今日の箇所から、私たちに求められているのは、ただ平和を願うことではなくて、平和をつくることであることがわかる。キリスト者の本分は行動にある。私たちは関係の壊れた世界に生きている。それを修復するということ。私たち人間は修復というよりも、だれでもトラブルメーカーになる可能性がある。しかしピースメーカーになることこそがキリスト者の本分である。

まず「平和」ということばそのものの意味について確認させていただきたい。「平和」ということばは巷に溢れているが、本来、「平和」の意味とは何だろうか。このことばはヘブル語で「シャローム」となる。このことばは単に争いのないことを意味していはいない。もっと積極的な意味が込められている。このことばは、神の下さる満ち満ちた幸福を意味している。それは創造的で積極的な祝福なのである。ユダヤ人のあいさつのことばは「シャローム」である。これは、あいさつを受けた人が、神からのもろもろの祝福をすべて受けるように、との願いなのである。

平和の根源は、もちろん神である。聖書で神は「平和の神」と呼ばれている。この平和の敵は罪である。罪は人と人との関係を壊すということだけではない。罪は私たちを神から引き離す。罪は私たちを神に逆らわせ、神との平和を失わせる。罪が神と人との間の障壁となっている。よって、真の平和を得るためには、罪が取り除かれなければならない。そこで平和の神は時至って、御子キリストをお送りくださった。キリストは見える神として現れ、神の教えを説き、行動し、そして十字架の上で私たちの罪を負い、裁かれてくださった。「十字架の血によって平和を造り」(コロサイ1:20)と、罪を取り除こうとされた。そうして「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた」(ローマ5:10)ということが実現した。キリストこそが平和をつくる者だった。神と人との間の仲立ちをし、罪を取り除いて和解させてくださったキリストこそが、平和をつくる者の模範中の模範である。

次に、平和をつくる者の役目を二つに分けて観ていこう。第一は、神との平和に人を導くということである。「神はキリストによって、私たちをご自身と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました」(Ⅱコリント5:20)とある。人々は人間を造られたまことの神を知らないで生きている。神と人間との関係は敗れている。罪が神と人間との間を隔ててしまっている。その結果、生きる真の目的を見失ったばかりか、孤独、空しさ、罪悪感、闇の思いを抱え、人は生きている。その生末は永遠の滅びである。私たちは先に神のもとに立ち返った者たちとして、人々を神のもとに導くべく、キリストの福音を伝える責任がある。この福音は、「平和の福音」と呼ばれている(エペソ6:15)。この平和の福音を伝え、人を神との和解に導くことが、平和をつくる者の第一の役目となる。神無しにほんとうの平和などない。まず人は神のもとに立ち返らなければならない。神との平和を築かなければならない。

第二は、人と人との間に平和をつくるということである(マタイ5:43,44参照)。人と人との関係を破る要素は憎しみや戦う欲望である。それは愛にとって代わらなければならない。ここでわかるように、平和をつくる者は自分の敵さえも愛することができる人である。それこそがピースメーカーである。

第二次世界大戦中、タイの日本軍の俘虜収容所にアーネスト・ゴードンというイギリス兵士がいた。収容所は絶望に満ちていた。アーネストは強制労働のさなか、悪性のジフテリアに罹患してしまい、死の陰が彼を襲う。だが彼はクリスチャン兵士の手厚い看護によって奇跡的に回復する。命拾いした彼は、その後、クリスチャン達が主催していた集会に出て、キリストの話を聞くようになる。「イエスは私たちと同じような問題のために苦しんだ。ならば、私たちの苦しみもわかってくれるだろう。イエスは休むところなく、枕するところもなかった。しばし食べるものもなく腹ペコだった。イエスは私たちの背骨の痛みや体の痛みをわかってくれる。イエスの周りにいた人たちは、私たちと同じ仲間だ。イエスは人を軽蔑したり、嫌ったりしない」。彼はキリストの生き様に感動したばかりか、十字架と復活の意味も汲み取るようになった。「イエスは十字架にはりつけにされたが、それで破滅しなかった。彼は今も生きている。だから、私たちも破滅しない。たとい死んでも生きる。そしてイエスのうちに愛が完全に現されている。それは自己中心的なものではまったくない。彼は私たちの模範だ」。こうして、自己中心、怒り、憎しみ、ねたみ、欲張りが特徴だったアーネストたちはキリストを信じて、愛の人と変えられていく。収容所内は、かつての「自分さえよければいい、自分だけが生存できればいい」という姿は消え去っていったという。非難の対象でしかなかった病人たちをみなで手厚く看護し出した。死刑覚悟で、病人のために食物を探そうという姿も見られるように。仲間が死ぬと、死体を穴に投げ込むだけという埋葬も止め、葬式を執り行うようになった。一人一人の墓も立てられた。墓標は十字架である。収容所内は神の平和が支配するようになっていく。ただ一つの問題があった。それは敵に対する憎悪の問題だった。日本軍に報復できたらどんなにいいことかという思いが残存していた。けれども、この葛藤に打ち勝つことになる。

