今日の教えは、ユダヤの民が復讐、仕返しを正当化していたという事実に端を発している。今日の世界でも復讐、仕返しの精神は正当化されている。キリストはそうした精神に鋭く切り込んでいる。

「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(38節)。『目には目で、歯には歯で』は出エジプト記21章24~25節をご覧ください(レビ24:20参照)。これは一般に「同害報復法」と呼ばれている。これは前18世紀のハムラビ法典にも見られる教えとして有名である。さて、聖書において、この戒めは何を意味するのかということだが、民事裁判の領域のことが言われている。個人の報復の問題ではない。裁判というものは公正を欠いてならない。犯罪に対しては正当な罰を与えなければならない。「目には目で、歯には歯で」の重要な目的は、極度の行きすぎた裁きをなくすということ。どうしても個人的感情から、行き過ぎて、公正な判断を欠き、やりすぎるということが起きてくる。それこそ倍返しの復讐の精神から。この戒めは、そうした行き過ぎがないように制限を与える。裁きは行き過ぎてはならない。その害に見合った裁きでなければならない。その違反にマッチしたものでなければならない。人間は罪深いので、何かをされたというとき、自己中心的な過剰反応に出てしまいやすい。怒りと復讐でとことんやり込めたくなってしまう。しかしながら、自分が人に犯した犯罪に限っては、刑を軽くしてもらうか、見のがしてくれることを願う。人間は自己中心にできている。自分に甘く他人に厳しい。だから公正な裁判、裁きが必要とされる。そのための律法である。それを理解していただければ、この戒めは仕返しの勧めでないことが分かっていただけよう。箴言にはこうある。「『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない」(箴言24:29)。「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ」(箴言25:21)。聖書は、公正な裁判を命じているが、個人的仕返しは禁止している。

にもかかわらず、ユダヤ教徒たちは、民事裁判のことが言われている同害報復法を誤用した。すなわち、律法の教師と言われているラビたちは、個人ひとりひとりを事実上、裁判官、陪審員、刑の執行人であるかのように認めてしまったがために、結局はこの戒めを、個人的仕返し、復讐を許す戒めにしてしまっていた。裁判での裁きの教えは個人的復讐の許可にすり替わっていた。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(39節)。このキリストの教えは、流れから、暴漢に襲われてもされるままにしなさいとかいう教えではないことは明白である。仕返しはしない精神について言われている。「悪い者に手向かってはいけません」の「手向かう」は、「敵対する」とか「逆らう」という意味のことばだが、この文脈では、自分に悪を働く者に対して、仕返しをしてはならないということである。この教えが、続いて絵画的に言われている。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」の「右の頬」の「右」とは、尊厳、尊敬、名誉を意味した。その「右の頬」を打つという。ユダヤ人にとって、顔をたたく、打つというのは、最も体面を傷つける侮辱行為を意味した。体のどこか一部を打つというのはその人の体を傷つけるものだが、頬を打つというのは体面を傷つけ、その人の人格に打撃を与えるものであった。それはその人を辱しめ、蔑む行為である。奴隷でさえ主人の手で頬をぶたれることは少なく、たたかれる場合、背中にむちが当てられた。だがこの場合は頬、しかも右側。右の頬は人格の尊厳のシンボルのような部位。ここを打たれるのが最も屈辱的。右の頬を打たれてなお左の頬を向けるという行為は、憎しみ、恨みから解放され、仕返しをする精神から解放されていなければできない。もちろん、これは悪や不正に目を瞑れということではない。キリストは裁判の席で役人から平手打ちを食らった時、抗議した(ヨハネ18:23)。悪は悪なのだ、不正は不正なのだとはっきりさせることは良い。けれども、キリストは肉体的に恥かしめを受けたり、あざけられたりという個人攻撃に対して無抵抗だった。「そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか」(マタイ26:67,68)。「ののしられてもののしり返さず…」(Ⅰペテロ2:23)「私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」(イザヤ50:5,6)。それどころか、キリストは十字架上でどう祈られただろうか?「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです」(ルカ23:34)。私たちが自分の十字架を負ってキリストに従うということは、周囲からの侮辱を受ける覚悟をするということであり、それは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」にならうことなのである。やられたらやり返せの精神から解放されていなければならない。私たちは仕返しを様々なかたちで行う場合があろう。それは必ずしも暴力によるとは限らない。言葉でいじめる、仲間外れにする、無視する、相手の悪いうわさを言いふらす、場合によっては裁判にかける。裁判にかけられてしまうことは仕方がないが、裁判にかけるというときは、それがふさわしいことなのかどうか吟味が必要な場合がある。「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(Ⅰコリント6:8)。私たちは仕返ししたくとも、それをぐっとこらえていればよしというのではなくて、仕返ししたい精神そのものから解放されて始めて、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」の命令に従っていると言えるだろう。悪いことされたり、言われたりで、人間としての尊厳を傷つけられる、体面を傷つけられる、それはおもしろいことではない。しかし、私たちは人間の栄誉ではなく神からの栄誉を求める者たちである。左の頬を差し出す精神の持ち主こそ、神からの栄誉を受けるにふさわしい人物である。

「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」(40節)。これは泥棒に入られたら、なすがままにさせなさい、あれもどうぞ、これもどうぞ、と差し出しなさいということではないことは明らかである。「あなたを告訴して」と言われている。お金も所持品もない人物が裁判で罰金を要求されたとき、自分の着ているもので代用したということがあった。担保を求められたとき、着物を渡すということがあった。しかし、その場合でも制限が設けられていた(出エジプト記22:26~27)。

