私が関東に住んでいた時分、秋田の方々は温厚で人当りが良いと聞かされていた。そして、18年前、秋田に移り住んで、なるほど秋田の方々は温厚な人が多いと感じた。私の同郷の会津の人たちより、もっとマイルドだと感じた。確かに、県民性、地域性、または国民性、気質、性格、そういったものから来る柔和さがある。この人間的な柔和さと、キリストが語る柔和さはどう違うのだろうか?キリストが語る柔和さは、私たちが考える以上にレベルの高い柔和さが言われているようである。この柔和さは単なるおだやかな雰囲気を意味していない。またこの柔和さは、性格が弱いとか、臆病とかいうことでも、もちろんない。では、キリストの語る柔和の全貌を観ていこう。

第一に、この柔和さは、自制である。柔和な人は感情の暴走はない。柔和な人は怒りを治める。ある人はキリストが語る柔和の意を汲んで、この箇所を「怒るべき時に怒り、怒るべき時でない時に怒らない人は幸いである」と訳した。正義が行われていない時など、怒るのは当然だろう。義憤という健全な怒りがある。しかし、個人的に何かを言われたりされたりして、苦々しい思いになって怒りを爆発させることがある。恨み、復讐心に燃えた怒りもある。しかし、柔和な人は、恨み、復讐心、苦々しい思いに支配されはしない。柔和ということばの反意語は「復讐、攻撃」である。いつもそういう感情を露わにしている人は柔和ではない。私たちは普段は自分は柔和だと思っていても、自分の思い通りにならない事態に遭遇した時に、以外に短気であることに気づかされる。つまらないことでイライラしてしまい、その感情を治められなくなったりする。でも柔和な人は、そのような感情を制御できる。箴言25章28節にはこうある。「自分の心を制することのできない人は城壁のないこわれた町のようだ」。感情の爆発、いらだち、暴力、それらは柔和さと正反対である。柔和な人は怒りを遅くする。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)。

実は、「柔和」ということばの原語<プラウス>は、野生の馬を調教する意味でも用いられた。野生の馬は概して暴れ馬。もし野生動物が本能のままに行動しているだけならどうだろうか。能力はあっても始末が悪い。力ある動物であっても役に立たない。それは命令に従うように訓練され、飼いならされ、手綱通り動くように調教されなければならない。私たち人間を調教するお方は誰なのかと言えば、それは明らかである。主なる神は私たちに造り主であり、主人であり、飼い主である。本当に柔和な人とは、心の貧しい人でもあるので、自分で自分の衝動や激情を完全に支配できないことを知っていて神に拠り頼む。柔和な人は自分を神に明け渡し、神に支配されることを選び取る。柔和さは神に完全に支配された力である。柔和な人は神に明け渡しているのでコントロールが効く。もうそれは、手に負えない野生の荒馬のようではない。神さまが手綱を握っている。神さまが私たちを柔和にしてくださるお方、自制を与えてくださるお方である。

この柔和の一例を挙げよう。Ⅰペテロ2章21~23節をご覧ください。キリストは何の罪もないお方。なのに罵倒され、むち打たれ、十字架刑にまで遭わされた。これほどまでの不当な苦しみを受けたら、復讐心をもたないということは考えられない。しかし、キリストは復讐心どころか、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください」とまで祈られた。ここに本当の強さを見る。弱い人はののしられたらののしり返し、苦しめられたら逆上し、いつまでも恨み言をたらたらである。そうならなかったポイントは、23節の「お任せになりました」という事実である。私たちも神にお任せするということを学習しよう。ある人はこう述べている。「自分自身を、自分の言いたいことを、自分の権利を、そのほかすべて神にゆだねて、心も理性も感情も安らかにしていればいいのである」。至言である。

