今日の箇所は山上の説教の中でも良く知られている教えの一つである。キリスト者の役目は何かという核心をついている。キリスト者でも性格は千差万別であるし、内向的な人、外交的な人と様々である。賜物もそれぞれ違う。しかし基本的な役目は同じである。今日の箇所ではキリスト者の役目について二つの表現で言われている。

一つ目は、「地の塩」であるということ(13節)。原文では「あなたがたは」が強調されていて、私たちの自覚を促そうとしている。クリスチャンは地の塩であるということである。今、塩分控えめとか、塩分は目の敵にされているようだが、塩分は人間に必須のミネラルである。ある男性会社員だが体調不良が続いた。体に力がない、疲れやすい。それが余りにひどいので医者に行って診断してもらったところ、塩分不足であることが判明した。奥様が気を使いすぎて、食事から極端に塩分を抜いていた。みそ汁だめ、しょうゆだめ…。塩分が不足すると、頭痛、めまい、吐き気、だるさ等の症状が出る。塩は細胞の働きに欠かせない。

塩の役目は様々あるが、今日の箇所からは、大きく分けて二つ考えることができる。第一に、調味料として食物に味をつけるということ。「味のない物は塩がなくて食べられようか」(ヨブ6:6)。つまらなく、うんざりしてくるどうでもいい会話は塩気のない部類に入るかもしれない。つまり人の益にならない会話ということである。不平、不満、文句、うわさ話、恥ずべきことば、とりとめのないことば、おごったことば、そしり、ねたみ、怒り…。こうしたものはやめ、隠し味としてみことばが生きている会話に取って代わり、人を益するものとならなければならないだろう。パウロは「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロサイ4章6節)と勧めている。その理由は前後の文脈を見ると、人々の心が福音に対して開くためであることがわかる。無益で人を不快にさせることばを語っていては、人々の心は福音そのものに対しても閉じてしまう。隠し味としてみことばが生きていることばを語っていきたい。

塩の役目は第二に、防腐剤として食物の腐敗を遅らせるということである。塩は酸化するのを抑え、菌の繁殖を抑える。保存食としての燻製や漬物は先人の知恵。この文脈では、この防腐剤としての働きに重点が置かれているのであろう。クリスチャンが地の塩であるというときに、前提として、この世は腐敗している、汚れているという事実がある。それは皆さんが現代人の道徳観、倫理観というものを考えていただければよくわかるだろう。塩は少量でも肉全体を引き締め、その影響力は大きいわけだが、同じように、クリスチャンは少数派であっても、社会に浸透し、塩のような役目を果たすことが期待されている。汚れを避けること、誠実であること、善を実行し、良い影響力を行使すること、こうしたことが地の塩の役目である。

塩は効き目があると言っても、たとえば、それは肉に擦り込まれなければ意味がない。私たちは、この世から身を離したり、逃避したりする気持ちで信仰生活を送っていたのでは、塩として機能しない。時に、ひっそりと、なるべくこの世と関係をもたないで生きようとするクリスチャンがおられるが、それは聖書的ではない。イエスさまは、悪評をかっていた取税人や罪人と言われる人たちと付き合っていた。イエスさまは彼らと交際したがゆえに、大酒のみの食いしん坊などと悪口さえ言われた。イエスさまは彼らの間で地の塩として機能していった。私たちもイエスさまを模範としたい。

この世で生きていく上での一つの危険は、塩気を失うことである(13節後半)。当時の塩は塩気を失うことがあった。今の塩は、塩化ナトリウムという科学合成物質で塩気を失うことはない。以前、テレビで、海水を蒸発させて塩を作るという古代から伝わっている製法を紹介していたが、イエスさまの念頭にある塩は、それとも違って、岩塩のことである。古代の塩は、海水を蒸発させて作ったというよりも、多くは、湿地から採ってきた岩塩だった。岩塩は不純物が多く含まれており、塩気を失うことがあった。そうなると、用がなくなり、道路に捨てられたりした。それは人々に踏みつけられるだけ。それはみじめな成れの果て。クリスチャンも塩気を失い、無力無益な存在になる可能性がある。塩気を失ったクリスチャンとは、効力なく、周囲におられるこの世の人と区別がつかない人、見分けがつかない人。もしかすると、このような人は、週の初めの日に神を礼拝するという証の行動さえも疎かにする人かもしれない。いずれ、この世と調子を合わせて生きている。よって、クリスチャンであるということが真に見えてこない。この人はこの世の腐敗に対する影響力はない。この世に同調し、妥協して生きているにすぎない。

