今日のテーマは「怒りについて」である。私たちは怒りというと、心の緊張状態とか、ストレスとか、負のエネルギーといった程度のことで済ましてしまうが、キリストはそうではない。

前回は、聖書の教師であった律法学者、パリサイ人たちは、律法を形式的に、外面的に守ることに終始してしまっていたことについて触れた(20節)。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら」というのは、明らかに、当時の聖書教師たちは律法の外面(そとづら)しか汲み取っていないことを暗示させている。そこでキリストは、律法の精神を汲み取って守るようにと、律法の真の解釈をしてみせる。

21節から48節まで、六つの律法を選択して、その意味を教えている。それは律法学者やパリサイ人のそれとは違っていた。今日は「人を殺してはならない」のキリストの解釈を学ぼう。この戒めは出エジプト記20章13節に登場する。ユダヤ教の伝統では、殺人というのは人の肉体のいのちをとることを意味した。それ以上ではない。だから、それを外面的に守っていれば義なのである。律法の内なる意味にまでは及ばなかった。そういうことだから、律法学者やパリサイ人たちは、ひとりよがりの義に甘んじていた。また彼らを聖書の教師と仰ぐユダヤ人たちは、律法学者やパリサイ人たちは、殺人の罪だけは犯さないだろうと考えていた。彼らはこの罪を犯すはずはないと。しかし彼らも内なる態度ではそうではなかった。

「昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(21節)。この場合のさばきとは、地上の法廷によるさばきのことと思われるが、多くの人は、この罪について自分は問題ないと、自分で自分を義とする自己義の世界にとどまっていた。しかし、キリストは、他者に対する怒り、憎しみ、悪口は、殺人の罪であることを告げ、さばきを受けなければならないことを明言する。そして、そのさばきとは神の法廷でのさばきである。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(22節a)。腹を立てるという態度で、地上の法廷はさばいたりしない。人間の法廷はさばかない。しかし天の法廷は、すべての内なる態度をさばく用意がある。怒りも殺人の罪としてさばかれる。私たち人間は心に深い感情をもち、怒り、憎しみといった感情をもつ。それらは相手が死ぬことを望む感情である。どうにか理性で抑えているだけで、また機会がないだけで、実際の殺人に至らないだけである。隣人愛に反する怒りは殺人の始まりである。使徒ヨハネは語る。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。言うまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです」(Ⅰヨハネ3章15節)。

社会学者や心理学者は、憎しみは他の感情以上に殺人へと人を導くことを報告している。怒りの延長線に憎しみがある。怒りが憎しみを導き、殺人に至るという見方もされる。怒ったときすでに憎しみをはらんでいるという場合のほうが多いかもしれない。怒りと憎しみは破壊的な感情である。それは殺人に等しい。いや、心で犯す殺人である。それを素直に認めなければならない。律法学者やパリサイ人たちのように自己義にふけり、自分を欺いていてはならない。

聖書はすべての怒りを禁じてはいない。正義の怒り、義憤というものを認めていて、それはキリストが宮きよめの事件の時に表わした(マタイ21章12~13)。キリストがここで問題にしている怒りとは、敵対的な感情としての怒り、憎しみにかられる怒り。いらだたせられたり、不快な思いにさせられた時、相手の人格をどうにかしたい思いにかられる怒り。恨みをはらむ怒り、うっせきした苦々しい感情を伴う怒り。「腹を立てる」<オルギゾー>ということばは、抱え込んで、ぐつぐつ煮えたぎらせて、という概念をもっている。このような怒りは殺人のフォームである。それは死のさばきをもたらす。

「兄弟に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます」(22節b)。「能なし」<ラカ>ということばは、ののしりのことばである。キリストの時代に普通に用いられていたアラム語である。現代では翻訳はむずかしいとされ、英訳では、そのまま「ラカ」と表記されることも多い。ラカは悪意のあることば、そしり、侮辱のことばである。「空っぽ」ということばから造られたのではないかと推測されており、「能なし」「空っぽ頭」「あほう」「間抜け」「とんま」、そういった訳が可能だろう。こういった侮辱のことばを吐く者は「最高議会に引き渡されます」。「最高議会」<サンへドリン>は、直接はエルサレムにある71人の議員により構成される議会のことである。祭司、律法学者、長老たちで構成され、裁判権をもつ。キリストもここで死罪を宣告された。しかしここでは天の法廷のことを意味していると思われる。サンヘドリンという最高議会を持ち出すことによって、日常的にやってしまうののしりが、いかに重大な罪なのか、それは死罪に等しい罪なのだということをわからせようとしている。私たちはののしってしまう相手とは、神のかたちに造られた価値ある尊い存在である。その人にとって頭にくる存在であっても。だからその相手をののしることは、神をののしっていることに等しい。だから重罪である。「だって頭に来たからつい」という弁解は通用しない。

「また、『ばか者』と言うような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれます」(22節c)。ある人が、ばかと言ってはいけないならアホはいいだろう、と言ったとか言わないとかいう話があるが、そうした問題ではない。「ばか者」<モーロス>は、「ばか者」「愚か者」といったことばだが、世俗のギリシャ文学では、「手に負えない邪悪な人物」に適用されている。ヘブル語の<マラ>から生じているとも言われるが、その意味は反逆すること。悪人に使われることばである。<ラカ>と<モーロス>の違いを挙げるとすれば、<ラカ>は頭の悪さに焦点が置かれ、<モーロス>は心の悪さに焦点が置かれていると言えるかもしれない。

