今日の箇所は誓いの教えについてである。皆様もこれまで何度か誓ったことがあるだろう。結婚の誓約、バプテスマ式での誓約など。また誓約書にサインもあるかもしれない。キリスト時代の特徴は、誓うのは日常的に行われていた日常行為だったということ。キリストは「決して誓ってはいけません」と言われる(34節)。私たちは今日の箇所を良くも考えもしないで読んでしまい、誓いは許されるのか許されないのかと、そこに関心が走るだけならば、今日の教えの要点をつかみ損ねてしまい、キリストに問題視された律法学者やパリサイ人たちと何ら変わりなくなってしまう。キリストの教えの要点はこうである。「真実を話し、約束は守る」ということである。古代もそうだが現代もことばは不真実となり、うそ、偽り、ごまかしで満ちている。広告、宣伝のごまかしは日常的で、契約もおちおちできない。虚偽や不正は、市場、政治、教育、宗教、あらゆる世界に蔓延している。もちろん、こうしたうそ、偽り、ごまかしのたぐいは神に由来するものではない。キリストは悪魔についてこう語っている。「なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8章44節)。それに対して神は真実を語り、誠実で約束は必ず守るお方。その神は、私たちにも、真実を話し、約束を守ることを求められている。もともと誓いというものは、真実を話し、約束を守らせるために神が人間に与えた手段の一つである。ところが、ユダヤ教徒は、誓いの本質的な意味を骨抜きにし、破ってもいい誓いを発明してしまった。破ってもいい誓いなんてもはや誓いではない。ユダヤ人の間では、広場その他で、破ってもいい誓いが日常的に、頻繁に使われていた。誓いとは一生の間に何回かするかしないかという厳粛な行為ということではなくなっていた。それは日常行為となっており、人々はすぐに誓いを口にし、しかも誓いは拘束力を失い、軽々しいものになってしまっていた。つまりそれは偽善の誓いで、それを通して、不真実、うそ、偽りのたぐいの罪が蔓延してしまっていた。誓いとは真実なものであるはずなのに、誓いと反対の精神が人々の間を行き交うことになってしまった。誓いで思い出すのはペテロの誓いである。ペテロはキリストが捕縛された大祭司の庭で、誓って、「そんな人は知らない」と言い、「いや、あいつの仲間だ」と詰め寄られた時は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めたことが記されている(マタイ26章69~75節)。これなども、ユダヤ人がすぐに誓いを口にするクセがあったことを物語っている。

「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」(33節)という教えは、聖書の誓いの教えがベースにある。「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ19章12節)。「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない」(民数記30章2節)。これらのみことばからわかるように、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」という教え自体に問題はない。だが、さきほど話したみことばから、奇妙な教えを作り上げていった。「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ19章12節)のみことばは、神ではなく、他の何かによって誓うならば、偽りの誓いにはならないと解釈した。また、「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない」(民数記30章2節)のみことばは、神に対してではなく他の何かに対して誓うならば破ることが許されると解釈した。これは人間のエゴが生み出した解釈である。神のみことばの真実性を、人間の罪深い、自己中心的な目的に適応させようとして、ゆがめてしまっている。こうしたことは往々にして行われる。

誓いとは何だろうか。誓いとは厳粛で神聖な宣言で、神を証人に立て、神の前で真実を断言することである。誓いを破る者は不真実とみなされ、裁きを受けなければならない。表現形式はどうあれ、誓いはすべて神の前でされるものである。辞典などを見ると、誓いとは、自分が話すことは絶対にまちがいないものであることの確証として、神、あるいは超人間的存在、あるいは神聖な対象に向かって厳粛な宣言あるいは証言をすることとして理解されている。だが、神を信じている者にとって、誓いとは神を意識してするものに他ならない。34~36節を見れば、誓う対象として、「天」「エルサレム」「頭」が挙げられている。これらは神ではない。神の被造物である。その被造物の中で、偉大なものからそうではないものへという取り上げ方である。誓いの拘束力は「天」であるとかなりあるが、「頭」までなると余りない。誓いの拘束力が余りないということは、事実上、果たさなくてもいい誓いということになり、誓う意味はない。彼らが、より偉大なものとみなす「天」「エルサレム」にしても、「神」ではないから、これらを指して誓う場合、誓いの拘束力は強いといっても、やはり誓いから解かれると考えた。だが、キリストが天に対しては34節で「神の御座」と言い、エルサレムに対しては35節で「偉大な王の都」、すなわち「神の都」と言っておられる。つまり、キリストが主張されたいことは、神の臨在はそこにあるのだ、だから神を指して誓っていることと同じなのだということ。いや、神の臨在はあらゆるところにある。「天にも地にも、わたしは満ちているではないか」(エレミヤ23章24節)。もちろん、人間の生活と行動のすべての領域に神の臨在はある。そして神という存在は、人間が神の名を出して話したことばばかりではなく、そうではないことばも聞いておられ、そればかりか、私たちが心の中でつぶやいたことばまで聞いておられる。神に聞こえないことばなどない。神はどこにでもおられ、あらゆることばを聞いておられる。だから、私たちのことばはすべて真実でなければならないということ。

