」(6章33節)と説かれることになる。私たちは御国を求め、次に生活の必要を求める。神は私たちを養ってくださる。この祈りを祈ることによって、私たちは神の恵みで生かされていることも深く覚えることができる。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちに負い目のある人たちを赦しました」(12節)。キリストは罪を「負い目」、すなわち神に対する負債と表現している。罪とは神に対して犯されるものであるからである。私たちの神に対する罪の負債は莫大なもので、人の力では返済不可能である。だからそれは赦していただくほかはない。神はキリストに私たちのすべての罪の負債を負わせられた。それがあの十字架である。キリストはご自身のいのちを代価として十字架上で捧げ、私たちの罪の負債を支払おうとしてくださった。このキリストの十字架のゆえに私たちの罪は赦される。私たちは日ごとに自分を点検して、罪を告白し、罪を赦していただく。その際に、赦していない人はいないかどうかと、自分の人間関係もチェックするわけである。神に罪を赦してもらうことを願いながら、人の罪は赦さないというわがまま勝手は通らない(14,15節)。この祈りはたましいの健康のために欠かせない。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです)(14節)。悪魔からの誘惑から救われるようにとの祈り。悪魔は私たちが罪を犯し、不信仰になるようにと、あらゆる手段で誘惑してくる。私たちは自分は大丈夫だという過信は禁物である。私たちは日々、自分の弱さを自覚して、この祈りを祈らなければならない。

この祈りもそうだが、ずっと「私たち」と言われてきたことに気づかれただろうか?(9,11,12,13節)主の祈りは、自分のことだけを意識して祈る祈りではなく、信仰者の仲間や家族といった共同体を意識して祈る祈りである。そしてこの祈りは最後に、神を賛美して終わる。

主の祈りは礼拝の時だけ出なく、日々祈るもの。初代教会の聖徒たちもそうしていた。この祈りは、律法学者やパリサイ人たちの祈りのように、機械的で形式的なものとなってしまわないように、心を込めて、意味を考えて祈りたい。主の祈りにそった内容で、自分のことばで祈っていくことも良い。時に、異邦人のように「お守りください」一辺倒の祈りしかしない人を見かけるが、そのような人は主の祈りを学んだほうがよい。私たちは祈りにおいても成長していきたい。

祈り方としては、朝、忙しい一日の前に祈りと聖書の時を持つのがベスト。朝は主の祈り、または主の祈りの各要素を祈りたい。その日一日を良い過ごし方ができるために(個人的には一日、2~3回、主の祈りを祈る)。また、聖書を読むわけだから、みことばそのものを祈る、みことばから教えられたことを祈る、それも欠かせない。そして絶えず祈りなさいの精神で、日中も神に心を向け、短い祈りでも捧げる習慣を持つ。神を賛美する祈り、あわれみを求める祈り、感謝の祈り、とりなしの祈り、罪の告白の祈り。目を開けていても、車のハンドルを握っていても、これはできる。最後に、一日の終わりには、就寝前に5分ほど、ベッドの上で構わないので、祈りの時を持っていただきたい。最近、この一日の終わりに捧げる祈りを「エグザメン」という表現をとることが多い。訳すると「良心の検討」。どのようにするかの一例を挙げると、心を静めて一日を振り返り、感謝だったことは何かと思い浮かべる。そして感謝する。こんな出来事があって、こんな恵みをいただいて感謝であったと。今日はつらい一日だったけれど責任を果たせて良かったということかもしれない。どんな一日にも感謝できることはあるはずである。また、その日一日の感情の動きも振り返ってみる。感情の動きには、嬉しさ、喜びといったものだけではなく、負の感情にも気づかされるだろう。あの時、むさぼりの感情に負けた、イライラして短気になってしまった、ねたんでしまった、やる気がなくてさぼってしまった、調子に乗って失言した…等の気づきが生まれる。その後、罪の告白をし、赦しを求める。また、気にかかって思い煩いが取れないこと、明日のことで心配なこと等があるあろう。思い煩い、不安、ストレス、そうした感情の動きもある。それらを神に明け渡して床に就く。希望をもって明日を迎えることができるように。感謝、悔い改め、希望。こうした祈りを毎晩持ちたい。一日の終わりに日記あるいは日誌を書く習慣がある人は、その時にしても良い。いずれ、一日の終わりにも祈ろう。もちろん賛美の精神で。これも「奥まった部屋」での祈りとなるだろう。夢の中で祈るか祈らないかは自由。好きにやってください。

今日は偽善の祈りと真の祈りの対比で学んだ。私たちは律法学者、パリサイ人、異邦人のような祈りではなく、真の祈りを捧げ、神との交わり、神との会話に生き、神があがめられることを願っていこう。