今日はご一緒に、キリストの八つの幸いの教えの6番目を観たい。このみことばは、湯沢市雄勝町の院内銀山にあるキリシタン殉教碑の表にも刻まれている。有名なみことばである。

心がきよくなりたいという願いは、多くの人の願いである。聖書は外見よりも心に重きを置く。「心」はハートの形が示すように、感情や感覚の座であることはまちがいないが、しかし、それはまた、思考、意志の座である。「イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか』」(マタイ9:4)。心は感情のみならず知性のコントロールセンターであるわけだが、人は心の中で悪いことを考えることが指摘されている。ノアの洪水の記事を読むと、洪水の前にこのように言及されている。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」(創世記6:5)。まさしく、人は心の中で悪いことばかり考えるようになった。キリストもこうした悪について言及している。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです」(マタイ15:19,20)。キリストは心から出る悪は人を汚すと言われた。だから悪に対して無防備でいていいわけはない。

「きよさ」と訳されていることばは、汚れからきよめることによってきれいになること(クリーン)を意味した。またこのことばは、不純物が取り除かれて純化された金属に使用された。純粋、混じり気のない(ピュア)ということである。

さて、この「きよさ」が心に当てはめられた場合、「心のきよさ」とはどういうことを意味するのか、探っていこう。

第一に、心のきよさとは、内面の道徳的きよさである。これについては誰も異論がないだろうし、そう考えるだろう。心の中で人を殺めること、姦淫を犯すこと、隣人愛につながらないよこしまな考え。これらはきよさではありえない。私たちは自分の心の表層を見るだけではなく、アンダーグランド(地下)を正直に見つめ、きよさを求めなければならないと思う。心の地下にもぐると、そこには得体の知れないものが蠢いているかもしれない。私たちの多くは自分を欺き、自分の心の汚れを認めようとしない。しかし、きよさは自分の汚れを認めることからスタートする。「神よ。あなたは私の愚かさをご存じです。私の数々の罪は、あなたに隠されていません」(詩編69:5)。このように、神の前に素直になり、自分の心を神に対しても自分に対してもオープンにし、自分の心の汚れを認めたい。

昔、部屋を掃除する夢を見たことがある。もう十分きれいになった。しかし、それは表面的だったのである。壁の一部がはがれ、ゾウリムシのような虫が何匹も這い出てきた。これは今の自分の心だと気づかされたことがある。

第二に、心のきよさとは、偽りのないことである。偽善ではないことである。きよさの同義語の一つは、偽りのないことである。そうでないのは偽善である。偽善というのは、外側の行いは正しく見えるが、しかし心がはなはだ偽っていることを意味する。キリストはこの偽善を厳しく戒められた(マタイ23:25~28参照)。偽善は、ことば、表情、行動といった外面と内面が食い違っている。内面では自分のことしか考えていなかったりする。自分の評判、自分の名誉、自分の利益と、自己愛から、意識的にも無意識的にも演技する。りっぱに見える行為も動機が正しくないことは多い。神の栄光を現すことや、本当の意味で隣人の幸せを考えているわけではない。私たちは動機を吟味しなければならない。それには自分の心の声にちゃんと耳を傾けることが必要になってくるだろう。以外に私たちは、心の中でどうしようもないことをつぶやいている。欲望やねたみや乱暴な思いから。それらの声をごまかしてしまわず、耳を傾けること。自分を欺かないこと。気づいた悪は神の前に告白する。偽善を続けていると、仮面をかぶった自分と、人には隠されたもう一人の自分を併存させ、霊的二重人格みたいなことになってしまう。

第三に、心のきよさとは、裁かないこと。聖書を調べると、人を裁くことはきよさとは無縁であることがわかる。自分をきよいと自認する人ほど、人を裁きやすい傾向にある。裁くという姿勢は、実は、前回7節で観た「あわれみ深い」ことと反対の姿勢なのである。心のきよい者とは同時にあわれみ深い者なのである。その人は容易に人を裁いたりしない。キリストはそういう人の目は良く見えていないことも暗示している(マタイ7:4,5)。人を裁く人は自分のことが良く見えていないばかりか、神のことも良く見えていない。裁くことは、自分は敬虔で高潔だとする人が陥りやすい過ちである。

第四に、心のきよさとは、傲慢でないこと。「だれが自分の数々の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば私は全き者となり、大きな罪を免れて、きよくなるでしょう(詩編19:12,13)。これはダビデの祈りである。聖書の視点では傲慢は汚れなのである。キリストはパリサイ人と収税人のたとえを話された。ルカ18章9~14節を開こう。パリサイ人は、11節からわかるように、自分をきよい者にしている。けれども自らの傲慢さには無頓着で、ただ取税人を裁くだけだった。彼は取税人のことを裁く資格などなかった。パリサイ人の外側に表れた敬虔さとか儀式的きよめとかは人目を引くものがあった。けれども、傲慢で、すぐ人を裁き、偽善家である彼らは、キリストの語るきよさとは無縁だった。

