本日より、「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれるキリストの説教を学んでいこう。場所はイスラエルのガリラヤ地方の西側にある、急勾配な土地である。そこは静かな丘である。ここで有名なキリストの説教が語られることになる。

1節を見ると、群衆と弟子たちに語られたことがわかる。そして弟子たちのことが一番に念頭にあったことがわかる。弟子たちを一番に意識して語られたわけだが、群衆の中からもやがて弟子になる者が起こされることを期待しつつ、群衆に向けても語られた。

1節を見ると、キリストは座って語られたようである。長時間の教えになるので疲れるから座って語るというのではなく、これは権威のポジションである。当時イスラエルの教師たちは大切な教えを語るとき、座るという姿勢を取った。キリストはこの時、神的権威をもって語られたということである。

キリストは最初に八つの幸いの教えを語る(3~10節)。八つの幸いの中で、今日お読みした最初の四つが一区分である「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇いている者」(3~6節)。ここでは同じ内容を、角度を変えて、いろいろな表現で言い変えている。神の前にへりくだるというのが、その教えの本質である。それが端的に表されているのが、一番目の幸いである。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちの者だから」。原文では「幸いです」が文頭に来ている。「幸いなるかな。心の貧しき者たちよ」。「幸いです」とは、ご存知のように「しあわせです」という意味である。でも、そのしあわせの定義は私たちの意表をついている。それは「貧しい」という表現で言い表されているからである。

貧しさにもランクがある。“貧しくて困っている。でも物乞いまでしなくても、なんとか生活を切り詰めてやっていける”という貧しさと、“もう生きていけません。物乞いするしかありません”という極貧の貧しさ。キリストが使用している貧しさということばは、なんと後者である。極貧の貧しさ、物乞いするしかない貧しさである。原語は<プトーコス>。

「貧しい」と聖書で訳されていることばは他にもある。ルカ21章1~4節を開いてみよう。「貧しいやもめ」(2節)と言われている。でも彼女はまだコインを2枚所有していた。ここで「貧しい」と訳されていることばは、普通の貧しさを意味することばである。原語<ペニクロス>。貧しいけれども、ある程度の財はある。当時はこうした貧しさを越えて、物乞いなどをして、他者に頼って生計を立てている者も多かった。

ルカ16章19~23節を開いてみよう。ラザロという物乞いが「貧しい人」(20節)と呼ばれている。ここで「貧しい」と訳されていることばは、マタイ5章3節と同じ<プトーコス>。この原語は、「ちぢこまる、ぺこぺこする」という意味を持ち、街角でしゃがみこんで物乞いをする、極貧状態に身を落とした人物に適用されることばである。

しかしキリストは「心の貧しい者たち」と言っているので、物質的な貧しさについて言及しているのではない。けれども物質的な貧しさと全く関係ないわけでもない。当時も今も、金持ちは幸福というしあわせ観がある。けれどもしばしキリストは、金持ちは神の国から遠い、救われにくいことを語っている。金持ちだから救われないというのではなく、金持ちは神さまにではなく金銭に心を奪われやすく、傲慢になりやすいからである。それは心の貧しさと正反対の態度である。反対に心の貧しい者たちは、金銭の富を追求する姿勢は持たないだろう。

では心の貧しさということを丁寧に探っていこう。「心」<プニューマ>は「霊」を意味することばである。それは肉体を剥いだ、その人のありのままの姿と言っていいだろう。<プトーコス>は極貧で破産状態の貧しさを意味することばなので「乞食」と訳している聖書もある。もはや、それは自分に頼って生きていける状況にはない。絶望的な貧しさである。他に助けを求めるしかない。他に頼るしかない。物乞いしかない。しかも心の乞食である。どういうことだろうか?私たちは自分は完全な人間ではないけれども、欠けはあるけれども、それでも捨てたものではなく、神の国に入る資格があると思ってしまう。自分の善良さに頼ってしまうわけである。言うなれば、自分は義人である、善人であるという自己判断から抜け出せない。まだ自分には望みがある、このままで救われる資格があると思ってしまう。他人との比較ならそれでいいだろう。しかし、ここで問われているのは、聖なる神の前での心の貧しさである。

実は、ルカの福音書に心の貧しい者の事例が取り上げられている。ルカ18章9~14節を開いてみよう。ここはパリサイ人と取税人のたとえである。どちらが心の貧しい者かは明らかである。「神さま。こんな罪人のわたしをあわれんでください」(13節)。これが心の貧しさである。彼は心において物乞いのポジションに身を置き、神に救いの恵みとあわれみとを求めている。14節であるように、心を低くすること、すなわち、神の前でのへりくだりが心貧しくすることの核心である。この取税人は、自分の内側に神に受け入れられる良きものは何にもないことを認めた。自分は不敬虔な者で、神の国の門をくぐる資格はまったくないことを認めた。救いのために自分の何かに頼ることはできないことを認めた。自分が霊的に一文無しであることを認めた。「もう自分には何にもありません。助けてください。救いを恵んでください」と言う他はなかった。神さまは、「私は善良な人間で、良い行いを積んできた。私はこの蓄えを差し出して神の国の門をくぐる」という者をどうするのか。神の国の門は低い。自分を高くする者は入れない。神の国が心の貧しい者たちが住む世界なのである。自分は罪深い者で何のいさおしもなく、自分は十字架刑にしか価しないような者だと認めることができる者だけが、この門をくぐる。心の貧しい者は、自分は十字架刑がふさわしく、キリストの十字架は、私の罪のための身代わりだったと素直に認める精神を持っているだろう。

