今日のテーマは聖書についてである。聖書は不思議な書物である。一番古い部分は紀元前1300年頃に執筆されたわけだが、このように古いのにもかかわらず、今も世界のベストセラーとして読み継がれている。このような本は聖書以外にない。17節に「廃棄する」ということばがあるが、聖書に対する攻撃は歴史の中で繰り返されてきた。16世紀の宗教改革までは、聖書本文は、初めパピルスに書き写され、後に羊皮紙に書き写すという時間と労力によって保存されてきた。これらの時代を通じて、聖書は多くの権力者に極度の憎しみの対象とされることが多かった。彼らは聖書を抹殺しようとしたが、聖書は保存され続けた。ローマ帝国時代、皇帝ディオクレティアノスやユリアノスは、権力で聖書を葬り去ろうとした。聖書を手にすれば極刑という時代すらあった。けれども聖書は保存され続け、読み続けられた。

聖書は新約聖書と旧約聖書に分かれているわけだが、キリスト誕生後の記録が新約聖書である。新約聖書はキリストの目撃者が生存中に書き上げられたということに特徴がある。この点、仏典とは違っている。仏典は釈迦の死後、何百年も経って、直接の目撃者が誰もいなくなってから編纂された書であるが、新約聖書はキリストの目撃者が生存中に書き記された。本日、私たちは、キリストの十二弟子のひとり、マタイが書き記した書を開いている。

キリストの時代、もちろん新約聖書はない。あるのは旧約聖書だけである。旧約聖書は当時、いくつかの呼び名で呼ばれていた。一つは「律法」である(18節)。ここでは旧約聖書全体の総称として「律法」と呼ばれている。また旧約聖書は「律法と預言者」と呼ばれていた(17節)。ここでの「律法」とは創世記から申命記までの、いわゆるモーセ五書のことである。「預言者」とは、ヨシュア記からマラキ書までのことを指す。正式な、丁寧な呼び名では「律法と預言者と諸書」と呼ばれていた。「律法」は「トーラー」と呼び、モーセ五書を指す。「預言者」は「ネヴィイーム」と呼び、ヨシュア記から列王記までが「前の預言者」と呼ばれ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが「大預言者」と呼ばれ、ホセアからの12巻が「小預言者」と呼ばれた。そして詩編を中心とするのが「諸書」で「ケトゥーヴィーム」と呼ばれ、詩編、箴言、ヨブ記、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道者の書、エステル記、ダニエル書、エズラ記、歴代誌が入る。これが正式な分類である。

キリストが出現した時、キリストは旧約聖書を廃棄する異端扱いにされたようである(17節)。「廃棄する」と訳された「カタルオー」ということばは、他の箇所で神殿を破壊する意味で使われている(マタイ24章2節「くずす」、他)。元の意味は、破壊すること、地面に叩きつけること、壊滅すること。このことばは、無効にすること、台無しにすること、廃棄することという意味でも使われた。

なぜキリストは旧約聖書を廃棄するように思われてしまったのか。その主な理由は、キリストが律法学者やパリサイ人たちが守っていた「口伝律法」(口伝トーラー)に従わなかったからであろう。「口伝トーラー」とは、口伝えに伝わった律法ということだが、口伝トーラーはいわゆる書かれたトーラーの解説である。書かれたトーラーを実際に守るということはこういうことである、という解説である。書かれたトーラーを生活にどう適用するかを教えるものである。ユダヤ教の考え方として、書かれたトーラーは口伝トーラーによって完成され、成就されるということがあるので、口伝トーラーが非常に重んじられ、口伝トーラーは神のことば同様のものとされた。パウロが「私ははるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした」(ガラテヤ1章14節)と言っている「先祖からの伝承」のことである。ところが所詮、口伝トーラーは人間の解釈なので、愚かしい戒めが生み出されてしまった。例えば、安息日に仕事をしてはならないという戒めに関して、安息日に人をいやすのは仕事とみなされるから禁止、2キロ以上歩くのも仕事とみなされるから禁止、ものを空中にほうり上げるのも仕事になる等。こうして律法の精神である「神を愛し隣人を愛する」ということが、むしろ廃棄されてしまっていた。彼らは具体的に口伝トーラーの613の戒めを守ることに神経を注いでいた。彼らは自分たちが作りだした些末な規則を守ることに拘泥し、それで自己満足していた。イザヤはこういう時代の到来を見越して、「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」ということばを書いている(イザヤ28章10,13節)。またこうも言っている。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」(イザヤ29章13節)。彼らの教えは人間の命令にすぎず、神のそれとはかけ離れてしまっていた。律法の根本的精神はないがしろにされ、細かな規則に従えばそれでよしとする世界になってしまっていた。まさしく「木を見て森を見ず」である。キリストは明らかに、人間の命令にすぎない口伝トーラーの中の無意味な戒めには従わなかった。弟子たちにも従わせなかった(マタイ15章1~3節参照)。