地の塩を生きているクリスチャンは、周囲にピリピリ感を与えて疎まれることもあるだろう。それは傷口に塩をすり込むことを考えてみればわかる。今日の教えは、前回、10~12節で学んだ、義のために迫害されている者の幸いを引き継いでいる教えである。義の正反対が腐敗である。嫌われることがあっても、塩は塩として機能しなければならない。

さてイエスさまは、地の塩の教えを発展させて、二つ目の「世の光」の教えへと進む(14節前半/文語訳「なんじらは世の光なり」)。ここでも、原文においては、「あなたがたは」が強調されている。だから、私たちクリスチャンという存在は本来どういう存在で、どういう役目を担っているのか、イエスさまのことばに良く耳を傾ける必要がある。

「あなたがたは世界の光です」というときに、この世は暗いということが前提としてある。この暗さは罪の暗さ、義を失った暗さ、聖さを失った暗さ、愛のない暗さ、真理を失った暗さ、いのちを失った暗さ、そうしたすべてが入るだろうし、それは神から離れて生きている暗さに他ならない。イエスさまはある時、「わたしは世の光です」と宣言された(ヨハネ8章12節)。同様に、私たちも世の光である。パウロは語っている。「それは、あなたがたが非難されることのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2章16節)。光の役目は何だろうか。光も塩同様に殺菌効果がある。しかし、世界の光、世の光というとき、照らす、輝くという特徴に主眼が置かれているようである。光は暗闇を照らし出す。その光は真理の光、愛の光、聖い光、義の光となって、神を指し示す働きをする。

イエスさまは塩が塩気を失ったら意味をなさないように、光が隠れてしまったら意味をなさないと語られる(14節後半、15節)。「山の上にある町は隠れることができません」(14節後半)。山の上にある町はどこからでも良く見える。視界をさえぎるものはない。しばしこうした町は石灰岩の上に建てられていて、日中は太陽の光を受けてかすかに輝いたという。そして夜になれば住民たちがランプに火を燈したので、町の周囲を照らした。山の上にある町は逃げも隠れもできないばかりか、輝いて、周囲を照らし出した。

「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします」(15節)ランプは周囲全体を照らし出すために、燭台の上に置かれた。そのランプの光を隠すことができる「升」とは、穀粒を量る升のことで、容積は約8.75リッターある。この升をかぶせて隠してしまうことは、全く意味をなさない行為である。馬鹿げた行為である。

イエスさまが伝えたいことは明らかである。この世の人たちの目に、クリスチャンは光としてはっきり映る存在でなければならないということである。先の「地の塩」は、世の腐敗に警告を与え、それを止めるという、クリスチャンの消極的機能を教えており、また、世に同調し、妥協してしまうことへの警告となっていたが、「世の光」の場合は、暗闇の世を照らし出し、神を指し示すというクリスチャンの積極的機能を教えている。また、世から身を引いてしまうことへの警告となっている。光の役目は照らし、輝くこと、それ以外ではない。隠れクリスチャンは世の光であることをやめてしまっている。ナチスと戦った聖職者ボンヘッファーは言っている。「逃避して隠れることは、神の召しを否定することである」。

