本日は、山上の説教と言われているキリストの有名な説教の2回目である。キリストは小高い丘の上で、最初に八つの幸いの教えを語られた(3~10節)。キリストが言われている「幸いです」ということばは、「幸いにも助かった」というような消極的な意味ではなくて、ハッピーというニュアンスのことばである。文字通り幸福だぞということである。何が幸福なのかと思えば、キリストの語る幸福とは、基準が違うと言おうか逆説的である。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」。一般に、悲しむ者が幸福だとは考えない。悲しみには不幸のほうが当てはまると判断するだろう。一つ目の「心の貧しい者」(3節)もその通りである。「貧しい者」とは、貧乏だが何とかやっていけるということばではなくて、一文なしの物乞いを指す、極貧状態の人を指すことばだった。通りに座って人から恵んでもらわなければ生きていけないような人たちを指すことばである。であるから、ある日本語訳は「心の貧しい者」を「心の乞食」と訳している。その人はどういう人かと言うなら、自分を善人であると全く思っていない。「自分のうちには善は宿っていない。心は破産状態だ。だから自分の良さで救いに与ることはできない。救いは神に恵んでもらうしかない」と考える。

「悲しむ者」とは、「心の貧しい者」のもう一つの姿である。それを観ていくにあたり、様々な悲しみに思いを向けてみたい。人はどのようなときに悲しむだろうか。うちの人ったらなんてことをしてくれるの…。今日は苦手なことをさせられる…。病気になってしまった…。お金がない…。また今日も雨…。悲しみの種、悲しむ理由は尽きないが、必要な悲しみというものを、三つに整理してみたい。

第一に、日常一般の悲しみ。それは失敗したり、困難に直面したり、病にかかったり、死に直面したりするときの悲しみである。アラブの詩人は意味深いことを言っている。「お天気ばかり続けば砂漠となる」。これは何を言いたいのだろうか?むろん、天気のことだけを言いたいのではない。こういうことである。太陽の恵みはありがたい。でもいつも日が照っているとしたら、土地は乾き、果物も野菜もできない。実は結べない。悲しみという雨の体験は、太陽の恩恵というものをしみじみと感じさせることになる。そして悲しみのときに人はへりくだり、物事を深く見るようになり、たましいに新しい力と美しさとが加えられることになる。「お天気ばかり続けば砂漠となる」は本当である。人がより学び、成熟するのは、何もかもうまくいっているときよりも悲しみのときである。ある詩人はこう書いている。「悲しみが私とともにあったとき、私は価値あるものを得た」。もし楽続きで何も悩まなかったならば、心は浅はかなままで、実を結ばないで終わってしまう。聖書の詩人ダビデは、「私の涙は、昼も夜も私の食物でした」(詩編42:3)と言っている。どれだけ悲しんだのか。しかし、その涙は涙では終わらなかった。彼は実を結ぶ人生を送ることになる。

第二に、この世の悪や災いに対する悲しみ。悪いニュースには事欠かない毎日である。災害もまたしかり。聖書には「貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰をまぬがれない」(箴言17:5)ということばもある。悪や災害を悲しむということは自然なことである。勤労者や子どものために身を捧げたイギリスの高名なクリスチャン社会事業家の話を読んだことがある。彼が社会事業の働きに進むきっかけとなったのは子どもの時に目にした些細な事件であった。彼が町を歩いていると貧しい人の葬式にゆきあわせた。手押し車に粗末な棺桶が乗っていて、それを酔っぱらった四人の男が押していた。しかも下品な冗談や歌を口にしながら。坂道にさしかかると、棺桶が滑り落ち、中身が出てしまった。彼はこの光景を見て悲しみ、「ぼくが大きくなったら、こんなことが再び起こらないようにするために、生涯を捧げよう」と自分に言い聞かせたという。このように、社会の悪に対する悲しみや災いに対する悲しみから行動を起こした人は数多くいるだろう。私たちは死そのものも、それは自然なものではなく災いであることを心に留めておきたい。

