前回に続いて、キリストの律法解釈を学びたい。前回は21~26節までから、怒りは殺人罪に等しいことを教えられた。キリストは昔からの解釈が余りにも表面的なため、実質、罪を温存させてしまうものであることを明らかにしている。形だけ守ればそれでいいのだと言わんばかりの教えは、律法を守らせることにはならないことを明らかにしている。

今日は姦淫についての教えである(27節)。「姦淫してはならない」という戒めは、「人を殺してはならない」同様、モーセの十戒に登場している(出エジプト20章14節)。律法であるモーセ五書(トーラー)を見ると、姦淫の罪に対しては基本的に死罪が言い渡されることがわかる。その裁きは重い。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわち隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」(レビ20章10節)。キリストは、この姦淫の罪とは何かを問い直す。そして実際の行為に至らない情欲も姦淫の罪だと明言している。古代の人々は、実は、情欲は健康的で普通のものだと考えていた。しかしながら、ユダヤ人は厳しい見解をとっていた。「見目麗しい女から目をそらせ。人妻の美しさに見とれるな。多くの者が女の美しさに惑わされ、愛欲を火のように燃えあがらせる」(シラ書9章8節)。このような教えは、律法学者もパリサイ人も知っていた。しかし、キリストはもう一歩、踏み込んだ表現をとられる(28節)。「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」。「すでに」と姦淫の事実を告げておられる。「すでに」心の中で犯したのだと告げておられる。

「情欲を抱く」ということばは、「渇望する」「ひどく欲しがる」という意味のことばである。このことばはモーセの十戒の最後の戒めである出エジプト記20章17節に登場している。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻・・・すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」。キリスト時代の第十戒のギリシャ語バージョンでは、「あなたは隣人の妻を欲しがってはならない」で始まっている。この「欲しがってはならない」の「欲しがる」が「情欲を抱く」ということばである。第十戒はむさぼりを戒めているわけだが、だから、情欲を抱くことは、むさぼりの罪なのだということがわかる。

このむさぼりである「情欲を抱いて女を見る者」が、見た時にすでに心の中で姦淫を犯したとされるのだが、ここで「見る」と訳されていることばは、現在分詞で、見るという継続したプロセスに言及している。この用法において、偶発的に目に入ったとか、ちらっと見たとか、一瞥したとかいうことではなく、意図的に、故意に見つめること、凝視すること、注視すること、まなざしを注ぐことを意味する。そして「見る」に付随して使用されている<プロス>という前置詞は、「目的に向かって」というニュアンスのことばで、その目的とは情欲を満たすことである。私たちは、美しいものが目に入ったとか、素敵なものを素敵なものとして見るということ自体、問題とされるのではない。キリストは美しいものに関心を払うな、美しいものを美しいと認知するなと言っておられるのではない。もしそうなら芸術は成り立たない。今観たように、むさぼりを満たすために、その目的で、見つめてしまうこと、目を離さないことが問題視される。使徒ヨハネはヨハネの手紙第一2章16節で「目の欲」という表現をとっている。目の欲は、それを所有することを求め、飲み込むようにして見てしまう。浸るようにして見てしまう。それがいけない。

古代の人たちも、この目の欲について知っていた。そこで既婚のユダヤ人女性たちたちは、なるべく頭を覆うことが求められた(イスラム教の女性たちもしかり)。これは一つの知恵かもしれないが、しかしキリストは、責任の所在を情欲を抱いて見る側に置いている。これまで姦淫の問題で捕え方がゆがんでいたのではないかと思われることに、対象の人格的価値がある。女性に関して述べると、見て悪いものであるかのように、誘惑の基で悪であるかのように捕えられてしまうことがあった。悪いものは見るなと。だが問題の所在は見られる側にあるのではなく、どういう風に見てしまうかという見る側にある。見る側の見方が悪い。情欲を抱いて見ることが問題なのである。情欲は愛と正反対である。情欲は欲望の対象として相手をみなし、相手を非人格的なものにしてしまう。神のかたちに造られた尊い存在として見、接することを忘れさせる。けれども、愛は、相手を神のかたちに造られた尊い存在として見、相手にとってベストであることを求める。情欲はむさぼりで、それは自己中心的で、自分の欲望を満たすことにしか関心はない。けれども愛は、その反対で、相手の祝福を求める。愛は相手の価値を正しく認め、敬い、大切にし、相手にとって真の意味で必要なものを与えようとする。だから愛は姦淫しない。

