私たちは、今、学んでいる山上の説教より、神のかたちに造られた人間としての真のあるべき姿について教えられる。前回の5章43~48節では、それは敵を愛するということだった。

これから学んでいくマタイ6章1~18節では、自己栄誉のためという間違った動機でふるまうことが禁じられている。「人に見せるために」で始まる1節の禁止命令が前置きとなっている。4節までが、人に見せるための施しが禁止されている。では1~4節を学ぼう

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを得られません」(1節)。「善行」と訳される<ディカイオスネー>は「義」ということばである。他の箇所では通常「義」と訳されている。よって「善行」を「義の行い」と訳しても良いだろう。キリストは先に5章20節で、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義<ディカイオスネー>が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われた。パリサイ人たちは、表面的には義と見える行いをしていたが内実はそうではないことがキリストによって暴露される。彼らにまさる義を、今日の箇所でも教えていると言えるだろう。彼らは偽善者とキリストから呼ばれるわけだが、人からの賞賛、栄誉を求めて、人に見せるために義の行いをした。

では、施しに関するキリストの教えを観ていこう。「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(2節)。施しについてだが、これは当時の社会事情との関係がある。当時、貧困という問題が大きかった。貧しい人が非常に多く、生活は困難をきわめていた。だから、貧しい人を助けるのは義務という社会風潮があった。それを促していたのが律法の命令である。「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたがたに命じて言う。『国のうちにいるあなたがたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない』」(申命記15章11節)。これに準ずる戒めがたくさんある。人々はこれを実行しようとした。しかし、中には、貧しい人の必要に応えようというよりも、自分が寄進者として良く見られたいという動機で施しをする者たちがいた。施しが売名行為になっていた。キリストは、施しすることは大切だが、施しを知られることは大切なことではないと教えている。神があがめられればいいのであって、自分がよく思われ、自分に栄誉が帰されるためにするのではない。

「施し」<エレーモスネー>は「慈善」と訳すこともできることばで、字義通りには「あわれみ」を意味する。マタイ5章7節の「あわれみ深い者は幸いです」の「あわれみ深い」と同属のことばである。このあわれみが具体的なかたちをとると、貧しい人に対して、お金、食糧、衣服、その他の必需品を与える「施し」ということになる。このことばの意味からわかるように、純粋に「あわれみ」の思いからするのが施しであって、「人にほめられたくて」という動機は正しくない。いつも動機の正しさが問われる。神はその動機を調べられる方である。律法学者やパリサイ人たちの動機は正しくないことが多かった。彼らの動機は、人へのあわれみとか、神の栄誉とかでなく、「人にほめられたくて」ということであった。関心はあくまでも自分にあり、人や神にはない。「人にほめられたくて」という動機に関連して、良くあるまちがった動機も取り上げておきたい。外典にはこうある。「金をため込むよりも慈善の業をするほうがはるかにすばらしいことです。慈善の業は、死を遠ざけ、すべての罪を清めます。慈善を行う者は、幸せな人生を送ることができます」(トビト12章9節)。「水が燃え盛る火を消すように、施しの業は罪を償う」(シラ3章30節)。これらを読むと、施しという善行は罪を償ってくれて、救ってくれるもののように受け取れる。施しを、罪滅ぼしという動機でするとか、自分が幸せになりたい、天国に入りたい、天国で報いを一杯受けたいという動機でする人も起きる。実際そうであった。そこにある関心はやはり自分のことで、他の人たちや神にはない。あくまでも自分のための善行である。こうした姿勢では報いは期待できないだろう。

キリストは、人にほめられたくて、人に見せるために公共の場所で施しをする人を「偽善者」と呼んでいる。原語<ヒュポクラテース>は、演劇の用語で、マスクをかぶって、誇張的にドラマを演じるギリシャ人の役者を意味していた。マスクの下は悪人であっても、ドラマティックに善人を演じることはできるわけである。その演じ方として「自分の前でラッパを吹く」ことが言われているが、これから施しをしますよというアナウンスのためにラッパが吹かれていたという歴史的証拠は残っていない。よって、これは自己宣伝を誇張した比喩的表現と受け取れる。このような者は人前で人にほめられることしか関心がない。よって、神からの報いはない。そのことが、「まことに、あなたがたに告げます」という強調したことばに続いて、「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」という表現で言われている。「受け取る」と訳されていることばは商業用語で、「対価を十分に受け取ること、領収すること」を意味する。だから、もうその先は何も受け取れない。