ここでの「ばか者」ということばは、相手をかわいがっている意味での「おバカさん」とは違う。怒り、憎しみ、憎悪の感情から飛び出した黒いことば。その結末は「燃えるゲヘナに投げ込まれます」。「ゲヘナ」はエルサレムの南西にあるヒンノムの谷から生じている。そこはゴミ捨て場で、常に火が燃えているため、地獄を指すことばとなった。ここで人間を焼いたりしていたこともあった。この世の裁判では、相手をばか者と呼んで死刑判決は下らない。しかしここではもっと厳しいことが言われている。「燃えるゲヘナに投げ込まれる」とは、永遠の死、永遠の滅び、永遠の裁きである。悔い改めがなければ、この裁きからまぬがれることはできない。

これらのキリストのことばから、私たちは随分と罪意識が希薄なのだと思わされる。怒りは殺人なのである。そしてそれは重大なさばきをもたらす。私たちは自分で自分を安易に義としてしまうことをやめ、神の前にへりくだらなければならない。相手が悪い、誰が悪いと、そういう思いもいったん脇に置いて、自分の怒り、憎しみ、ののしりは殺人の罪であることを認めることから始めなければならない。

キリストは最後に、神との関係は他者との関係に依存していることを明かす(23~26節)。先ず、神さまは私たちが隣人と和解するまで、供え物を受け入れられないと言われる(23~24節)。この時の聴衆は主にガリラヤ人。ガリラヤからかなり離れているエルサレム神殿のことが語られている。ガリラヤからエルサレムの神殿に礼拝に出かけて、そこから戻って来るには数日を要しただろう。100キロ以上の距離と推定して良い。もし仲たがいしている人がガリラヤにいた場合、供え物をそこに、祭壇の前に置いたままにして、ガリラヤに戻って、まず仲直りするというのは難儀な話である。しかし、優先すべきは仲直りだと言われている。キリストの供え物の話は、実際の勧めであり、たとえともなっている。抑えなければならないポイントは、他者との関係が損なわれれば、神との関係も損なわれてしまう。だから先ず和解せよ、ということである。23節を見れば、怒り、恨んでいるのは相手側だけのような印象がある。では、恨まれている側に責任はないのかというのなら、そうではなさそう。大概の場合、関係の壊れというのは、両者に責任がある。その責任割合は別として。この場合も、恨みをかってしまうようなことをしたことが想定されている。故意にそうしたのではないにしても。だから和解が必要である。和解しないと、相手もよろしくない感情を抱えたまま、礼拝をささげることになる。礼拝は、すぐれた音楽、すぐれた祈り、すぐれたメッセージによって、よりすぐれたものになるのではない。礼拝はよりよい関係によって高められる。礼拝者の心が問われている。

続いて、キリストは裁判のたとえを用いる(25~26節)。ここも和解がテーマだが、刑罰に強調が置かれている。たとえはローマの裁判制度が使われている。被告人は裁判に向かう途上で、告訴人と話し合って、解決することができた。実際、裁判官の前に立つ前に和解が成立することもあった。それがベスト。もし被告人が、「私に非は全くない、あなたのためにやったことなのだから、わたしを訴えるなんて筋違い」と、かたくな強情に道中やっていたらどうなるか。和解が成立しないまま裁判となれば、罪に定められ、牢獄に入れられる。「一コドラント」(26節)とは、ローマの貨幣の小さな値だが、保釈金のことが言われている。聖書では罪は負債とされている。キリストはここで、他者との関係を損なわれたままにしておくと、神のさばきに会い、永遠の刑罰もまぬがれないことにもなるぞと警告しておられる。だから、和解のために努力を払うこと、それを遅らせてはならないことが肝要である。もしそれをしないで、自分の非に目をつぶっているままであるならば、神との関係は損なわれたままで、裁きはまぬがれない。もはやそれは、礼拝が受け入れられないにとどまらない。

ある人は、相手と話し合うプロセスで、可能な限り努力しても聞き入れてもらえないことはあるのではないかと、そういった疑問ももたれるかもしれないが、この箇所は神のさばきについて語っているたとえである。もし、赦しを請うても相手は全く受け入れてくれず、この世の裁判で死刑を申し渡されたとしても、本人が人の前で罪を詫び、神の前にしっかり悔い改めることができれば、神は赦してくださるだろう。ただ、自分の非を少しも認めようとしないで弁解に終始すること、和解を試みようとしないこと、それはよろしくない態度であることは覚えておこう。

そして、何よりも今日の箇所からは、怒り、憎しみ、ののしり、悪口のたぐいは、神の前で殺人罪に値することを、しっかりと心に留めよう。私たちは一日の終わりに、今日は腹を立てなかったか、憎しみを抱かなかったか、苦々しい思いを抱かなかったか、感情の動きを振り返って悔い改める時を持たなければならない。また口から人を非難する汚いことばを吐かなかったかもである。神さまは私たちの心を読み取り、思いを調べられるお方である。