今日はキリストの幸いの教えの4番目だが、「飢え渇く」という表現が使われている。この教えの背景には飢餓の問題がある。場所はパレスチナ。当時の労働者は、一週に一度しか肉を食べることができなかった。日雇い労働者たちは、切実な飢えと餓死の境界をさまよっていた。渇きの問題はもっと深刻であった。水道の栓をひねれば水が出るという世界ではない。水は貴重な資源であった。旅に出た者は、途中で熱風か砂塵と出会うことがしばしあった。旅人は激しい渇きに悩まされながら旅をした。水はいのちという感覚を誰しもが持っていた。

日本でも昔は同じようなところがあった。まず飢饉について振り返ってみよう。秋田の飢饉の記録を調べてみると、飢饉の時はわらびの根を掘って食べたりした。それはまだいいほうで、ある村では子を殺してその肉を食べた。秋田に来て流行している民謡、津軽小原節、ジョンガラ節、南部牛追い歌などは、実は飢饉に苦しんだ農民が秋田に物乞いに来て唄ったものが伝わったという話もある。飢饉の中では、天保の飢饉、天明の飢饉などが良く知られている。その頃の日本の人口は三千万人だが、天明の飢饉の時は津軽だけで餓死者十万二千人、疫病で死ぬ者三万人、全家死に絶えて空家になったもの三万五千戸という。仙台領だけでも餓死者と病死を併せて三十万人という記録がある。家ではよく「間引き」が行われた。生まれた赤ん坊の顔に濡れ手ぬぐいをかけて窒息死させたという。あるいは、その子が男の子であれば「川に遊びにやる」といって川に捨て、女の子であれば「よもぎ摘みにやる」といって山に捨てた。こういう間引きは明治の初年まで東北の農村では続いていたという。自分で自分を間引いてしまう人もいた。昭和に入っての話だが、昭和40年は冷害の年となり、秋が来ないうちに冷害を苦にして自殺した人が25人いた。そのうち7人が秋田の人であったという。

日本は水は豊かといっても、やはり人々は水不足を恐れた。民間信仰を調べると、稲作農耕には水が不可欠なので、雨をもたらすという山の神、田の神、水の神、雷神、竜神への信仰が盛んだった。秋田市には蛇野という地名がある。大平山を蛇に見立ててその尾の部分が蛇野だという。蛇は薬師如来の化身で竜神として祭られている。日照り続きで旱魃に合うと、さっそくこの竜神に雨乞いをする。また神の使者には狐やタニシや河童がいる。雨乞いには牛や馬を供えることもあった。雄物川沿いの村では、雨乞いにツバメを供える風習もあった。また小野小町の有名な雨乞いの歌があるという。彼女がその歌を歌うと、空にただちに雲が湧き雨が降ったという。雨乞いの女相撲というものもあり、秋田県内では各地で行われていた。

今観てきたのは、食糧、水の話である。しかし、キリストはそれを「義」に置き換えている。「どれほど切実に義を求めているのか。あなたは餓死する者が食物を求めるように、渇いて死にかけている者が水を求めるように、義を求めているのか」と問うておられる。私たちは幸せを求める。でもキリストは幸せを求めて幸せになれるとは言っていない。義を求めて幸せになれると言っている。それも飢え渇いた精神で。食物と水は肉体が生きるために欠かすことができない。同様に義も、人間が本当の意味で生きるために欠かすことができないものである。この義に飢え渇いているのかが問われる。

さて、キリストの語る義は何であるのかを観ていこう。この義は第一に、神の目にかなう正しさである。この正しさの標準を人間は低く設定してしまう。キリストは自分を正しいとする人たちを厳しく叱責している。キリストは自分を正しいとする人たちに対してこう言われた。「あなたがたは人の前で自分を正しいとする者です。しかし神はあなたがたの心をご存じです」(ルカ16:15)。偽善がある、おごり、高ぶり、傲慢がある。キリストは仮面の下に隠れている悪をみのがさない。キリストは自分の悪さを認めないで、自分を正しいとする者を悪いと言っている。

義とは第二に、救いである。「わたしの義は近い、わたしの救いはすでに来ている」(イザヤ51:5)。はっきり述べておこう。聖書でいう「義」を言い換えると「救い」となる。義と認められるから救われる、と考えていただくとわかりやすい。ルカ18章9~14節のパリサイ人と収税人のたとえを開いてください。9節に「自分を義人だと自認し」とあるが、この人物が悪とされ、そして13節で、「こんな罪人のわたしをあわれんでください」と自分の悪を認めた人物が、14節にあるように「義と認められ」た。すなわち、救われた。自分の病気を認めず、医者に行かない人はいやされないが、自分の悪いところを認めて直してもらおうと医者に行く人がいやされる。救いもそれと同じ。自分を義人とする人に救いは来ない。自分が罪人であることを認めて、義に飢え渇き、神のもとに行く者に救いはある。

義とは第三に、神ご自身である。ひまわりは、いつも太陽の方を向こうとするから向日葵と呼ばれる。聖書で神は「義の太陽」と呼ばれている。人間は神を求めるようにできている。人間の心は神を慕いあえぐ。人間の心には神にしか満たしえない空間がある。ある方は「神への渇き」という本の中でこう語る。「人の心の中に湧き起る神への願いがどれほど強烈なものであるかは、経験からもわかることです。深い森の中をさまよう鹿が、湧き水を見つけるまであえぎ苦しむように、人の心も神に渇き、神をみつけるまで安らぐことがありません」。