第五に、心のきよさとは、二心ではなく一つ心で神を愛すること。旧約でも、新約でも、信仰者が神の花嫁にたとえられている。花嫁の貞操ということを考えればよくわかるだろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることを知らないのですか」(ヤコブ4:4)。この世に欲望が向いてしまう二心、他の偶像に気持ちが向かってしまう二心、それらは花嫁としての貞操を失い、純潔が欠けているということを意味する。私たちに求められているのは、花嫁としてのわき目をふらない神への貞節、貞操、忠節、それがきよさなのである。神という存在は本来、心のすべてを捧げて愛する存在なのである。聖書の戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)に集約できる。私たちの心はもともと、神に捧げるよう、神によって造られている。その目的が逸れたら汚れが生まれる。神とこの世に分かたれた心、焦点が定まらない心、それが汚れた心である。

二心ではない一本の心で、献身的な愛で神を愛し、神を求める人を目指そう。そのような模範は聖書に見ることができる。あの有名な詩編119篇を読むと、作者は、神を愛しみことばを慕い求める姿勢が飛び抜けていることがわかる。朝も真夜中も神を慕い、そのみ教えに思いを潜めようとしている。一日のうち七度神をほめたたえることも記してある。日中は神のみ教えを実践することに心を傾けた。このような人が心のきよい者と言えよう。

聖書には心のきよさを失った信仰者の話も登場する。一例を挙げると、ラオデキヤ教会である。黙示録3章14~22節を開こう。ラオデキヤは、商業、経済の一大中心地で、何よりも、銀行家たちの町、金銭の町であった。裕福な町でプライドが高かった。そこに置かれた教会は、町全体の気風を吸い込んでしまっていた。町の人たちと同じくうぬぼれが強くて、信仰においては生ぬるく、微温的で、すぐにこの世に妥協し、二心だった。18節では、「また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と忠告されている。ラオデキヤは有名な医学校があり、名医がいることでも知られていた。特に眼科医は世界中から注目されていた。そしてラオデキヤの目薬は有名で各地から買いに来た。キリストはここで、ラオデキヤの信者は見えていない、と断言している。自分たちのみじめな霊的状態も見えていないし、キリストご自身のことも見えていない。というのは20節が暗示しているように、キリストを追い出してしまっている状態にあったからである。新約において、信者はキリストの花嫁であると言われている。この黙示録においては特に。けれども、ラオデキヤの信者は、「キリストは我が花婿、我がいのち、我が喜び、我が冠、我がすべて、いつもあなたを慕い求めます」ということではなかった。キリストへの貞節は欠けていた。それは18節の「白い衣を買いなさい」からもわかる。彼らはキリストへの貞節を意味する、霊的な純白な衣をまとってはいなかった。心のきよい者は、キリストを花婿として認識し、自分をキリストの花嫁として認識する。キリストとの間を妨げるいっさいのものを除き去り、愛を確かなものとしていく。

最後に、心のきよい者に対する約束、「その人たちは神を見るから」を観よう。かつて、モーセが神を見ようとしたことがある(出エジプト33章)。その時、神は「あなたはわたしを見ることはできない。人はわたしを見て、なお、生きていることはできないからである」と言われた(20節)。神の輝き、聖さは、人間を焼き尽くしてしまうほどである。神は燦然と輝く光である。まともに見つめることはできない。神は自然界の王である太陽にたとえることができよう。太陽をまともに見ようとしたら、人間の目はつぶれてしまう。太陽は自然界に光を与え、熱を与え、慈愛に満ちた神の愛を思わせるが、同時に、近づきがたく感じさせるその輝き、その威厳は、神の聖さ、栄光を思わせる。

「神を見るから」というこの表現は、未来形となっており、第一義的には、やがての天の御国で神を見るということである。第一ヨハネ3章2~3節を開いてみよう。ここで、やがて、キリスト本来の栄光の姿を見ることが言われている。「・・・私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(Ⅰヨハネ3:2)。この望みを抱く者は自らをきよくすることが併せて言われている。ある時、キリストはペテロとヨハネとヤコブとを連れて高い山に登ったことがあった。その時、キリストは、「彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」とされている(マタイ17:2)。この時、キリストはご自身の栄光のお姿の10%程度お示しになった。しかし、やがて、その完全な栄光の姿を見ることができる。神を見るとはキリストを見るということである。神はキリストのうちにあり、キリストは神のうちにある。弟子のピリポはキリストに対して、「主よ。私たちに父を(神を)見させてください。そうすれば満足します」と行ったことがある(ヨハネ14:8)。それに対してキリストは、「わたしを見た者は父を見たのです」と答えられた(14:9)。私たちの神を見たい、キリストを見たいというビジョンは必要である。多くの人々は有名人を見に足を運ぶ。また有名な絵画を見に、時間とお金をかけて出かけて行き、見ようとするだろう。だが、私たちに言われていることは神を見ることを切に願うことである。心のきよい者とは、一心に神を見ようとする人と言えるだろう。