第二次世界大戦終結間近、アーネストらはバンコクに移動を命じられ、列車にのろ込む。ある地点で、日本軍の傷病兵が積み込まれていた列車と出くわした。「彼らの状態は見るに堪えかねた。誰もが愕然として息を飲んだ。私はそれまで、いや、いまもって、あれほど汚い人間の姿を見たことがない。戦闘服には、泥、血、大便などが固まってこびりついていた。痛々しい傷口は化膿し、全体が膿で覆われて膿の中からは無数のうじが這い出ていた。・・・彼らは死を待つ人々であった。使い果された消耗品であった。戦争の廃物であった」。彼らは、日本兵の列車へと歩きだし、敵兵のかたわらにひざまづき、水と食物を与えた。そして膿をぬぐい取り、傷口に布を巻いてやった。その日本兵たちは「ありがとう」ということばを返した。アーネストらが列車に戻ると、別の収容所からの俘虜であるイギリス人将校がアーネストを非難した。「何ていう大ばかやろうなんだ、君は!」。アーネストはその将校に、良きサマリヤ人のたとえを語ってきかせる。サマリヤ人はユダヤ人とは敵国関係、でもサマリヤ人は傷つき倒れていたユダヤ人を助けたんだと。でもその将校は承服しない。「それは聖書の話で、そこにいるやつらは、おれたちを飢えさせ、殴りつけてきた豚どもだ、おれたちの敵なんだ」。それに対してアーネストは、こう語った。「私の敵はどこにいるんですか。あそこの人は、敵ではなく私の隣人じゃありませんか。神は隣人を造られましたが、敵を造るのは私たち人間です。・・・好むと好まざるにかかわらず、人間が敵を造る者です。私の敵とは、実は、私の隣人なのです」。この言動に平和をつくる者の姿をはっきり見ることができる。ジャングルで信仰をもったアーネストは、終戦後、聖書を伝える道を選ぶことになる。あとで知ったそうだが、アーネストを看病して死の陰の谷から救ってくれたクリスチャン兵士は、日本軍によって十字架にはりつけにされ処刑にされたとのことである。彼はアーネストの前にひざまづき、腫瘍を洗い、手当してくれたわけだが、その姿はキリストを想起させるものであったという。ジャングルの中で皆が自暴自棄になり、自己中心になっていたとき、少数の平和をつくる者たちが、すべてを変えていった。まず兵士たち同志の間に平和が生まれ、その平和の精神は敵国の兵士をも包んでいった。私たちも平和をつくる者となろう。

ここで、平和に関連して、戦争について触れておきたい。果たして、戦争は許されるのだろうかという根本的問いである。日本国憲法第二章「戦争の放棄」の九条の解釈を巡って、論議が続いている。九条の解釈は全体のコンテキストの中で見ていくものである。日本国憲法の前文には「日本の国民は、恒久の平和を念願し」「平和を愛する諸国民」「平和を維持し」といった「平和」ということばが目を引く。九条にも「国際平和を誠実に希求し」という表現がある。平和のために許される種類の戦争というものはあるのかという疑念を抱く。今月、平和の名のもとに、事実上、戦争への参戦を許す「平和安全法制」が採決された。平和と戦争の関連について、過去の日本の戦争はどうだったのだろうかというところから話を始めたい。

日清、日露戦争の時代、教会の指導者たちが戦争を肯定する中、キリスト者内村鑑三は戦争絶対廃止論を唱えるようになっていく。内村は最初、日清戦争を義の戦争、平和のための戦争と主張していたが、非戦論を説く代表者となっていく。日清、日露の戦争の結末を省みて、次のように述べている。「戦争は戦争を止めるためだと言います。しかしながら、戦争は実際戦争を止めません。否、戦争は戦争を作ります。・・・戦争によって兵備は少しも減ぜられません。否、戦争が終わるごとに軍備はますます拡張されます。・・・戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などはおしなべて一回もあったことはありません。日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。しかるにこの戦争はさらにさらに大なる日露戦争を生み出しました。日露戦争もまたその名は東洋平和のためでありました。しかしこれもまたさらにさらに大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります」。この後、内村の予感はあたって第一次世界大戦が勃発する。

