本日より、八つの幸いの教えの第二区分に入る。「心の貧しい者は幸いです」で始まる最初の4つは神に対する態度を表わし、「あわれみ深い者は幸いです」で始まる次の4つは人に対する態度と言える。私たちが神と相対する時、心の貧しさを覚える(3節)。神の前で罪を悲しむことになる(4節)。へりくだらせられることになる(5節別訳)。そして救いを渇望することになる(6節)。その者は神の恵みに浴し、造りかえられ、この世界に対して、神に似た姿と態度を表わすことになる。その第一番目として取り上げられているのが、あわれみ深さである。

では、あわれみ深さとは何かを考えていこう。あわれみ深さとは第一に、人の罪を赦すことが含まれている。原語<エレーモーン>はヘブル2章17節で使用されている。開いてみよう。ここで、イエス・キリストが「あわれみ深い、忠実な大祭司」と言われている。大祭司とは神と罪人の間に立って、とりなす役目をする人物を指す。ここでは、その役目を「それは民の罪のために、なだめがされるためなのです」と言われている。「なだめ」というのは、人間の罪に対する神の聖なる怒りをなだめるという意味である。キリストはあわれみ深く、私たちの罪を赦そうとして、私たちに代わって、その罪に対する聖なる御怒りを受けてくださった。そしてなだめを為してくださった。旧約聖書を見ると、大祭司は傷のない動物などのなだめの供え物を供え、民の罪を赦そうとしたことがわかるが、キリストは自らなだめの供え物となってくださり、あの十字架上で、その傷も汚れもない尊い命を捧げてくださった。このことにより、私たちの莫大な罪の負債は赦された。この罪の赦し、あわれみを経験した者は、どうあるべきだろうか。参考として、マタイ18章21~35節を開こう。借金免除のたとえ話である。一万タラントという法外な借金を赦されたしもべが、百デナリを返せない仲間を赦さないというストーリー。百デナリは一万タラントの六十万分の一にすぎない。このしもべは、1万タラントという法外な借金を帳消しにしてもらうというあわれみを経験しながら、そのあわれみを経験していないかのような行動に出た。よって「あわれみのないしもべのたとえ」とも言われている。このたとえでは、33節の「おまえをあわれんでやったように」がカギとなる。神の気前良すぎるあわれみを経験し、知っているなら、それを知っている者としてふさわしく行動しなさい、という教えが見えてくる。私たちが人の罪を赦せないという感情に縛られ、そこから中々抜け出せない時、カルバリの丘に行って、十字架のもとに跪くことを心がけたい。

あわれみ深さ<エレーモーン>に対応するヘブル語は<ヘセド>である。それは日本語で「恵み」と訳されている。「あわれみ深い者は幸いです」を実践するには、神の私たちに対する恵み、あわれみを知ることが出発点となる。J.I.パッカーは恵みを次のように定義している。「恵みは、きびしさのみがふさわしく、きびしさ以外の何ものをも受けるべき理由のない人々に対して、神がいつくしみを示されることです」。最高の定義だと思う。私たちはきびしさのみがふさわしい。そのきびしさをキリストが私たちに代わって十字架の上で味わわれた。十字架は罪に対する呪いの木である。キリストはこの十字架の上で、罪に対するきびしい御怒りを受けられた。そのさばきはきびしかった。本来なら、私たちがそれを受けなければならなかった。よって、この十字架には神のきびしさを見るとともに、私たちに対する神のあわれみを見る。神は地獄にしか価しない、何のいさおしもない私たちを、キリストの十字架によって赦し、神の子の身分を与え、今日まで養い続けてくださっている。そのあわれみは本当に深い。

私たちは、この神のあわれみ深さを知るために、自分の罪深さを知ることが出発点になるという言い方もできよう。世々のすぐれた聖徒たちは、私のような虫けらを、私のような罪深い者を、神はかくまで愛したもう、と歌った。私たちはみことばに啓示されている自分自身の罪深い姿と対峙し、神の深いあわれみを実感したい。そのためには、やはり心の貧しさから出発しなければならない。そして常に十字架を仰がなければならない。十字架を仰ぐ時、莫大な罪の赦しとともに、「ご自分の御子をさえ<惜しまずに>死に渡された」(ローマ8:32)という事実を覚えることになる。私たちは、「御子をさえ惜しまずに」というあわれみを受けた。それはもはやお金で換算できるようなものではない。それは法外な恵みであり、惜しみない愛である。これが神のあわれみの深さである。私たちはこの「御子をさえ惜しまずに」というあわれみを受けた。これを覚える時に、次に観るあわれみ深さの第二の要素、困窮している人に手を差し伸べることにおいてケチくさくあってはならないということを教えられる。

