前回は38~42節より、仕返しをする精神から解放されるべきこと、それどころか、勇気のある愛をもって愛していくことを学んだ。続く今日の箇所は、5章21節から始まったキリストの律法の解釈のラストということになり、また21節から始まった律法の解釈のまとめともなっている。キリストは5章20節において、「律法学者、パリサイ人にまさる義」ということを語られ、その義とはどういうものであるのかを、21節以降の律法の解釈を通して示されていったわけである。律法学者、パリサイ人たちは律法を外面的に守っていただけというところがあったし、また律法をゆがめて解釈していたところがあった。彼らは自分たちは律法を守り、義の生活を送っていたと自負していたが、彼らの義はメッキのようにはがれてしまうものにすぎず、また純粋なものではなかった。キリストはこれを守ってこそ本当に義なのだと、今日の箇所でも教えている。そして、今日の箇所は、律法の解釈のクライマックスにふさわしい内容となっている。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(43節)。隣人を愛するという教えは、律法の中で最も重要であり、すべての律法はこの戒めに集約されると言える。パウロは「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語で全うされるのです」(ガラテヤ5章14節)と言った。自分の隣人を愛するという教えは、最初にレビ記19章18節に登場する。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」。43節はユダヤ人の格言のようになっていたことばであるが、「あなた自身のように」が欠けている。ユダヤ人は、これを除いてしまって、この戒めの基準を下げてしまっているという見方もできる。そのほうが自分を義にしやすいから。しかし大事なことは続く、「自分の敵を憎め」である。この表現自体は聖書のどこにもない。彼らが旧約聖書を読んで複合的に導き出した表現である。神は異邦人を敵として憎むように教えていると受け取った。これが全く外れた解釈であったわけである。なぜこうなってしまったのかというなら、選びの民としてカナンの地に足を踏み入れる時、偶像を拝む異邦の民と契約を結ばないように命じられたことに端を発している。「あなたは注意して、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように」(出エジプト34章12節)。これらの教えを曲げてとり、彼らは異邦人に敵のレッテルを張り、異邦人を憎むことが正義となっていった。しかし、このような教えがある。「もしあなたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地で在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である」(レビ19章33,34節)。憎むのは罪であって人ではない。

もう少し、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」という格言について考えてみよう。当時のユダヤ人にとって「隣人」とは同胞のユダヤ人のことだった。異邦人は隣人から除かれていた。「隣人」ということばは、「近く」ということばから造られている。だから「隣人」とは「近くにいる人」と訳せる。ユダヤ人にとってそれは同胞のユダヤ人という意識。同国人が隣人。異邦人は入らない。キリストはあるとき、この解釈はきわめて狭すぎることを教えるために、良きサマリヤ人のたとえを語られた(ルカ10章25~37)。ある律法の専門家はキリストに「私の隣人とは、だれのことですか」(10節)と尋ねているが、異邦人は入らないという自負心があったわけである。それでキリストは、ユダヤ人が嫌い付き合いも会話も避けていたサマリヤ人が、傷つき倒れていたユダヤ人の隣人となって助けるというたとえを話され、「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)と、ぎゃふんと言わせる。隣人とは近くにいる人のことだから、人種、血筋とかは問われない。仲間のユダヤ人だけが隣人という解釈は狭すぎた。それどころか、彼らは、ユダヤ人でない異邦人はかまわず敵の範疇に入れてしまった。すべての異邦人が敵なのだと。さらに、良いユダヤ人と悪いユダヤ人という区別を設け、悪いユダヤ人を敵の範疇に入れていた。悪いユダヤ人の代表は取税人。取税人は征服者であり敵国であるローマ帝国の手先となって税を徴収していたので、敵同然にみなされ、皆の嫌われ者になっていた。またユダヤ教のクムラン教団においては、共同体に選ばれていない者を闇の子として憎むべきであると教えていた。

このようにして彼らは、隣人の定義を狭め、愛さなくてもいい人たちを勝手に造ってしまったばかりか、「自分の敵を憎め」と、愛さないどころか憎しみを命ずるという度外れた教えを説いていたので、キリストは44節で、愛の積極的命令を与えられる。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(44節)。これ自体、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に含まれてしまう命令だが、当時のユダヤ人たちは、隣人とはノーマルなユダヤ人のことで、それ以外ではない、だからこの戒めは守っているという勘違いの中にいたので、それをわからせるために語られた。敵の中で最たる存在は、「迫害する者のために」とあるように、自分を迫害してくる人、攻撃してくる人、傷つけてくる人と言えるだろう。けれども隣人なので、やはり愛するのである。ことばと行いをもって愛すべき人である。

