今日の箇所は、荒野の第三の誘惑である。第一の誘惑で悪魔は、空腹のイエスさまに対して、石をパンに変えてみよと誘惑した。これは肉体の欲求や生活の不安を煽る性質のもので、神への不従順を誘うものであった。もしこの誘惑に乗ってしまえば罪を犯すということになるわけなので、人類を罪から贖うというメシヤとしての資格を失ってしまう。イエスさまは、神のことばに従うことが真の食物であることをわきまえておられ、みことばで反撃された。第二の誘惑は、世間をあっと言わせることをしてみないかと、いわば名誉心に訴えるもので、神を試みるという不信頼へと誘うものであった。当時、神殿の頂にメシヤが立つと言われていた。この神殿の頂から飛び降りてかすり傷も負わなかったらどうなるか?大歓声を浴びて、民衆にメシヤとしてあがめられる。これは十字架という苦しみを避け、民衆の喝采を浴びてメシヤになれるという誘惑。悪魔は、神が御使いたちに命じて守ってくれると聖書に書いてあるぞと、聖書をでたらめに引用して自分の誘惑を強化するが、イエスさまはその手には乗らない。それは神を試みることでしかない。イエスさまはまたもや、みことばで反撃される。そして第三の誘惑は、偶像崇拝に関わる誘惑である。

第三の誘惑では、場面が「非常に高い山」に変わる(8節)。どこの山かはわからないが、悪魔がイエスさまをこの山に連れてきた目的は、「この世のすべての国々とその栄華」を見せることにあった。第一の誘惑の時にお話したように、悪魔の別称には「この世を支配する者」(ヨハネ12:31;14:30;16:11)、「この世の神」(Ⅱコリント4:4)がある。そしてまた、こうも言われている。「世全体は悪い者の支配下にあることを知っている」(Ⅰヨハネ5:20)。聖書は悪魔をこの世の目に見えない統治者として描いている。当時、栄華をきわめていた国と言えば、エジプト、ローマ、ギリシャなどであると思うが、悪魔はこれらの国々をパノラマ的に見せたのだろうか?

そして悪魔は言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」(9節)。なぜ、これがイエスさまに対して誘惑になったのだろうか?これは、あなたは私を拝むならば、全世界の王になれるという誘惑であろう。聖書の最後の書である黙示録にはっきりと啓示されているが、神の小羊キリストは王の王として、やがて全地を支配される。キリストの再臨後、今の地上世界とすべての人類は裁きを受ける。そして神の都が天から降り立って、神の国は完成する。いわゆる完成した御国である。キリストはこの御国の王となり神殿となり太陽となり全てとなる。この御国が訪れるように、「御国が来ますように」と主の祈りで祈ることが教えられている。この御国がもたらされるために、キリストが避けて通れない道があった。それは十字架の道である。キリストの十字架は人類と被造物の贖いのために避けては通れない道である。十字架なくば、罪人である人間はだれ一人として御国に入ることはできない。また、御国も完成しない。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです」(コロサイ1:20)。十字架なくば万物の回復、再統合、新天新地はない、すなわち御国の完成はないということである。すべての悪しきものが一掃されキリストが治める世界は、十字架なくば来ないということである。悪魔は世界の支配権をちらつかせて誘惑してきているが、もし十字架を避けて、悪魔にひれ伏してしまったら、実際はその支配を失う。十字架を避けて、悪魔にひれ伏すことは行為として簡単である。しかし、もしそうしたら、神の小羊はただの獣になってしまう。そして、世界は、悪と死と不幸が止まない暗黒の世界として希望を失ってしまう。悪魔の支配が終わらなくなってしまう。

イエスさまはこの誘惑に10節にあるように、「下がれ。サタン」と叱責して、みことばによって打ち勝たれ、その後11節にあるように、「すると悪魔はイエスを離れていき」とあるのだが、十字架を避けさせようという誘惑はこれで終わりではなかった。マタイ16章21~23節を見よ。悪魔はペテロを通して十字架を避けるように誘惑している。血を流し、死の苦しみを味わうことなど止めよ、と誘惑している。御国をもたらす神のご計画をぶち壊すために。イエスさまはここでも、「下がれ。サタン」と言って誘惑を退けられた。

今日の誘惑も私たちと関係ないことではない。偶像崇拝との戦いは日常的である。悪魔崇拝をしている人たちは、富と名誉と世界を支配する力を受けるために、代償として、たましいを悪魔に売り渡す儀式を本当にするそうである。愚かしいことに世界の富裕者層の人々の中には、怪しい秘密集団に加盟して悪魔崇拝をしている人たちが現実にいる。また魔術を行う者たちも悪魔を神として拝んでいる。日本人も、商売繁盛、家内安全、無病息災を謳う神々に対して、考えもせずに頭を下げたり、手を合わせる傾向にあるだろう。対象は動物でも死んだ人でも起源が不確かな神々でも何でも構わない。ご利益さえあればいいという風潮である。

当然のことながら、クリスチャンもこの誘惑には警戒しなければならない。先ず、石や木の神を拝む誘惑にさらされることがある。偶像を拝ませる最近の巧妙な論理はこうである。「それは偶像崇拝ではない。石や木は神ではないことは承知している。そこに手を合わせるというのは、それらが象徴している神仏に手を合わせるということなので偶像崇拝に当たらない」。これは巧妙な罠である。