内村が平和に言及する背景には、国民国家の戦争は、他国への領土侵入であっても祖国防衛のための聖戦として「平和のための戦争」と呼ばれていたことがある。日清戦争の開戦詔書には「東洋全局の平和を維持せむと浴し」とある。日露戦争の開戦詔書には「平和を恒久に維持せむことを浴し」とある。また世界大戦時に公布された米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書には「東亜の安定を確保し以て世界平和に寄与する」とある。戦争の大義名分は平和だったのである。だが、平和というお面を付けた野獣がいることを内村は主張した。

こうした時代に、文字通りの平和を願って団体を設立し、非戦論を唱えていったキリスト者グループもあった。国際的にはすでにキリスト者たちが作った平和協会が存在していたが、日本でも1889年に平和協会(のちの「日本平和会」)が結成され、非戦論を唱えていった。クェーカー教徒の方々が中心を担ったようである。1892年にはバプテスト青年会によって「平和(おだやか)」が創刊されている。しかし、こうした声はかき消されていった。やがて日本のプロテスタントの教会のほとんどが戦争を肯定する側に回り、日本キリスト教団に組み込まれ、朝鮮においては特高警察の手先となって現地のキリスト者たちに神社参拝を強要し、日本軍は神の御旨にかなう戦争をしていると説きつけた。

あの世界大戦という忌まわしい戦争を経験した世界だが、未だにキリスト者の中でも、義の戦争、正義の戦争があると主張する方々がいる。記憶に新しい湾岸戦争の時などもそうであった。正義の戦争の歴史を辿っていくと、近代ヨーロッパの戦争論に影響を与えたトマス・アクィナスという中世の人物を見出すことになる。彼は十字軍の遠征が行われていた中世の時代に生きていた神学者である。彼は「戦争について」という文章で、戦争は基本的に罪であると述べたあと、正義の戦争であるためには三つの条件が必要だとした。第一は、戦争は私人によってではなく、統治者の権威によってなされること。統治者が国内、国外の敵に対して国を守るために戦うのは正しいというわけである。おそらく自衛ということが想定されていると思われる。日本でも、集団的自衛権ということを巡って論議が続いている。第二は、正当な理由があること。攻撃するのに何が正当な理由であるのか、あいまいさは残る。さきほど言及した「平和のための戦争」のように。第三は、戦争する者たちの意図が正しいこと。つまり、復讐を願ったり、支配しようという欲望があれば、正義の戦争にはならないというわけである。しかし、これが十字軍にあてはまっただろうか?適用した人たちがいるようだが・・・。エルサレムを占拠したのはイスラムであって、その奪われたものを取り返すという意味では自衛と言えるかもしれない。目的は聖地エルサレムの奪回だから、正当な理由があると言えるかもしれない。復讐とかでなくて、彼らをキリスト教に導くためだから意図は正しいと言えるかもしれない。しかし、それらは欺瞞である。現場はどろどろした罪で満ちていた。略奪、暴行が繰り返された。今、その残虐さと大量殺人のゆえに、十字軍を正義の戦争などと認める人はいない。教皇は、この十字軍の兵士になるなら、その者の罪は神が免ぜられると免罪を説いて兵士たちを募ったというが、それ自体、愚かしい。あの免罪符と同じである。

正義の戦争とは一般に、人間や国家の権威を越える存在によって、すなわち至高の神によって発動されるものととらえることができよう。しかし、そのような戦争は今の時代ありえない。17世紀にはローマ帝国の人口の3分の1を失ったと言われる三十年戦争が勃発した。表面的には三十年戦争は宗教戦争と呼ばれ、プロテスタントとカトリックの戦いとされた。お互いに神の名を持ち出して殺戮し合った。しかし本質は人間の罪深い戦う欲望に起因している。人は戦いを正当化するために、神の名を持ち出してくる。

正義の戦争を主張する者たちは、その根拠を旧約聖書の「聖絶」(ヘーレム)までもってくる。神はイスラエルの民に、約束の地に入って七つの異邦の民を殲滅することを命じられた(申命記7章)。その実行がヨシュア記に記されている。聖絶の前提にあるのは、神が造られ、本来神の所有である領土が完全に偶像崇拝の地となり、悪で満ち、完全に損なわれてしまったということ。聖書を見ると、約束の地は本来神の所有で神が地主であることが書いてある。しかし、その地がはなはだ悪に染まってしまったことが書いてある。この地を殲滅するというのは、終わりの時代に神がこの世界を裁くことのひな型になっている。その一時代に与えられたひな型を、現代の人間発動の戦争に適用しようとすることは明らかにまちがい。正義の戦争、すなわち神が命じられる戦争などというのは今の時代にない。