私たちは遠くにいる人を観念的に愛するのはたやすい。しかし、日々、自分の近くにいる人ほど愛するのが難しい。まして、その人が、ことばや態度で自分を攻撃してくる人であったのなら、なおさらである。ここで「迫害する者のために祈りなさい」とあるが何を祈るのか。「あの人の顔も見たくありません。もうやめさせてください」、そういう祈りはだれでもできる。何を祈るかは新約聖書を読めば明らかで、祝福を祈るということ。「悪をもって悪に報いず、かえって祝福を与えなさい」(Ⅰペテロ3章9節)。これは罪人の精神に反することだが、神の子どもとして実践しよう。

「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」(45節前半)。当時のユダヤ教の文書を見ると、明らかに敵を憎むことが正当化され、それが教えられていたことがわかるが、しかし、敵を憎むことは神の子どものすることではないと言われる。ここで言われていることは、敵を愛してこそ、神の子どもの証明であるということ。神の子であることを自負していたユダヤ教の教師たちをはじめ、当時のユダヤ人たちは、敵を憎むことは当然だとしていたので恥じ入らなければならなかった。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5章45節後半)。この自然界からの教えが何を言いたいかは明らかである。神の愛は差別しない。神の愛はすべてを含む。その愛はすべてに及ぶ。このすべての人に及ぶ愛に倣うようにと、続いて、取税人と異邦人を引き合いに出している。

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが得られるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか」(46節)。自分を愛してくれる者を愛すること自体、すばらしいことでも、取り立ててほめられることでもない。「何の報いが得られましょうか」と報いを期待するようなことでもない。そして取税人が引き合いに出されている。取税人は、さきほど述べたように征服者であり敵国であるローマ帝国の手先となって、ユダヤ人から税を徴収する、いわゆる裏切り者。それだけでなく、基準以上の税を同国民から絞り取ることをしていた。ローマ側には決まった額を治めればいいので、差額は着服。市民は自分が納めるべき正当な税額を調べることができないため、額が多すぎるんじゃないかと思いつつも、言われるままに納めるしかなかった。もし抵抗しようものなら、取税人のバックに控えているローマ兵が出て来て、何をされるかわからなかった。少々、ヤクザっぽい。ということで、取税人以上に邪悪なユダヤ人はいないと思われていた。「その邪悪な人々でも、自分を愛してくれる者を愛している。だからそれ止まりならたいしたことはない。あなたの敵を愛してこそ意味がある」というわけである。

「また、自分の兄弟にだけあいさつをしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするのではありませんか」(47節)。「あいさつ」というのは、相手に好意を示すもの、受け入れていることを示すもの、歓迎を表わすもの、温かい祝福の精神の表れである。ここでキリストが引き合いに出した異邦人は、ただ外国人ということではない。異邦人は、ユダヤ人が敵視し、蔑視し、見下げている存在である。「あなたがたが見下げている異邦人ですら、あいさつを普通にしている。だから、あなたがた同志であいさつしていることは格別なことではない。敵を祝福しなさい」。ユダヤ人の通常のあいさつのことばは「平安があるように」で、それは相手を祝福することばであった。47節を積極的に私たちに適用するならどうなるか。敵にも進んであいさつせよ。自分にいじわるする人、自分と口を利いてくれない人、自分を無視するような人であってもあいさつせよ、となるだろう。

ここまでをまとめよう。ユダヤ人たちは異邦人などを敵として憎んでいた。しかし、神の愛はすべての国民、すべての人々に及ぶ。一国民、一民族、また特定の人々や共同体にしか及ばないのではない。ご自身の民を迫害する敵にさえ及ぶ。神の愛から切り離されてしまう者はいないことは45節の自然界からの教えからも明白である。神の愛は普遍的である。そして今見たように、自分を愛してくれる者、自分の兄弟だけにしか及ばない愛なら、特別のことはないのである。私たちは神の愛に倣うように召されている。