今述べたように、神の臨在はあらゆるところにある。神の名前を口に出さずとも、そこに神は証人としておられ、目撃者としておられ、誓いのことばを聞いておられる。そればかりか、誓いの形式を取らないことばも、心の中でのことばも聞いておられる。神は霊的監視カメラでありそれはどこにでもあり、また神はすぐれた録音機で、心の中のつぶやきを含めて、あらゆることばを拾い上げる。この神が私たちのあらゆることばを秤にかけられる。私たちに求められているのは真実なことばを話すということである。この点においてもキリストが模範である。キリストはいつも真理を話された。そして大切な話をされるときは、「まことに、あなたがたに告げます」という表現を良く取られた(マタイ5章18節、他)。「まことに」は原語で<アーメン>。その意味は「真実」である。

さて、今日の箇所は、誓いは絶対にしてはならないということが言われているのだろうか。ユダヤ人たちは、日常会話の中で、自分のことばを印象づけるために、さきほど見たような誓いを頻繁に使っていた。それは軽率で偽善的な誓いである。ただの詭弁である。こうした誓いを戒めていることはまちがいない。そんな誓いはやめて、ただ真実を話すだけで十分である。34~36節で言及されている当時の誓いは、いわゆる聖書が戒めている「偽りの誓い」の部類に入る。

聖書全体からわかることは、広場その他の場所での日常会話の中で、先に見たような偽善的誓いをすることが禁止されているのであって、裁判その他の公式な場での誓いを禁じられているわけではないことがわかる。誓いそのものは正当的なものである。その理由を三つ挙げよう。

第一に、誓いという制度を与えたのは神ご自身であるということ。「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない」(申命記6章12節)。神はご自身の御名によって誓うように命じておられる。第二に、マタイ5章17,18節で「わたしが来たのは律法や預言書を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」とキリストご自身が語っておられるように、律法の一点一画でも決してすたれることはないのだから、キリストが誓いの律法そのものを廃棄されてしまうことはないということ。「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない」(申命記6章12節)。「あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない」(申命記10章20節)。これらが廃棄されてしまうだろうか。神は「偶像を拝んではならない」という偶像崇拝の戒めを、もうこの新約の時代、守ることはない、廃棄するなどと言われることがあるだろうか。それと同じことである。律法の一点一画でも決してすたれることはないのだから誓いそのものは有効である。キリストが裁判の席でどうふるまわれたかも知っておきたい。キリストは裁判の席で、生ける神によって誓うことを命じられた時、それに応答している(マタイ26章63~64節)。第三に、初代教会において誓いの形式が用いられていたということ。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません」(ローマ9章1節)。「私があなたがたに書いていることは、神の御前で申しますが、偽りはありません」(ガラテヤ1章20節)。パウロは「キリストにあって」「神の御前で」と語っている。

キリストは誓いそのものを全否定しているのではく、ユダヤ人が編み出した偽善の誓いを含んだ、日常的に軽々しく、クセのように行っていた、普段の誓いを否定しておられる。普段の日常生活では誓いはいらない。信頼されうることばを話すので十分なのである(37節)。そしてもし誓いが必要とされる公式な場では、自分の全存在をかけて、今自分が話していることは、キリストにあって、神の御前で真実なのです、と誓わなければならない。

37節後半を見ると、ユダヤ教が編み出した誓いの体系は悪であることがわかる。「・・・それ以上のことは悪いことです」。「悪いことです」と訳されていることばの直訳は「悪から出る」であり、キリストが非難した誓いの体系の起源は悪であると知る。うそをカバーするための誓いなんて悪でしかない。欄外の別訳では「あるいは『悪い者から出るのです』」となっている。起源は悪魔にあると解することもできる。よって、「それ以上のことは悪魔から出る」という訳もある。冒頭で紹介したように、キリストは悪魔について、「なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8章44節)と述べられた。偽りの起源は悪魔にある。

いずれにしろ、今日の教えのポイントは、私たちは真実を語り、約束は守らなければならないということにある。私たちがことばをどう用いるかにある。37節前半を直訳すると、「だから、あなたがたのことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』であれ」。「あなたがたのことば」と原文では書かれており、「ことば」<ロゴス>の真実性が問われている。普段話していることば、日常会話、スピーチ、メッセージ、現代では電話やメールも含まれてくるだろうし、手紙その他の文章も含まれてくるだろうが、それらは、うそ、偽り、ごまかしなく、真実で信頼に足るものでなければならない。

聖書での「ことば」の定義を調べるときに、ことばは真実なもの、ということがある。ところが罪の世界となってから、ことばは真実なものという概念が崩れた。そのことばは疑わしい、ことばだけでは信じられない、となってしまい、ことばの価値は低下してしまった。しかし、ことばはもともと真実なもの。ことばは実体をもち、発せられたことばは必ず実現する、ことばは真実であるというのが、聖書のことば観である。聖書のことばは誤りはなく、真実で、そこに書いてある約束はすべて実現する。ヨハネの福音書1章1節では「はじめにことば<ロゴス>があった」と、ことばの永遠的真実性が謳われており、そのことばとは神であり、キリストであると宣言されている。真実な神が発することばはすべて真実。キリストのことばには偽りはない。ことばにうそが含まれるとか、ことばだけでそれは実現しないとか、それは本来のことばのあり方ではない。キリストはことば本来の機能の回復を人間に願っておられる。現代においてことばは饒舌なものとなってきているが、ことば巧みであるかどうかではなく、真実を語ること、自分が語ったことは守ること、それをキリストは求めておられる。私たちも真実をキーワードに、ことばを使っていこう。