キリストは聖書を廃棄するためにではなく、「成就する」ために来たことを主張される。聖書はキリストによって成就した。いくつか述べると、キリストは道徳律法を成就した。道徳律法の基本原理はモーセの十戒であるが、キリストは完全にそれを守り、罪のない生涯を送られた。21節以降を見れば、キリストはモーセの十戒の一部の戒めに触れ、表面的に形式的に守っていてもだめであるということを教えている。21節の「人を殺してはならない」という戒めの解釈を見れば、人を憎んだり、怒ったりすることも殺人と同罪であることが言われている。キリストは表面的だけではなく内実的に守らなければ守ったことにならないと言われ、自らそれを実践する生涯を送られた。キリストはヨハネ1章1節で言われているように「ことばなる神」。神のことばそのもののお方で、このお方が神のことばである聖書を正しく解き明かし、神のことばを正しく生きられた。ローマ13章10節には「愛は律法を全うします」とあるが、キリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、愛を完全に表わされた。

キリストは儀式律法も成就した。儀式律法にはいけにえの制度、祭司の働き、過ぎ越しの祭りなどの行事について記されている。キリストは罪を赦し、罪を贖うためのいけにえとなり、また神と人とをとりなす祭司となり、神殿となり、すべてのすべてとなられた。このことについてはヘブル人への手紙に詳しい。実に、旧約時代の祭儀律法は、キリストとその救いのみわざの予型、予表にすぎなかった。すべてはキリストによって成就した。キリストが十字架についた時、聖所と至聖所を隔てる神殿の幕が破れたことが記されている(マタイ27章51節)。それは、キリストによって人々が神の前に出ることができるようになったことのしるしであった。キリストによって祭儀律法は成就したのだから、もはや祭儀律法に従う必要はなくなった。

そして預言ということがある。旧約聖書はキリスト預言の書である。これまで、キリストの降誕、キリストの活動、キリストの十字架、復活、昇天の預言はひとつもたがわず成就した。今後は、キリストの再臨、キリストが王として治められる御国の訪れがあるが、それらもすべて成就する。聖書の中心はキリストであり、聖書の本体はキリストである。

キリストは18節で、聖書すべてが成就すると言われ、神の啓示の書である神のことばとしての聖書の権威を訴えられる。キリストは「全部が成就されます」と言われたことにより、聖書は単なる人間の書にすぎないということを否定されただけではなく、聖書のすべてのことばが神のことばとして権威があることを訴えておられる。しかし、当時にあって、福音書に良く登場するサドカイ派などは、正典としてモーセ五書までしか認めなかった。パリサイ派も一部認めようとしなかったり、その聖書解釈も先に少し触れたように陳腐なものが多かった。

キリストは18節において「律法の中の一点一画も決してすたれるようなことはありません」と強調して、聖書のすべてのことばが神のことばとして誤りなく権威があることを擁護しておられる。キリストが言われた「律法の中の一点一画」の「一点」とは、原文のギリシャ語では「イオタ」で、「イオタ」とはギリシャ語のアルファベットの一番小さい小文字が想定されていて、ヘブル語のアルファベットの中の一番小さな文字「ヨッド」にあたる。筆記体では英語のコンマに似ている。「一画」というのは、ヘブル語のアルファベット文字の違いを区別する上で大事な、小さなひげのようなものである。ヘブル語のアルファベットの「ヴェイト」と「ハフ」の二つの文字の違いは、ひげのようなものにある。「ダレス」と「レイシュ」の違い、「ヴァヴ」と「ザイン」の違いも同様である。キリストは、このように聖書の文字の「一点」(ヨッド)もひげのような「一画」も聖書が完全に成就するまで失われるものではないと言っておられる。