第二に、この柔和さは、人に対する優しさである。事実、柔和は「優しさ」と訳すことができる。しかし、これは、気弱とか、軟弱とか、静かさというのではない。本当に優しい人は内側に力がある。実例を挙げよう。旧約聖書にダビデという人物が登場する。戦国時代のこと、彼は命を狙われ、逃亡生活を送っていた(Ⅰサムエル記24章)。彼は指名手配の身であったわけだが、何も悪いことはしていない。イスラエルの王サウルが、部下のダビデの人気が余りに高いことから、ねたみから殺害しようとしていた。それを知ったダビデは逃亡を計った。ある時、たまたまダビデが隠れていた洞穴に、サウルが用をたすために入ってきたことがあった。サウルはその洞穴にダビデがいることに気づいていない。ダビデの部下は、この人でなしの男を殺すチャンスは今です、今が絶好のチャンスです、とダビデに話しかける。確かにサウルは悪魔に憑りつかれたような、残虐非道きわまりない男だった。一生懸命仕えてきたダビデを逆恨みし、血祭りにあげようとしていた。しかし、ダビデは部下に向かって、王様に対して何を言うかと、あくまでもサウルに丁寧に礼儀をもって接しようとする。彼はサウルの前に出てひれ伏し、弁明し、すべては神さまにゆだねることを告げる。彼はあくまで主君に対して柔和に接した。「柔らかな答えは憤りを静める」(箴言15:1)とあるが、ダビデは柔らかにサウルに接した。ダビデは、サウルが戦死した時も、りっぱな人物だったと称賛のことばを述べている。悪口は吐いていない。ダビデは自分の権利も主張も将来も神さまにゆだね、そして自分を敵視するサウルに対して柔和に優しく接した。ダビデも欠点ある人であったが、彼が神さまに祝福されたのはわかるような気がする。

第三に、この柔和さは、神の前での謙遜である。事実、柔和は「謙遜」とも訳せる(欄外注「へりくだった者」)。柔和な人は自分に対してへりくだった考えをもっている人である。自分の罪深さ、無価値さを知っている。今日の幸いの教えは、八つの幸いの三番目だが、一番目からつながっている。一番目の「心の貧しい者」の「貧しい」ということばは、貧しさを表わすことばの中で、一番貧しい一文無しの極貧を表わすことばで、人に恵んでもらうより他はない乞食に使用されることばであるということを学んだ。心の貧しい者は、道端で物乞いをしている乞食のような姿で、神の前に出て、「自分は罪深い者です。救いを恵んでください」とへりくだっている者のことである。その人たちは当然、二番目の「悲しむ者」である。この場合の「悲しむ」ということばも悲しみを表わすことばの中で一番強いことばが使用されており、何を悲しむかというならば、何よりも自分の罪を悲しむ。この人は神の前に出て、「わたしはみじめな罪人です。あわれんでください」と求める。悲しむ者は自分に対して全くうがった見方をしていない。これが第三の幸いに続く。だから、柔和とは、おごり高ぶり、傲慢とは無縁であることがわかるし、生まれつきの気質の問題と違うことが言われていることがわかる。人づきあいがいいとか言うよりも、神の前に謙遜であるかどうかということが問われている。自分の能力、正しさ、それまでの功績などについておごった考えをもたない。すべては神の恵み、神のおかげとそれだけ考えている。自分に関しては、十字架刑がふさわしい罪人としか考えていない。真にへりくだっている。ある人は次のように述べる。「真実に自分を見つめるならば、自分についてひどすぎることを言える者はいないことがわかる。人々が何を言い、何をするかについて思い煩う必要はない。自分がそれらすべてにあてはまるばかりでなく、むしろ、それ以上であることを知っているからである。したがって私は、柔和を次のように定義したい。真に柔和な人は、神も、他の人も、自分をこんなに良い者に見て扱ってくれることに驚いている人である」。それだから柔和で自分に対してへりくだった見方をしている人は、人のことばで簡単にカリカリすることはない。その反対に自尊心の固まりのような人は、プライドが高く、防御心が強く、過剰な反応をし、逆上し、怒り、叫び、悪口などに姿を変える。

第四に、この柔和さは、神への信頼の表れである。謙遜は神への信頼へと当然向かう。自己信頼、自慢、自己主張へと向かわない。今まで観てきたように、神にすべてをゆだねる。だから心落ち着き、それが柔和な態度となって表れる。柔和<プラウス>ということばは、痛みを和らげることや、そよ風にも用いられたことばである。それは痛くてわめきたくなることや、暴風とは反対である。安心感のある落ち着いた心は、神への信頼から生まれる。