そのことが48節で言われている。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」。神のような完全が言われている。それは今見てきたように、愛における完全であることがわかる。「だから」と訳されていることばは、先立つものから引き出された結果を導くことばである。よって、48節は、それ以前の節の結語となっているということがわかる。ではどの節からの結語になっているかということであるが、文脈上、直接的には43節からの愛の教えの結語であることがわかる。また21節からの律法の解釈の教え全体の結びの句として採ることもできよう。

そして原文では「あなたがたは」が強調されており、天の父のような完全を目指すことがキリストの強い願いであることがわかる。ある人たちは、前後の文脈を考えずして、この地上で罪なき完全に達することを教えていると受け取る。しかし、そうではないことは、「心の貧しい者」「罪を悲しむ者」を幸いとする5章冒頭の幸いの教えや、6章12節で、悔い改めの祈りをするように教えていることからもわかる。また、パウロも、「私はすでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして追及しているのです」(ピリピ3章12節)と、地上での完全を否定している。

ここで言われている完全は、文脈が示すように、すべての人に対する愛における完全を示している。この完全な愛は第一に、すべての人に及ぶ、すべての人を包み込む愛であり、憎む者や迫害する者さえ含む愛である。当時の日常用語はアラム語である。ある学者は、「完全」というギリシャ語の基礎となった、キリストがこの時に使用したアラム語は、「すべてを含む」という意味をもつことばであったと推察しているが、そのような推察をせずとも、神の愛はすべてを含む普遍的愛であることが、文脈上からわかる。

この完全な愛は第二に、愛する範囲がすべての人に及び、すべての人を含むということだけでなく、その特性や特質において成熟しきっているということである。「完全」と訳されているギリシャ語は<テレイオス>である。目的・目標に到達するという意味をもつ。またそこから、十分な成長を意味する成熟の概念ももつようになった。文脈によって、<テレイオス>は、成熟、成人、大人と訳すことばである。私たちは確かに愛において成熟していかなければ、すべての人を愛する愛、敵さえも愛する愛に向かうことはできない。愛はすべての徳の筆頭であり、その他の徳を含むものであるから、愛を筆頭とするすべての徳の完熟性を求められているとも言える。赦し、忍耐、親切、柔和、等々。そしてこの愛が律法を全うする(ローマ13章10節)。

私たちは48節が実行不可能な、ただの基準でないことを覚えておこう。ここで神が「父」と呼ばれている。私たちはキリストを信じる信仰によって神の子とされている(ヨハネ1章12節)。神の性質、神の愛は、聖霊によって子どもたちに与えられている。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです」(ローマ5章5節)。そして、その聖霊をさらに求めることが言われている。キリストは「求めなさい、そうすれば与えられます」の教えの締めくくりに、「してみると、あなたがは悪い者であっても、自分の子どもには良い者を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11章13節)と言われた。だから、私たちは苦闘する様々な生活の現実の中で、簡単にあきらめたりしないで、祈り、聖霊の助けを求め、神の愛に倣うことを求めていきたい。

ある人は、「愛をもたなければならないことはわかる。それにしても、『完全』という基準を罪人である私たちに求めるなんて、なぜ?」と、この48節のことで、神に訴えて祈ったそうである。そして分かったことは、父は子に自分に倣うことを求めることは当然なのだということであった。私たちは父なる神の子どもである。だから私たちは子どもとして、父なる神の願いを受けとめ、神のような愛に近づくことを求めたい。

その際、私たちは、次のことにも注意を向けたい。私たちは、キリストが再臨された時、栄光の姿に変えられ、完全にされると言われている。しかし、この人間が到達した完全は、神の完全と無限の隔たりがあることも覚えておこう。この事実を覚えるならば、キリスト者にとり、これ以上の成長の余地がないということは、将来においてもあり得ないのである。

さあ、私たちは、今日の戒めを実践することを心がけよう。愛さなければならないとわかっている人たちとはだれだろうか?隣人とはだれだろうか?愛しにくくて困っているという人とはだれだろうか?人間関係が難しいと感じてしまう人とは誰だろうか?敵のように感じてしまう人とはだれであろうか?そのような人たちと距離を置こうとする心が私たちには働く。しかし、そういうことだけでいいのだろうか?まずは目の前の現実を受けとめて、今日の教えを実践すべく、主に愛を求めることから始めよう。