このキリストの主張から、私たちの聖書への態度は決まってくる。聖書のことばはどれ一つ疎かにできず、神のことばとして受け入れなければならないということ。そして「全部が成就されます」ということによって、予型や預言のみならず、神のさばきも成就するのだということを知り、人は神を恐れなければならない。神を恐れるとは19節が暗示しているように神の戒めに従うということである。

最後に、20節より、「律法学者やパリサイ人にまさる義」について教えられて終わろう。律法学者やパリサイ人は613の戒めからなる口伝トーラーを守ることに心を注ぎ、それによって義を獲得しようとしていた。彼らは口伝トーラーを守ることに神経質なまでに几帳面であった。私たちこそ義とされる人たちだという自負心があった。周囲もそう見た。けれども律法学者やパリサイ人たちの問題は、形式的に表面的に律法を守っていれば義とされるかのようなスタイルだった。そしてそれは行いによる義の追求だった。けれども現実は行いによっては誰も義とされない。人間の義は不潔な着物のようなものだから(イザヤ64章6節)。ガラテヤ人への手紙2章16節を開こう。律法は私たちの足りなさを自覚させ、罪を意識させる。行いによっては義に到達できない。義は私たちの罪のために十字架にかかられたキリストを信仰をもって仰ぐ時に与えられる。信じる信仰によって罪が赦され、キリストの義が私たちの義とされる。キリストを離れての義はありえない。

では、今日の箇所でキリストは「律法学者やパリサイ人にまさる義」と言われた時に、何を言われたかったのだろうか。信仰義認の教えだろうか。実は、「律法学者やパリサイ人にまさる義」とは、信じることによって受ける義が前提にあるにしても、そこに強調はなく、律法学者やパリサイ人以上の義なる生活のことが言われている。それはどういう生活なのだろうか。それは表面的に形式的に律法を守ろうとすることではない。次回から見る21節以降のキリストの律法解釈からわかるように、形だけ律法を守っていればよしとされるのではなく、心の態度まで問われ、それが律法学者やパリサイ人に勝っていなければならないということである。私たちはそう思うとビビッてしまう。自分には無理だと。しかし、律法学者やパリサイ人にまさる義とは、自分の力で義の生活を生き、義を達成することではない。キリストを信じて義とされた者たちは、どうされただろうか。ガラテヤ5章13~23節を見よ。キリストを信じた者は御霊を受けている。御霊の実を結ぶことができる。御霊を受けた者は23節後半で、「このようなものを禁ずる律法はありません」と言われているところの律法を実践することが可能とされた。私たちは今、18節で言われているようにユダヤ律法の下にはいない。けれども私たちは神の律法を無視して生きる者たちではない。ユダヤの儀式律法にはもちろん携わらない。それはキリストを指し示す影にすぎなかったから。今は、本体であるキリストに仕える身とされている。パウロはクリスチャンたちが守るべき教えを、ガラテヤ6章2節では「キリストの律法」と呼んでいる。それは旧約の律法と本質的なものは何も変わってはいない。律法とは愛の掟である。神と隣人を愛することが本質である。私たちはこの愛の掟を、キリストを信じ、キリストに結び合わされた者たちとして、キリストの御霊によって守る者たちとされたということ、いや守ることができるということである。御霊は私たちをキリストのご性質に与らせ、義の生活へと導いてくださる。

参考箇所をもう一箇所読んで終わろう。「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3章16~18節)。「人が主に向くなら」と言われている「主」とはキリストのことである。しかし続いて「主は御霊です」と言われており、キリストと御霊の一体性について言われている。私たちがキリストに向く時、キリストの御霊の働きを受ける。律法学者とパリサイ人にまさる義は、ここにある。私たちは御霊によってキリストを生きるように招かれている。キリストのみ教えを生きるように招かれている。カギは主キリストに向くこと、そこからすべてが始まる。