聖絶の根本的意味をもう少し考えてみよう。神は聖なるお方であり、罪ある者がその聖なるお方の栄光に触れるなら、倒れ滅びてしまう。旧約聖書を見ると、聖絶の対象にはイスラエル人も入っていることがわかる。イスラエル人といえども、神の法を犯したら断ち切られなければならないこと、殺されなければならないことが書いてある。そして実際そうなった。罪ある者は滅びるという原則は人間であるかぎり変わらない。聖絶されるのである。新約時代に目を落とせば、罪もないのに聖絶された方がおられる。イエス・キリストである。キリストは十字架の上で人類の罪を一身に負って、聖絶された。それは私たちの救いのためである。レビ記にはこうある。「人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は殺されなければならない」(レビ27:29)。私たちは本来、聖絶されるべきもので、贖われることはできない。けれども、キリストが身代わりとなって聖絶の対象となってくださった。そして私たちに贖いをもたらしてくださった。ここに神のあわれみがある。そして、このみわざのゆえに神との平和が生まれる。私たちがしなければならないことは、現代の戦争を聖戦呼ばわりすることではなくて、私たちの罪のために聖絶されたイエス・キリストを宣べ伝えることである。そしてイエス・キリストの教えに生きることである。それは人々が罪の裁きから救われ、神のもとに立ち返るためにである。

戦争をすべきでないという非戦の根拠となるのは、キリストのことばである。キリストはゲッセマネの園で、剣を振り上げたペテロに向かって言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びます」(マタイ26:52)。剣は戦いのシンボルである。この当時の人々は、メシヤが現れたら、武力で、植民地化された私たちの土地をローマの手から救ってくれると期待していた。けれどもキリストは剣を取らなかった。それどころか十字架につき、呪われたものとなって、聖絶される道を選ばれた。

16世紀にあって非戦論を唱えたキリスト者にエラスムスがいる。彼の非戦論のもとになるのは、「剣をもとに納めなさい」と言われたキリストのことばにある。彼は絶対的平和主義者として名を知られている。彼はそれまで行われてきた、戦争によって異教の民を改宗させるなどということには断固反対し、有徳の生活において証を立てることによって異教の民を改宗させるべきであることを主張した。これは今で言えば当たり前かもしれないが、教皇が戦争を承認して侵略戦争が繰り返されてきた時代にあって、特徴的な発言であった。

エラスムスのことばを幾つか紹介しよう。

「人の世に、躊躇しつつ求めるのがふさわしいものがあるとすれば、いや、なんとしても避け、厄介払いし、排除すべきものがあるとすれば、それこそは戦争である。戦争はもっとも不敬虔で不幸。もっとも破壊的、しかも執拗に存在し続け、もっとも忌むべき、人間全体の中でもっとも卑しいことであって、そのようなものをわたしはキリスト者にふさわしいと言うことはできない。」

「キリストの教えをあまねく究めなさい。すると見出されるものは、平和の息吹のするものばかり、友愛の響きのするものばかり、慈愛の美味ばかりである。」

私たちはキリストの教えを究めることに心を砕き、平和をつくる者になろう。

最後に、平和をつくる者への約束について学ぼう。「その人たちは神の子と呼ばれるから」。ここでキリストの教えに従えば、その善行のゆえに神の子になれると言われているわけではない。誰でも悔い改めと信仰によってキリストを信じるなら神の子とされるというのが聖書の教えである。「しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。多くの方がキリストを信じて神の子となっていただきたいものである。

今読んだヨハネ1章12節で「神の子ども」と訳されていることばの原語は<テクノン>である。<テクノン>は、お父さんの愛する子どもといった、親愛の気持ちを表わすことばである。私たちは父なる神の愛する子どもである。そして、マタイ5章9節で「神の子」と訳されていることばの原語は<テクノン>ではなく<ヒュイオス>が使用されている。このことばは、「親との関係における品位、気高さ、尊厳」を表わすことばである。たとえば、王の息子の王子、武家の娘などを考えてみるとよい。地位の高い家に生まれた子どもは、自分は誰の息子、娘かを自覚してふるまおうとするだろう。そこには品位というものがあるはずである。良く「~家に恥じない生き方をせよ」と言った言い方がされるだろう。私たちは神の国に属し、王であられる神の子どもである。御国の子である。私たちは誰の子どもか自覚してふるまおう。実際、それはどうすることなのか?お高く止まっていることなのか。パリサイ人のようになって、ただ周りを非難していることなのか。いや、キリストにならって平和をつくることなのである。平和の福音を伝え、人と関わり、仕え、敵をも愛し、神と人、人と人との間に平和をつくることなのである。平和をつくることが、神の子どもたちの証明、ハルマークなのである。平和をつくる時、神は、「よくやった、それでこそ我が子だ」とほめてくださる。さあ、私たちは自分の生活圏で、平和をつくることに努めよう。本当の意味で、ピースメーカーとなっていこう。