あわれみ深さとは第二に、苦しんでいる人や窮乏のうちにいる人への思いやりである。「寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う」(箴言14:31)。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶ時に答えられない」(箴言21:13)。聖書は一貫して、具体的な行動になって表れるあわれみを奨励している。このあわれみの良い模範は、ルカの福音書10章30~37節にある「良きサマリヤ人のたとえ」である。開いてみよう。峠道で、強盗に襲われた旅人が倒れていた。半殺しの目に会い、同時に身ぐるみはぎとられ、お金も失っていた。あわれみを示したのはサマリヤ人。彼は傷の手当をしてあげたばかりか、宿屋に連れて行き、宿代も治療代も肩代わりしてあげた。サマリヤ人ではないユダヤ人二人も先に事件現場を通ったのだが、この二人は半殺しにあった人を見殺しにして通り過ぎてしまった。37節では、サマリヤ人が「あわれみをかけてやった人」として言われている。そしてイエスさまは、「あなたも行って同じようにしなさい」と命じられた。

次に、あわれみ深い者に対する報いを観よう。「その人たちはあわれみを受けるから」。この節の表現は、実は詩編18編25節に類似している。「あなたは、恵み深い者には恵み深く」。「恵み深さ」と訳されていることばは<ヘセド>。神はあわれみ深い者にはあわれみ深いという真理は、すでに旧約聖書のあちらこちらに啓示されている。詩編41編1節も開いてみたい。「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される」。「弱っている者」の原意は「やせている」で、ここでは「弱っている人、病人」を指す。ダビデ自身、病人にあわれみを示した人であった。彼は、ある人たちの病の時、断食して回復を祈った(35編)。自分の友、兄弟に対するように、しかも母の喪に服するように。しかし、いやされた人たちは恩を仇で返すような行動に出た。ダビデを絶えず中傷し、あざけり、ののしった。こんなつらい体験はない。だが信仰者の場合、恩が仇で返ってきたで終わりではない。ダビデの希望は主に置かれ、主のあわれみを求めて祈った。

あわれみという場合、目に見えるかたちでのあわれみを期待する場合が多いだろう。場合によっては、そのあわれみを、しっかりと目で見ることなく、地上での人生を終える信仰者もいるかもしれない。突然の事故や病で世を去ったり、迫害と殉教によって世を去る方もおられる。しかし、主の約束を疑わなくてよい。なぜなら、キリストが言われた「あわれみを受ける」というのは、終末論的報いを意味するからである。つまり、やがての天の御国での報いである。その反対に、この世で安穏と暮らしていても、あわれみのない人には、あわれみのないさばきが下る。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。」(ヤコブ2:13)このみことばは、基本的には信仰者に対する警告である。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」の正反対のみことばである。

結論として、私たちはあわれみを受けた者たちとして、あわれみを施そうということである。まばたきの詩人として知られていた水野源三さんは次のような詞を書いている。

恵みと愛を

創り主なる御神から受けしその恵みと愛を

喜びも感謝もせず ひとり占めにしていないか

創り主なる御神から受けしその恵みと愛を

蜜蜂と分け合って咲く 野菊の花をば見つめよ

創り主なる御神から受けしその恵みと愛を

尊き御心のまま 互いに分け合って生きよ

 水野さんは、神に造られた花、野辺に咲く野菊に思いを浸していた。その開いた花は、神からの恵みと愛を蜜蜂と分け合っているように見えた。その時、自分を含めて人間は、強欲で、神からの恵みを独り占めしているのではないかと気づかされた。神からの恵みと愛を分かち合うということ、独り占めはいけないことを教えられる。

私たちクリスチャンは、独り占めにしていないで、それを分かち合わなければならないものに、やはり福音があると思う。十字架の福音は神のあわれみの発露である。そこに罪の赦しと滅びからの救いと永遠のいのちがある。それは、たましいが病んでいる者へのいやし、貧しい者への富である。死に瀕している者に対するいのちのことばである。あわれみ深い者は当然、福音を提供するのではないだろうか?自分たちさえ救われていればというジコチュウの精神を遠ざけ、キリストの福音を提供することに心を砕いていきたいと思う。神の法外な比類のないあわれみを受けた者たちとして、そのあわれみに応えていきたいと思う。