現代においては、実際の行為の姦淫さえもが、必要なふるまいで、相手を愛していることなのだとこじつけされ、正当化されている。アメリカではすべての州で同性同士の結婚まで合法化されてしまった。しかし、もっていい関係は男女の夫婦間だけである。結婚とは一心同体の関係になることで、パウロは夫婦間の務めがあることを述べている。「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい」(Ⅰコリント7章3節)。しかし、それ以外の関係はすべて姦淫である。結婚前であるか結婚後であるか問わず、許される関係は結婚した配偶者同志だけである。この点においてヨセフとマリヤは模範的であった。ヨセフはマリヤが結婚前にみごもったことを知り、大変なことになったと悩んだ。しかし、御使いにより、聖霊によって身重になったことを知らされ、その悩みから解かれる。ヨセフが悩んだのは、結婚前に貞節を失うことは神の前に重大な罪という認識があったからである。またそれは神の裁きをもたらすと。ヨセフはイエス様がお生まれになるまで、マリヤを知ることはなかったとも書いてある(マタイ1章25節)。ヨセフの誠実な態度を見る。

姦淫は人の心を満足させてくれるように思えるが、それはみせかけにすぎない。その良い例がヨハネ4章に登場するサマリヤの女である。五回の離婚を経験し、六人目の男と同棲していたサマリヤの女。彼女の心は満たされないままであった。そればかりか、姦淫の罪で心は憔悴しきっていただろう。

キリストは今日の箇所において、姦淫の本質である情欲に迫っている。情欲をもって相手を見ること自体が姦淫で、そして、それは恐ろしい神の裁きを招く。人間の法廷では、怒りの罪同様、心の中で犯した姦淫を裁いたりしない。しかし、神はそれを重罪として裁く。それを暗示しているのが、29~30節である。ここでは「ゲヘナに投げ込まれる」「ゲヘナに落ちる」という表現がある。永遠の滅び、永遠の刑罰の描写である。地獄での刑罰と言い換えることができよう。

キリストはこの恐ろしい裁きを避けさせるために、つまずかせる右の目をえぐり出して捨てたり、右の手を切って捨てたりしてしまいなさいと命じている。右の目は、ユダヤ文化において、その人の最善の視覚を意味した。右の手は、その人の最善の能力を意味した。しかし、右の目をえぐってところで、まだ左の目がある。右の手を切ってもまだ左の手がある。それにまた、目をえぐったり、手を切ったりしたところで、情欲はなくならない。情欲は心の問題であるから。これはあくまで誇張的なたとえである。しかし、文字通りこれを実践し、自分から障害者になった人たちも過去にいた。また、霊は善、物質(肉体)は悪という二元論の哲学の影響を教会が受けて、からだを鞭打ったりする修行がカトリックなどでは長らく流行していた。けれども、キリストはそういうことを求めているのではない。肉体の切断が何かを解決するのではない。キリストは、姦淫の罪の重大さを思い、悪い行動に誘う罪の衝動をドラマテッィクに切断してしまうことを命じている。罪の衝動をきっぱりと切り捨てることを命じている。別の言い方をすれば、妥協なく、罪を徹底的に厳しく扱い、それと手を切ることを求めているということ。コリント第一9章27節に「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」とあるが、パウロは自分のからだを実際に打ちたたいたわけではなく、これは自分に厳しくあることのたとえである。一つの参考になる表現である。

キリストは姦淫の罪を厳しく取り扱うことを語られた後、姦淫との関連で離婚につて触れられる(31,32節)。結婚の制定は創世記2章24節にある。「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」。「一体となるのである」ということばは、直訳すれば「一つの肉となる」。それは剥がれない関係である。現代風に言えば、強力接着剤で張り合わせ一つの肉にしてしまうような関係である。それを引き裂くという行為は、当たり前ながら血が噴き出すような痛々しい不自然な行為となる。すなわち離婚は色々な意味で痛手となる。だから条件付きでしか、聖書は離婚を認めていない。ユダヤ人たちはどのようなケースにおいて離婚は許されるのかと論じ合ってきた。彼らが目に留めたのは申命記24章1節である。そこには、「妻に何か恥ずべきことを発見したため」、気に入らなくなったら離婚が許されることが書いてある。「何か恥ずべきこと」とは何かということを巡って様々な解釈があるが、恥ずべきこととは小さな問題ではないだろう。姦淫のたぐいという解釈もされていた。けれども、ユダヤ教のある学派は、それを料理が下手だとか器量が悪いとか広げて解釈してしまった。こうなると、別れたくなったら、どうにでも理由をこじつけてしまうことができた。