ルカ23章39~43節をお開きください。キリストとともに十字架につけられた強盗の一人は、41節にあるように、自分は十字架刑は「あたりまえだ」と心を貧しくしていた。この彼に神の国は約束された。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(43節)。心の貧しさを「へりくだり」とともに「無価値」ということばで表わす聖書学者も多い。自分の無価値さを認めるとは、「自分は十字架刑にしか価しない」と認めることである。

聖書には、その他、心を貧しくした人たちの話が出てくる。新約聖書の半分はパウロという人が執筆したが、彼は傍目には善人で、さきほどのたとえに登場したパリサイ人の一人で、パリサイ人の中でも優等生というすぐれ者であった。昔の人が定めた言い伝えを非の打ちどころなく守った人であった。けれども、そんな彼も、やがて自分を素直に見つめ告白している。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」(ローマ7章18節)。そして「私は罪人のかしらです」(Ⅰテモテ3章15節)とまで告白している。

心貧しくなることと、罪との関係をもう少し触れておこう。心貧しくなるとは、実際に自分の内側にある罪を、まっすぐ認めることである。自分の内側にある憎しみやねたみや暴力的な感情、汚れや偽り、それらをまっすぐ認めることである。「そんなものは自分の内側にはない」という風に自分を欺くことができる。自分が低く見られてしまわないために、自分を批判する人をやり込める事によって、自分を高く保とうとする意思も働く。だが私たちは、これこそ自分だと覚悟を決めて認めなければならない。

神さまは心砕かれへりくだった者を神の国に救いいれたい。砕かれて悔いた心を望まれる。つまらないプライドを捨てるまで、その人は神の国に入れない。私たちという器は空にならなければ、神さまはその人を良きもので満たすことはできない。その人は自分の内側を餓死させなければ、神の国で生きることはできない。自分が無価値であることを認めるまで義とされない。罪に死んでいることを認めるまで、罪に対して無力であることを認めるまで、神のいのちを受けることはできない。十字架刑に服する心がなければ天に引き上げられることはできない。ただ、心貧しくなるときにのみ幸いは来る。

「貧しさ」ということばは聞こえは良くないが、心が貧しくなると、自分がシンプルになれるような気がする。人間の本来あるべき姿に回帰できると言おうか。神と人間という関係がはっきりする。神に拠り頼んで生きる生活が身に着く。自分のプライドから来るストレスからも解放され、平安が与えられる。自分を大きく見せる必要もないし、過去の業績にしがみついている必要はないし、素直な自分になれる。言うなれば、子どものようになれる。マタイ18章1~4節をお開きください。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国にはいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です」(3,4節)。私たちは年齢が進むとともに頑固になり、自分のプライドにしがみつくと言われている。ここでキリストは、子どもを心の低い人の見本として皆の前に立たせている。悔い改めて心低くへりくだっている者が天の御国で一番偉い者とされる。今日のみことばを通して、自分の本当の姿に気づいているのか、自分を欺いていないのか、自分は神の前で普通の貧しさに甘んじてはいないのか、本当の意味で貧しくなっているのかと、それぞれが吟味したいと思う。

最後に、クリスチャンの方に、「天の御国」について少し解説して終わりたい。何度もお話するように、マタイの福音書は「神」ということばを神聖なことばとして使うのをためらったユダヤ人を強く意識して書かれたので、「神の国」ではなく「天の御国」という用語を多用する。「神」ということばを「天」ということばで代用しているわけである。他の福音書ではすべて「神の国」である。一世紀のユダヤ人たちは、この神の国を政治的王国と考えていた。彼らはこの神の国をもたらすために、他国の暴力的圧政に対しては、暴力的革命あるのみと信じ込んでいた(現在のISなどがそう)。武力には武力、力には力だ!けれどもキリストは、神の国は政治的力や暴力や革命によってもたらされるものでないことを教えている。まちがっても戦争でもたらされる国が神の国ではない。またキリストは、暴力や人間的力に頼る高慢な者たちが神の国に入ることができるのではないことを教えている。心貧しくて、自分の無力さを認めている者たちが入る国が神の国である。神の国とは「神の支配」を意味する。それは霊的な側面がある。救われたたましいは神の支配の中にある。そのような意味で私たちはすでに神の国の中に入っている。神の国はキリストの宣教によってすでに来ている。けれども神の国は「いまだ」完成していない。それはキリストの再臨によって完成する。私たちは、その完成した神の国に入ることを待ち望んでいる。以上のような説明から、神の国は「すでにいまだ」の世界である。

マタイの福音書のテーマの一つは「神の国」である。山上の説教は、神の国の律法を説き明かす。それは、神の国の民とされたクリスチャンの生活基準と言って良いものである。山上の説教は第一義的には、信仰者のために語られている。心貧しい者は、罪人である自分の霊的無一文さを知っているので、へりくだって全く神に信頼して歩む。自分の何かに頼ったりしない。それが信仰の基本であり、常なる信仰の姿である。山上の説教を読み進んでいくと、余りにその要求が高いので、驚かされる。「あなたの敵を愛しなさい」等。しかし、これは心貧しき者たちへの教えであるということを理解したい。つまりキリストは、人間の力、罪人の力では無理なことを承知で語っておられる。人間にできはしない。でも心の貧しい者は、罪人の力では神の命令に従えないことをはっきりと自覚しているので、神に拠り頼む。自分に絶望し破産宣告をしているので、神の愛、力、真理といった神の性質を求める。結果的に、できないと思っていたことができるようになる。心の貧しい者は、神の戒めの一つ一つにおののきながら、自分にではなく神に拠り頼む姿勢でそれらを実践しようとする。失敗したときは謙遜になって悔い改める。成功したと思ったときは、自分のおかげとしないで、それができたのは神のおかげです、神の恵みです、と神に栄光をお返しする。心の貧しい者はすべては神の恵みであることをわきまえている。そして自分は十字架刑にしか価しない者であることをわきまえている。