第三に、自分の罪に対する悲しみ。そしてこれが、キリストの語る悲しみの本質である。新約聖書の原語ギリシャ語において、悲しみを表わすことばは九つあると言われているが、ここで使われている「悲しい」ということば<ペンセオー>は、もっとも強く、もっとも激しい悲しみを表わすことばである。「心の貧しい者は幸いです」の「貧しい」が、貧しさを表わす一番強いことばが使われているのと同様である。この悲しみは、外側に表れて、涙となるか嘆きのことばになるかは別として、心の内側の深い悶え、苦悶を意味する。ある方は4節を次のように言う。「自分の罪と無価値さを絶望するほどに悲しむ者は幸いである」。心の貧しい者は自分の内側に何も良きものがないのを知って、この悲しみを持つに至る。罪は喜ぶ対象ではないことは頭では分かっている私たち。しかし心から悲しむに至らない愚かさ、鈍さ、ごまかしというものが私たちにはあり、浅い罪意識で終わってしまう。深い苦悶、絶望するまでの悲しみに至らない。

私たちは、これくらいは小さい罪で気にすることもないと思いがちである。でも、靴の中に小さな石が一個入っただけでもどうだろうか。歩きにくくなり、痛みが増し、小さな米粒みたいな石のおかげで全身苦痛になる。私たちは人への苦々しい思い、欲情、身勝手な思い、そういうものを隠して、表面的にスマイル、スマイルで世の中を渡っている。けれども神は悲しむことを望んでおられる。次のような聖書のことばがある。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」(ヤコブ4:9~10)。

私たちは自分に正直になろう。また聖い神の前に、包み隠さず自分の心を開こう。神の光を心に照らしていただこう。私は、私が、と自己主張することは止め、自己弁護も止め、人を非難することも止め、神の前に、それは確かに罪です、と認めることから始めよう。うぬぼれ、自負心、思い上がりは罪を悲しみことを妨げる。心貧しくなり、罪を悲しもう。罪は喜ぶものでも、愛するものでもない。

また、罪を悲しむ者は罪に起因するすべてのものを悲しむ。先に述べた、この世の悪や災いを。人の罪が世界を苦しみで満たしている。それはアダムとエバの罪以来、罪の呪いが世界に入ってしまったからである。

キリストは悲しむ者が幸いな理由として、「慰められるから」と説いている。「慰められる」、ここに悲しむことが幸いの理由がある。さて、誰からの慰めのことを言っているのか。人からのではない。あるご年配の男性が入院した。全身から力が抜け、寂しそうな様子だった。私の知り合いの方がその方を見舞った。「おじいちゃん。寂しいの」。「うん、寂しい」。続いて、「でも奥さんがいるから寂しくないでしょう」。「いや、いてくれてもたまらなく寂しくて不安です」と答えられたと言う。死に直面した人は一様に同じ気持ちになる。聖書は「罪から来る報酬は死です」と教えている。人間は罪を持っているという現実があり、死ぬという現実がある。こうした人間を真に慰めることができるのは主なる神さましかいない(「慰められる」(神的受動態))。

よって、慰めは主キリストから来ると言ってよい。実は、この時代、人々は救い主の到来を待ち望んでいた。ある時、キリストは救い主到来の預言が書き記されている、旧約聖書イザヤ書61章を開いて、ご自分が預言されていた救い主であることを人々に示されたことがあった。イザヤ書61章1~3節を開いて読んでみよう(P1226)。「・・・すべての悲しむ者を慰め・・・」とある。慰めると聞くと、暖かいことばをかけることや、励ますことを想像する。けれども、裁判官に死刑を宣告された犯罪人や、医師に死を宣告された重病人に対して、大丈夫よと言っても、それは本当の慰めとはならない。犯罪人には赦し、赦免があって慰めとなる。重病人には死ではなく命が約束されて慰めとなる。