当時の小作農民は、腰のあたりまでくる、たっぷりとした下着は何着か所持していたが、上着はだいたい一着だった。この上着はコートの役目を果たすだけでなくブランケットの役目を果たしていた。夜には夜具として欠かせない。だから、下着を与えても上着まで与えることは要求されなかった。債務者であっても上着は保証された。しかし、その裁判でも要求しないただ一着の「上着もやりなさい」ということはどういうことか。これは、憎しみ、恨み、不快、立腹にとどまっているな、仕返しするなという消極的教えから、一歩先に進んだ教えが言われている。手向かわない、仕返ししないにとどまらない。嫌な相手に自発的に与えるという積極的行動が命令されている。法的には下着を与えればそれで済むのに、不満がたまっている相手のために、法が要求しないものまで与えてしまう。良い意味での倍返しをするような精神である。そのことにより自分は大きな犠牲を払うことになる。でも、損してもそれをせよと言われている。どれだけ相手から取れるかを考えるようなこの世にあって、どれだけ損をしたとしても、相手のことを考えて自発的に与えるというのは勇気のある愛である。しかも好きではない相手のためにである。これはまた天に宝を積むことである。

私たちは裁判にかけられるとか、そういうことまではないかもしれないが、自分の権利を主張する争いに巻き込まれることがある。損得の争いである。そうしたときに、この教えを思い出したい。大事な大事な上着のようなものでも、与えるのである。

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(41節)。聖書の舞台イスラエルはローマ帝国の支配下にあった。被征服民である住民は、ローマ兵に強いられたら、彼の荷物を1ミリオンの距離を運ぶ義務があった。強制労働の義務である。こうして労力と時間を犠牲にされたわけである。これは迷惑で腹ただしい話である。「1ミリオン」とはメートルで計算すると、正確には1478.5メートル。つまり約1.5キロ。当時、ローマの税だけで兵士たちを養うには十分ではなかったので、兵士たちを助けることを住民たちに義務付けたらしい。一例はマタイ27章32節に登場する。そこを見ると、クレネ人シモンがキリストの十字架のおそらく横木を、むりやり背負わされ、運ばされたことが書いてある。被征服民は予定外の行動に巻き込まれて、多くの人はいやいやながらやったであろう。いやいやながらというのは、予定が狂ったとか、時間を取られるとか、重くて疲れるとか、そういうことだけではない。強制してきた相手は敵国の人物である。だれが敵を助けたいだろうか。よって、この箇所は、敵が求める以上のことをする、という教えになる。「いっしょに二ミリオン行きなさい」。敵に自発的に協力して、求められる以上のことをする。一つと言われたけれども二つ。仲間のためでもなんでもない。敵のためである。敵が求めていないことまでやって親切にする。敵を助ける。先ほどと同じく勇気のある愛である。こんな愛を世界中の人が同時に実践したら、事実上、敵なんていなくなってしまう。「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは」と、私たちは人に何かを強いられ、それが自分がすべき義務とわかっていたら、この戒めを思い浮かべたい。二ミリオン行くとは、もはやそれは義務ではない。それは自由な愛の世界である。

「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(42節)。これは何が想定されているのだろうか。主に貧しい人たちのことが想定されていると思われる。聖書は特に貧しい人に善を行うことを命じている。「あなたの神、主があなたに与えようとしている地で、あなたのどの町囲みのうちでも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また、手を閉じてはならない」(申命記15:7~8)。(出エジプト22:25)(箴言14:31;19:17;28:27)。

もちろんこの命令は、相手が求めるものを何でも与ることではない。私たちが、愚かで自己中心的要求に対して何でも応えていたら、それは罪の片棒をかつぐことになってしまう。肝臓を患い、脂っこい食べ物を医者からきつく禁じられている入院患者に、天丼食べたいからこっそり持ってきて欲しいと頼まれ、持っていくことはもちろんいいことではない。相手のわがままに聞いていたらきりがない。依存症患者に対して、この人はわたしが尽くさなかったらダメになると相手にべったり尽くすと、逆に患者の回復が遅れるということも良く聞く。貸す場合も同じである。「借りようとする者は」とあるが、古代と違って、現代ではお金の貸し借りが増えている。お金を貸す場合、必ずしもその人のためにならないことがある。貸してもいいものだろうかと熟慮したほうがいい。

この命令は、相手の必要を見きわめ、その必要に応えることが言われている。もし相手の求めるものが、その人にとって真に必要なものであるならば、その要求に応えるということである。相手の必要に応えることを心がけよう。そして、この最後の命令も敵に適用できるだろう。いや、敵のことも想定されているのかもしれない。これまで関係の悪かった人物に対して、求めに応じて何かをしてやるというのは、やはり勇気がいることである。けれども、それをやってこそ神の子どもである。

今日の教えは、衝撃的な表現で、衝撃的な教えであるため、有名な教えである。山にたとえると、登るには高すぎる山にも思えてしまう。けれども、生けるキリストに拠り頼みチャレンジしていこう。皆さんにとってむずかしいと感じる人物、自分を敵視しているのではないかと感じる人物、ひとりぐらいはおられるだろう。そして、そうした人たちとしょっちゅう顔を合せ、関わっていかなければならない。もしや身内かもしれない。同僚や上司かもしれない。ご近所の人かもしれない。いずれストレスを感じる人たちである。主の助けが必要である。今日のみことばを実践できるように祈ることから始めよう。