ここで、キリストは安易な離婚が姦淫につながることを話される(32節)。キリストは不貞以外の理由の離婚は認めておられない。キリストが認めないということは、神は認めないということ。だから、不貞以外の理由での離婚は、社会の法律上、離婚が成立しても、結婚を制定された神の前では結婚関係は継続していることになる。役所の書類にサインして判を押しても、法的に認められても、神の前では結婚関係は解かれていない。だから、その状態で再婚すれば、それは姦淫にしかならないということになる。姦淫ということばそのものの意味は、結婚相手以外の人との不倫を意味するが、神が認めない再婚は、不倫の情事を犯すことになるのに等しいということになる。キリストのことばから、神が認めない再婚による姦淫の罪がイスラエルでも常態的にあったことを伺わせる。律法学者やパリサイ人たちは、神が認めない離婚や再婚を認めてしまっていたと思われる。

さて、キリストがここで語る離婚、再婚に関する言及は、いわば神を信じている信者同志の関係のものだから、例外的に許される離婚については、新約の教えからも汲み取る必要があろう。パウロは、相手が未信者のケースについて許される離婚に言及している。Ⅰコリント7章15節を見よ。ここで和解の努力が実らず、相手が離れていく場合のことが言われている。わたしはこのケースを知っている。未信者のご夫妻の奥様がクリスチャンとなられた。ご主人は放縦というか放浪癖があって家に中々寄り付かない。奥様は純粋な信仰をもっておられ、謙遜で、忍耐深い方で、ご主人の帰りを待ち、ご主人の更生を願っていたが、実現かなわなかったようである。和解の努力をしても、離れていく相手に対しては「離れて行かせなさい」と言われる。またここで「平和を得させようとして」ということばから、現代のドメスティックバイオレンスの問題も考えることができよう。このケースにもかかわったことがある。信仰を持たれたある年配のご婦人から、聖書ではどのような場合に離婚が許されるのかと相談があった。事情を聴くと、結婚した娘さんが大変な状況にあった。夫が凶器を振り回し、おどしてくるのが日常的だった。凶器をいつも隠しもっている様子。このまま一緒にいたら殺されると、その娘さんは身を隠していた。もちろん彼女なりに努力し、一旦逃げ出しても、また戻って生活するということを繰り返していたが、また包丁を振り回され、これはもうだめだと思った。度が過ぎているケース。どうやらご主人は精神的に普通ではなさそう。話合いで夫婦を続けるレベルにない。このケースは、命が助かるには離婚しかない、離婚が最後の解決の手段というケース。

さて、今述べた離婚が許される三つのケース、不貞、和解不能、命の危険を感じるようなケースは、あくまでも例外のケースである。この世界に人間は男女しかいないわけだが、どのような関係性をもって生きるべきかは、それぞれの立場で、みことばからしっかり教えられていきたい。今日のキリストの教えのポイントは、私たちに姦淫の罪を避けさせようということにある。目での姦淫、肉体での姦淫を含めて。キリストが離婚の話を持ち出されたのも、安易に別れて、姦淫の罪を犯さないためである。姦淫の罪は重い。ゲヘナが待ち受ける罪である。ゲヘナという恐るべき代償を考えるようにとキリストは諭している。姦淫は心から始まる。情欲はむさぼりの罪で、人間を対象とするとき、姦淫となる。私たちは相手の人格をどう見ていくかがまず問われる。神のかたちに造られた尊い価値ある存在で、神に愛されている存在なのだと。そうであるならば不敬な思いで見ることはできないだろう。反対に、その人に対して神の祝福を願うはずである。そしてもし、罪の衝動が起きた場合は、断ち切るのである。

姦淫の罪を繰り返す人は愛情飢餓の場合が多いと言われる。神の愛をしっかり受け止めていない人は、人間的なものに依存しやすいと言われる。「神は愛です」と言われる愛の神との交わりを何よりも尊ぼう。私たちのたましいの真の渇きは神だけがいやすことができる。また、私たちは自分が弱い存在であることを認め、「試みに会わせないで、悪からお救いください」と日々祈ることも肝要である。