旧約聖書にアブラハムという人物が登場する。彼には甥のロトがいた。ロトは当然アブラハムの年下である。二人は羊飼いで遊牧民であった。ある時、アブラハムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者たちの間に争いが起こった。互いの群れが増えてきたために、居場所をめぐっていさかいが増えてきた。(創世記13章)。彼は争いを好まない。年下のロトに向かって言った。「あなたの取りたい地を取りなさい。あなたが左に行けばわたしは右に行き、あなたが右に行けばわたしは左に行く」。彼はこうして自分の権利を要求しなかった。年下の者に対して一歩引き下がり、先はどうなるか、神さまにまかせた。彼はロトと言い争い、けんか別れすることもできただろう。全部おれの言う通りにしろと、歳の力と人間的な知恵で言い負かすこともできただろう。けれどもあくまでも柔和だった。これまでの自分の人生の歩みを導いてくださった神さまに、この問題をゆだねようという信頼があったからである。自分の人生を自分で支配しようとやっきになっている時に、柔和になる余裕はなくなる。競争社会に生きている現代人は痛感するところである。権利を主張し、相手を押しのけて生きていかなければならない。そのためには骨肉の争いも辞さない。これはある意味、疲れる人生。心にゆとりはない。しかし、神さまにゆだねることを覚えている人は幸いである。アブラハムは、結果、最善の土地に導いていただいた。

柔和の最大の模範は、やはりイエス・キリストである。キリストはろばに乗ってエルサレムに入城する場面で「柔和」ということばが当てはめられている(マタイ21:5)。またパウロは「キリストの柔和」ということばを使用している(Ⅱコリント10:1)。キリストの柔和さは、福音書全体から知ることができる。

最後に、柔和な者に与えられている約束に心を留めよう。「その人たちは地を受け継ぐから」。この教えを直接聞いていたユダヤ人は、今、自分たちが住んでいる地はローマによって植民地下されているということが心をよぎったはずである。ここ場所はパレスチナである。彼らはローマ人たちの暴力、攻撃によって自分たちの地が奪われたことを恨みに思っていた。彼らは、「力には力だ。暴力には暴力だ。攻撃には攻撃だ。報復を遂げて奪回してやる」と考えていた。そして奪回した地こそ神の国だと考えていた。今もこの論理で、パレスチナは争いが絶えない。人間的な力、攻撃、復讐心で何とかしようとしている。しかし、それは神のみこころではない。そして、この場合、明らかに「地を受け継ぐ」の「地」とは、砂ぼこりが舞う領地といった次元のことではなく、もっと、霊的な次元の地のことが想定されている。それは「新天新地」と呼ばれる完成した神の国のことである(黙示録21:1;イザヤ66:22)。この新天新地は、今の罪の世界、物質世界が姿を消した後に出現する神の国のことである。この神の国を柔和な者が相続するとキリストは言われる。この神の国は罪も悲しみも災いも死も暴力もない世界である。そこは、復讐心を持つ者、高慢な者、争い好きな者が受け継ぐ世界ではない。

地を受け継ぐということに関して、クリスチャンの方に一つ付け加えて終わりたい。「地を受け継ぐ」という表現は、詩編37編11節が土台となっている。37編1~11節を開いて読んでみよう。「貧しい者は地を受け継ごう」の「貧しい者」<アナヴィーム>というヘブル語の別訳は、「柔和な者」「へりくだっている者」となる。この37編を観察するとわかるが、貧しい者が悪者と対比されているが、悪者とは高慢で神に信頼しない者のことである。一見そちらの人が幸せに見えるが、彼らは断ち切られ、神の国を相続できないことが言われている。だから、彼らのしていることをねたんだり、腹を立てたりすることは愚かだと随所で言われている。柔和な者は、そうしたことをせず、第四の特徴で観たように、神に信頼しゆだねていく。それは詩編37編5節からもわかる。5節を改めて読もう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。柔和な者はこれを実践する。

今日は、キリストの語る、聖書が説く柔和さの全貌をさぐった。柔和とは、自制であり、人に対する優しさであり、神の前における謙遜であり、神への信頼の表れである。私たちは自分の心との戦いの中で、柔和さを失ってしまうことがあるが、我に返り、繰り返しこの柔和さを主に求めよう。