「神を見るから」の第二義的には、今の世で神を見るということである。それは肉眼で見るということではなくて、神を慕い求め、愛し、神と親しい関係を築いていくことによって、神のことが人格的にわかっていくという体験である。まさに心の目で見るという体験である。信仰の目で見るという体験である。多くの信仰者が経験することだが、神との関係が損なわれたとき、神が遠ざかる、神の臨在を失う、霊的闇を味わうということになる。先ほどのラオデキヤ教会の事例であると、キリストを追い出すという状態に。旧約聖書には花婿と花嫁の関係を歌った雅歌がある。そこでは、花嫁は花婿を讃えつつも、自分の気の緩みで花婿を見失い、嘆く様子が描かれている。そして花嫁は花婿を見たい一心で会いたい一心で捜し求める。そして最終章では、花嫁は花婿としっかり結ばれ、花嫁は花婿に寄りかかって姿を現す。大水もその愛を消すことができないことが告白される。私たちもキリストとの関係において、同じような行程をたどるのかもしれない。

今の世で神を見るとは、神の栄光を垣間見るという言い方も許されるかもしれない。それはキリストの栄光を垣間見るという言い方もできるであろうし、キリストの臨在に心の目が開かれるという言い方もできよう。18世紀の著名なリバイバリスト、ジョナサン・エドワーズは次のような内容を日記に残している。

「以前、1737年に、私は健康のため、馬に乗って森林に入って行った。これは私のいつもの習慣なのだが、聖なる黙想と祈りのために歩こうとして、ひっそりした所で、馬から下りた。そこで私は、神と人との仲介者としての神の子の栄光を見た。神の子の素晴らしくて、豊かで、純粋で優しい恵みと愛、温和で穏やかな謙遜を見た。それは私には非常に驚くべきことであった。非常に穏やかで、優しく見えたこの恵みの主はまた、天上以上の偉大さも現していた。キリストの位格がことばに表わせないほど卓越して見えた。その卓越性は、すべての考え、想像力を飲み込んでしまうほどだった。それは1時間ほどだと思うが続き、その時間の大半、私は涙の洪水になり、泣き叫んでいた。私は私のたましいが空になり、無になり、灰の中に横たわって、ただキリストによってのみ満たされるのを、そして、キリストを聖なる純粋な愛で愛するのを感じた。主に信頼し、主を見上げ、主に仕え、従い、完全に聖められ、天国の純正によって純とされるのを感じた。私は数回これと同じ性格の光景を目にしたことがあるが、同じ影響を受けた。」

この世で、キリストの栄光の一部を垣間見たという証は数ある。人それぞれ、それを口にすればジョナサン・エドワーズと同じではない。彼のような経験はまれであろう。しかし共通しているのは主の臨在に心の目が開かれる経験をしたということである。だが気をつけよう。不健康な精神で、しるしや不思議を求める人たちがいる。不健全な興味で天的な映像を見ようとする人たちがいる。御使いを見た、キリストを見た、不思議な光を見たと言って、異端や新興宗教、カルトに走り、その他、信仰の道から逸れていった者は残念ながら数知れない。私たちはそうであってはならない。私たちに求められているのは、主のみことばへの忠誠という一見地味に思える姿勢であり、純粋な動機からのキリストへの純愛ということであろう。キリストにふさわしい花嫁となることを求めること、さらにキリストとの親しい関係を築くことを求めるということ、みことばと祈りを通して主と交わり、心を主に捧げ、絶えず主を賛美し、臨在信仰をもって24時間歩んで行くこと。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5~6)。「主に拠り頼め」の「拠り頼む」ということばは、全体重を相手にあずけて寄りかかることを意味することばで、まさしく主の花嫁の姿勢。「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう」(雅歌8:5)。そして「主を認めよ」の「認める」とは、人格的に交わることを意味することばである。行く所どこでも、このような姿勢でいることができたら幸いである。先だってテレビを見ていたら、ある主婦が、「24時間中23時間は夫と一緒にいます」とニコニコして告白していたが、私たちは24時間中24時間、主を意識して臨在信仰で歩んで行くわけである。主から離れさせる罪は悔い改めよう。絶えず主に向き、主を慕い求めよう。人が主に向く時、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていき、きよくなる聖化の恵みにあずかり、その者に神を見るという約束は完全に成就するだろう。