そこでキリストの積極的勧めは「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」(4節)である。自分の体の一部にも「知られないように」ということにおいて、キリストの言わんとしたいことはなんとなくわかるだろう。「右の手」であるが、右の手は主に働く手とみなされていた。だいたいの事は右の手で行う。字を書く、包丁をにぎる、ボールを投げる。人間は右利きが多いため、右の手は働く手とみなされていたわけである。アクションは右手で起こす。そのアクションを左の手に知られないようにする。これは自己宣伝と対極にある。人に知られるどころか自分にも知られないようにするということ。自分にも隠れているような施しをするということ。これは究極の隠れ行為の勧め。自分はなんて善い事をしたのだなどという満足げの思いは左の手に感づかれる。ある人は言った。「クリスチャンの施しは、自分をほめることではなく、自己犠牲と自己忘却によって特徴づけられる」(※「自己忘却」~自分が何をしたかも覚えていない、忘れてしまっている)。つまり、クリスチャンは、相手の必要を覚えて、あわれみの心から、自発的に与える。何の作意もなしに、純粋な気持ちで、犠牲的に与える。そして、その行為は忘れてしまうということ。良い意味での健忘症になるということ。健忘症も捨てたものではない。この人は後で忘れるというよりも、最初から記憶にとどめようとしない。よって、「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」の命令は、次のような言い換えもできるかもしれない。「あなたは施しをするとき、自分のしている善い事を自分の心にメモらないようにしなさい」。メモってはいけないのである。心にメモる人は後日、自慢話が始まるか、あれだけやってあげたのにという不平不満が出てくるかのどちらかであろう。右の手のしたことを左の手に知らせない人は相手が感謝しようがしまいが、そのようなことにはこだわらない。多額を寄進したのに感謝がないだとか、自分の名前が寄進者欄に書いていないとか、そのようなことにはこだわらない。ただこの人は自分はなすべきことをしただけだという思いがあり、神の御名があがめられればそれでいいという思いがある。この人は、他人の目も自分さえも意識しないで施しをする。隠れた施しをする。

「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(4節)。隠れた施しであっても神の目には隠れていない。父なる神は隠れた施しに報いてくださる方である。その報いはこの世で受けるのか天の御国で受けるのか、おそらく両者であろう。

ここで隠れた施しに関連して注意を払っておきたいことは、「右の手にしていることを左の手に知らせない」という精神が大事であって、隠れるという実際的かたちを取ればそれでいいのではないということである。5章16節を開こう。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父があがめられるようにしなさい」。先に学んだ命令だが、ここでは「隠れる」ことと正反対の「見せる」ことが言われているようである。しかし、ようするに動機の問題である。自分を見せて得意がりたい、ほめられたいという動機ではなく、天の父があがめられるためにという動機、目的ですることが求められている。その人は見られながらも、自分を隠す精神で、地の塩、世の光を生きるだろう。

今日は「施しについて」というテーマで見てきたが、それは相手の必要に応えるものでなければならないことはもちろんのこと、自発的なものでなければならない。そして今日の教えでは、純粋にあわれみの心で与えることが必要なことを教えられるし、目に見えるところは人を助ける善行であっても、自己栄誉のためなのか神の栄光のためなのかで神の評価は全く変わってしまうことを教えられる。誉れはただ神に帰すわけである。

最後に貧困に向き合うことについて述べておきたい。冒頭の方で、当時の社会は貧困という問題が大きかったことを述べた。現代でも、仕事がなくて若者も貧困に直面しているとか、年金だけで暮らしていけるのかと年配者の間で不安が広がっているという現実がある。しかしながら、そういう問題はキリスト時代のほうがより深刻で、また初代教会時代等も同じだった。そのような中、本物のクリスチャンたちは、自分の生活がせいいっぱいで神さまに仕えている暇はないとか、献金はできないとか、人にかまっている暇はないとか言っていないで、自分ができる最善をもって神と人とに仕えていこうとした。私たちはこの姿勢に見倣わなければならないと思う。以前、病人や死人に対する初期のクリスチャンたちの姿勢を紹介したと思うが、今日は最後に、貧困にどう関わったのか、その一例を紹介して終わる。「一世紀、クリスチャン人口は急激に拡大しました。その大きな理由は、多くの人が疲労困憊し悲観している時代に、クリスチャンたちが常識を覆すようなやり方で人々に手を差し伸べたからです。当時ローマ帝国の町外れにあるゴミ捨て場には、しばしば新生児が置き去りにされていました。現在残っている親たちに宛てた古代の手紙には、『もし、男の子であれば残し、女の子であれば捨てよ』とアドバイスされています。奴隷小屋の主人が時折ゴミ捨て場を訪れ、捨てられた赤ちゃんを育てて奴隷として売りました。売春婦の経営者も赤ちゃんを拾い、売春婦にするために育てました。クリスチャンも、ゴミ捨て場を訪れました。しかし、彼らは赤ちゃんを連れて帰って、自分の子どもとして育てました。 初期の教会では、飢えている人々に与える十分な食糧がないとき、彼らと食事を分かち与えるまで教会全体が断食をしました。コルネリウス教皇時代、紀元250年のローマでは、一万人のクリスチャンが一年に百日断食をして、百万人の貧しい人たちに食事を提供したと言われています。世界は、そのような犠牲的愛を見たことがありませんでした」。(「賢者の生活リズム」ケン・シゲマツ著より)。

私たちは神の国とその義とを第一に求めるなら、必要はすべて満たされることを教えられている。また神は与える者を豊かに満たすことも教えられている。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」(ルカ6章38節)。さて、私たちは与える側として現場でどうあるべきか。慈善、施し、与えるということにおいて、私たちは生活の現場で示された一つ一つのことを、右の手でしていることを左の手に知らせない精神で、気づかれない精神で実践していきたい。それこそが、真の人間である。