では、16節に目を落とそう。この節では、具体的に世の光として輝くとはどういうことなのかということと、世の光として輝く最終目標が言われている。ここでは、世の光として輝くことが「良い行い」をすることとされている。クリスチャンとしての旗色を鮮明にしても、それだけでは足りない。それにしても、良い行いとは何だろうか。旧約聖書には闇を感じる混沌とした時代を描いている士師記がある。そこでは士師記を特徴づける表現がある。それは、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」である。士師記はこのことばで閉じている。「めいめいが自分の目に正しいと見えるところ」なので基準は個人である。結果、士師記の時代はめいめいが自分勝手なふるまいをしていて、それをよしとしたために社会は混乱していた。罪意識が希薄であらゆる悪がはびこってしまった。やはり混乱していた時代のひとつに預言者イザヤの時代がある。こうある。「ああ、悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦味を甘み、甘みを苦味としている」(イザヤ5章10節)。イザヤの時代も、めいめいが自分勝手に生きていた時代であった。今の時代も「めいめいが自分の目に正しいと見えるところ」を行う時代である。自分勝手に、悪を善、善を悪、やみを光、光をやみとしてしまっている時代である。実はこのイエスさまの時代もそうであって、闇は深く、律法学者、パリサイ人たちは律法解釈を誤り、人の罪を助長していた。だからイエスさまは、21節以下48節まで、律法の真の解釈を行っている。イエスさまはみことばの本当の姿を人々の前に提示した。それを守れば地の塩、世の光になれるという流れである(21~48節は後日、じっくり学んでいく)。私たちは先ほど述べたパウロのことばを思い出そう。「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2章16節)。何が良い行いであるかは、みことばが啓示している。私たちは「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」を実践するのである。いのちのことばをしっかり握ろう。そうして「めいめいが自分の目に正しいと見えるところ」ではなく、「めいめいが神の目に正しいと見えるところ」を行えるようになろう。

そしてまた、私たちは誰に拠り頼んで良い行いをするかである。ローマ人への手紙3章には「義人はいない。ひとりもいない」(10節)、「善を行う人はいない。ひとりもいない」(12節)とあり、良い行いに対する罪人の無能性、無力性というものを語っている。今日の箇所で良い行いは光の輝きとされているわけだが、罪人のうちにもともと光はないし、罪人は光を創り出すこともできない。だからある方は、キリストが私たちを通して輝いて下さると表現した。これは真理をついていると思う。パウロは「主の栄光を反映させながら」(Ⅱコリント3章18節)と語り、輝く秘訣を語っている。キリストが光源である。キリストはぶとうの木のたとえの箇所で、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません」と明言された(ヨハネ15章5節)。私たちは手足は動かせても、神の栄光を現すふるまいは、キリストを離れては何一つできないということである。私たちは自分に拠り頼むのではなく主に拠り頼んで、ひとつひとつやっていこう。祈って、自分のすることをゆだねていこう。

最後に、良い行いをする最終目標について観て終わろう。「・・・天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。「あがめる」ということばは、「賛美する」「栄光を与える」といった意味のことばである。私たちが良い行いをする目的は、パリサイ人のそれとは、全く違っている。パリサイ人は自己が賛美されるためにそうした。自分の良い行いが知られ、見られ、自分の徳の高さを誇示し、自分に誉れを帰すためにした。私たちはただ、主の光を反映させる者、主の光を運ぶ者にしかすぎない。それ以上ではない。もしパリサイ人のように誉れを勝ち取ろうという目的で良い行いをしたら、その良い行いとは光ではなく闇である。なぜなら、それは、自分の罪の性質が生み出した自己賛美の精神に基づくものであるからである。それは、地に属し、肉に属するもので、まことの光ではない。ただの我にすぎない。私たちが単純に、天の父なる神があがめられるために、神の栄光のためにという目的で良い行いをするときに、その良い行いこそが光である。人々はそこにまことの神を見、神をあがめるようになるだろう。

当教会の理念の一つは、今日の箇所から「照らす愛」となっている。それは福音のパートナーとしての良い行いである。ある人は、「良いことばも、良い歩みが伴っていなければ何の役に立たない」と言った。私たちは人々が神を信じてくださることを願う者たちである。私たちは家庭にあって、職場にあって、地域社会にあって、神の御名が信じられ、あがめられることを心から願い、主の光を反映させるものでありたい。