聖書は罪がもたらすのは死であり裁きである、永遠の滅びであると告げている。そこに何の慰めもない。人の力でこれらをどうすることもできない。だがキリストはこのような私たちを慰めようとした。十字架と復活によってである。キリストは私たちの罪を十字架の上で負い、私たちの身代わりとなり、何の慰めもない裁きを私たちに代わって受けられた。キリストが十字架についたとき、空は真っ暗になった。それは罪の裁きを受けている何の慰めもない状況を意味していた。こうしてキリストは、私たちの罪を負って悶絶した。私たちを罪とその結果である裁きから救うために。そしてキリストは三日目によみがえり、死に勝利され、私たちのために永遠のいのちに生きる世界を用意してくださった。ヨハネの黙示録21章3~4節をお開きください(P500)。「・・・彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない・・・」。ここに最終的な慰めがある。これは完全な慰めであり、永遠の慰めである。この世界に私たちを招くために、キリストは十字架と復活のみわざを行ってくださった。皆さんも、この慰めを受けたいと思われないだろうか。それならば、過去の自分の罪、現在の自分の罪を悲しむことから始めてください。そして神の前に罪を告白し、キリストを救い主として信じ受け入れてください。

キリストを信じるとき、慰めはその時から途絶えずにあると言える。罪が赦され、天の御国に入ることができるという慰めだけではない。キリストは人生の同伴者として私たちを慰めてくださる。キリストは信じる者とともに歩み、私たちを孤独にはしない。苦難の時も重荷をともに担ってくださる。キリストは約束された。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。

「慰める」<パラカレオー>ということばは、「そばにいて助ける」というニュアンスのことばである。この動詞を名詞にすると「助け主」となる。それはキリストに適用されている(ヨハネ14:16「助け主」<パラクレートス>弁護する者としてそばに呼ばれた者の意)。キリストは私たちを孤独にしない。助け主としてかたわらにいてくださる。だから、心強い。このお方と地上の人生を歩めるということ自体が慰めである。

今日は、「悲しむ者の幸い」について観てきたが、うすっぺらな笑いに包まれている世界にあって、「悲しむ者は幸いです」というそのことば自体に慰められるような気がする。キリストは悲しみを引き起こす一切のものから私たちを慰めることができる。だから、私たちは神の前に、キリストの前に、自分を良く見せる必要はない。自分をとりつくろう必要はない。悲しみを隠す必要もない。キリストのもとに来て悲しむ者は幸いである。悲しむ姿でキリストのもとに行こう。

最後に、クリスチャンの方々にお話して終わりたい。先ず、自分を憐れむという意味での涙は無用であるということ。神さまはそうした悲しみは望んでおられない。そして、「悲しむ者は」ということばは、原文から詳しく訳せば、「現在、悲しんでいる者は」また「悲しみ続ける者は」という訳にもなる。つまり、「過去、悲しみましたが、今は罪を悲しみません」ではいけないということ。それは、過去自分がすでに告白して罪について嘆き悲しみ続けるというのではなくて、それは赦され、海の深みに投げ込まれたのだから、それが赦されていないかのように悲しむということではなくて、今、ここで、今日犯したと思われる罪を悲しむということ、また罪そのものを悲しみ続けるということ。

クリスチャンになったら悲しみはなくなるというのはうそである。私たちは光の子とされたわけだから、以前より罪に対して敏感なり、以前より罪に対する悲しみが強くなっていくはずである。以前であったら取るに足らないと思っていたものも、罪として告白するはずである。悲しみ続けるというのは、悔い改める習慣を持つということである。洗顔や歯磨きやご飯を食べること同様に習慣化するということである。

私たちは悲しみ続ける者でありたいと思う。悲しむ者こそ、実は本当の意味で明るくなる。なぜなら、その人には罪の赦しと神の慰めがあるからである。