聖書には、飢え渇きをもった話がいくつかあるが、二つ紹介しよう。一つは放蕩息子のたとえ話である。ルカ15章11~24節を開こう。一人の息子が父親から財産の分け前をもらい遠い国に旅立つ。彼はそこで放蕩三昧の生活をし、お金を失い、友を失い、衣食住が怪しくなっていく。そして大飢饉が訪れる。彼は食べるのにも困り果てた。でもまだ父親のもとに帰ろうとは思わない。彼はある家の使用人にしてもらうが、ぶたのえさであったいなご豆すら分けてもらえず、餓死の危機に直面する。彼は餓死の危機に直面して、はじめて我に返り、自分のこれまでの罪を悔い改め、愛に富んでいる父のもとへ帰る決心をする。このたとえ話では、放蕩息子とは私たち人間を、そして放蕩息子の父とは天の神さまを表わしているわけである。マルチン・ロイドジョンズは、ある人のことばを引用し、次のように述べている。「飢えているのでは十分ではない。・・・餓死状態にまで達しなくてはならない。・・・放蕩息子は飢えたとき、いなご豆を食べにいった。しかし彼は飢え死にしかけたとき、父親のもとへ帰った」。これはまさに要点を言いつくしたことばである。私たちに必要とされているのは、死にもの狂いになること、飢え死にしそうになること、生命の衰えを感じること、緊急の助けを感じること、神に向かい、神を求めることである。

もう一つは、サマリヤの女の物語である。ヨハネ4章6~18節を開こう。ここに登場する女は孤独であった。一人で水汲みの時間帯でない時に水を汲みに来たことからもわかる。けれども、私たちも孤独である。親子であっても夫婦であっても、一緒に食卓を囲み、談笑していても、相手に秘密の事があるものである。そして他人には満たしえない淋しさがある。そして人が与えてくれるものは心の表面にしか届かない。だがキリストは、心の奥底にまで届いて、深い愛の慰め、喜び、完全な救いである義を与えようとされた。彼女の場合、孤独の問題ばかりではなく、心の醜さの問題を抱え、それを自覚していた。夫を5人も替え、今は6人目の男と同棲している。彼女は心の渇きをいやしたくて、同じことを繰り返していた。けれども、満たされない、本当の喜びがない生活を送っていた。そして罪意識に苦しむ生活を続けていた。良心のかしゃくに悩む生活を続けていた。彼女は愛情に渇き、義に渇いていた。キリストは彼女の本質的な問題に気づいていた。だから14節にあるように、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と、彼女に永遠に渇かない水を提供している。彼女は、会話の中で、この方こそキリスト、すなわち神の救い主であると信じることになり、その渇きはいやされることになる。「義に飢え渇く者は幸いです」の「義」とは神ご自身のことであると述べたが、言い換えると、イエス・キリストご自身と言える。だから、キリストを私の罪からの救い主と信じ受け入れる時に、その人自身が義とされる。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5章21節)。キリストが十字架について私たちの代わりに罪とされ、キリストの義が私たちに与えられるという交換の法則が言われている。キリストは私たちを義とするために十字架についてくださったのである。この事は忘れずに心に留めておこう。

今日は、キリストの八つの幸いの教えの4番目を観ているが、4番目の幸いまでが、一つの区分となる。まず心の貧しい者から始まった。心の貧しい者とは心の破産状態を自覚している人のことであった。心の乞食ということであった。この人は、自分に誇れるものは何もないと、自分のうちには善を宿っていないと自覚し、悲しむ者となる。すなわち、自分の罪を悲しむ。この人は当然、へりくだった者である(「柔和な者」の欄外注の別訳)。この人は当然、義に飢え渇き、神に救いを求める。皆さんもそうであって欲しい。

最後に、クリスチャンの方々にお話したい。今日の教えはクリスチャンの方々のためでもある。というよりも、第一義的に、クリスチャンのためにある。一つのお話をさせていただく。第一次世界大戦の時のことである。イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの軍隊が、パレスチナでトルコ軍を追跡していた。その過程で水を運んでいたらくだの行列と距離が開いてしまった。彼らの水は尽きてしまい、口は渇き、頭痛がし、彼らはフラフラになって倒れそうになった。目は充血し、唇は腫れ青くなり、妄想を抱くのが普通となった。すでに数百人が死んでいたが、数千人の兵士の命が危険にさらされていた。ようやく石でできた水ための水を飲むことができることとなった。けれども、体が丈夫な者たちは、傷ついている者、弱い者たちが飲み終わるまで待っていなければならなかった。彼らは水ためを前にして4時間立っていなければならなかった。その間の彼らの水に対する求めは激しく、死にもの狂いの苦痛ともだえを起こさせる強烈なものであった。これを体験したクリスチャンの一人がこう語っている。「もしこのように神に渇き、義に渇き、生活において神のみこころに渇いていたのなら、私たちはどんなにか豊かな御霊の実を結んでいたであろうに」。本当にそうであると思わされる。私たちは、心の中で神に向かう時、主に向かう時がどれだけあるだろうか。そして、本当に飢え渇いて求めているだろうか。実は「飢え渇く」という文体は、通常、飢える、渇くというときに使うギリシャ語の文体ではない。「パンを食べたい」「水を飲みたい」という普通の欲求の文体ではない。パンに当てはめると、「パンというパン全部欲しい」という欲求。水に当てはめると、「水槽の水全部飲み干したい」という欲求。つまり、強烈な欲求で全部欲しいということを表わす文体となっている。世界中のケーキ全部食べ尽くしたい、日本全国のラーメン食べ尽くしたい、そういう欲求は聞くことがあるかもしれない。だが私たちは何よりも、神の義を求めたい。

私たちは自分の心の求めを点検しよう。山上の説教を読み進めていくと、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(6:33)という命令に間もなく出くわすことになる。キリストは、ニュアンスや表現を変えて、同じ主旨の教えを語っている。私たちは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を後にし、神に対する、義に対するハングリーな精神を持ち続けよう。義に飢え渇く者は幸いである。