偶像崇拝の誘惑はキリスト教界からも起きている。今、カトリック、そして聖書信仰を失っているプロテスタントの教会は偶像崇拝を許容している。先祖崇拝はおかまいなし。それどころか、その他の宗教の神々を拝むことすら認めてしまう人たちも多い。実は、今、神道だろうが、ヒンズー教だろうが、何だろうが、どの宗教の神さまに頭下げてもかまわないという教えが広まってきている。なぜなら、どの宗教を信じても、どの神さまを信じても救われる可能性があるから、としてしまうからである。これを「宗教多元主義」と言う言い方もされる。一休和尚の歌に「わけのぼるふもとの道はおほけれどおなじ高ねの月をこそみれ」というものがある。これを宗教にあてはめれば、たくさんの宗教、たくさんの神々はあるけれども、すべての宗教に救いがあるのだ、すべてが同じ神の実在に至るのだ、ということになる。世界の宗教の神々の総数は億を超える。その神々の成り立ちを調べると、聖書の神とは余りにもかけ離れているものが多い。架空の神々や神と人間の区別さえあいまいなものもある。調べれば一目瞭然である。どんな神を信じても救われるというのか。何に頭を下げても大丈夫だと聖書は言っているのか。

この者が以前、成田空港の喫茶コーナーで休んでいた時のこと。隣のテーブルでシスターが二人向き合って座って会話をしていた。「カトリックは信じ安くて言いわよね。だって、仏壇拝んでも、神社参拝しても構わないって教えですもの」。昔はそうではなかった。フランシスコザビエルが来日した当時の事、ザビエルらは偶像崇拝を禁止することに厳しかった。ところが1960年代に第二バチカン公会議が開催され、事実上、偶像崇拝を許容する教令を採択してしまった。「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」の一部を紹介すると、「たとえば、ヒンズー教においては、人々は、神話のくみ尽くされない豊かさと徹底した哲学的努力によって、神の神秘を探求し表現している。(他宗教のことも述べた後)・・・カトリック教会は、これらの宗教の中にある真実にして神聖なものを何も拒絶することはない。その行動様式や生活様式も、その戒律や教理も、心からの敬意をもって考慮する。それらは、教会が保持し提示するものと多くの点で異なっているとしても、すべての人を照らすあの真理そのものである光(キリスト)を反映することも決してまれではないからである」。このような具合で、偶像崇拝を戒める文は一文たりとも、分厚い公会議の文書からは見いだせない。カトリックの問題は今や、マリヤ像、教皇の像、聖人の像の前で手を合わせるにとどまらず、どの宗教の儀式にも倣ってしまうところまで進んでいる。聖書信仰に立たないプロテスタント教会も同じである。同じ神が観念や形や方法が違うと言えども、諸宗教によって礼拝されている、と言わんばかりである。彼らは、聖書が教える霊的現実に気がついていない。参考として、第一コリント10章19~20節をお開きください。パウロはここで、偶像の背後には黒い神がいることをはっきり教えている。だが、聖書信仰に立たない人々の中には、こうした悪しき存在すら認めない。ある方は悪魔も悪霊の存在も認めないと言われ、ある方は悪魔の存在は認めるけれども悪霊の存在は認めないと言われ、信徒にそう教えている。もちろんこうした人たちは偶像崇拝に手をだしてしまう。聖書は、悪魔も悪霊もどちらの存在も言っているではないか。そして、すべてが同じ神的実在に通じるなどとは言っていない。だまされてはならない。私たちは聖書信仰に立たなければならない。私たちは異教の人々を誰であって神に愛されているたましいとして敬わなければならないが、これと異教の儀式に倣い偶像に頭を下げることとは話は別である。

新約聖書には次のようなみことばもある。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。・・・偶像を崇拝する者」(Ⅰコリント6:9)。ほんとうに騙されてはいけない。「あなたがたは、異邦人がしたいと思っていることを行い、・・・忌むべき偶像礼拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です」(Ⅰペテロ4:3)。ほんとうに、それは過ぎ去った時で十分で、なお続けていてはいけない。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」(Ⅰヨハネ5:21)。ヨハネが教える警戒すべき偶像とは、ここでは形ある偶像というよりも、聖書の教えをミックスした、偽キリスト教の教えである。

イエスさまは悪魔崇拝・偶像崇拝の誘惑に際して、やはり、聖書のことばをもって反撃された。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(10節)。原文では「あなたの神である主」が強調されている。礼拝の対象である神が強調されている。そして、ここは命令形である。命令であって、何を拝んでも構わないという選択が許されているのではない。また「主にだけ」という表現に心を留めたい。仕えるのは主なる神オンリーということである。仕えるのは神々に祭られた死んだ人間でも、架空の神々でも、神々の化身の動物でも、天使的存在でも、その他何でもない。ただ、聖書に啓示されている神にだけに仕えなさいという教えである。ここは申命記6章13節のギリシャ語70人訳からの引用である。続く14節と併せ、開いて読んでみよう。続いて偶像崇拝を戒めている5章7~9節も開いて読もう。ここではまことの神にかたどってシンボル的な彫像を造ることさえ禁じられている。それも偶像崇拝である。私たちは偶像崇拝を避けよう。聖書に啓示されている唯一の神以外に頭を下げる者になってはならない。頭を下げたら自分にとって損か得か、そんな次元で判断してもならない。神の子としてのプライドをもとう。偶像崇拝は悪魔に額づくことを意味する。それがどんなに愚かしいことなのかを知らなければならない。

最後に、この誘惑も、前回同様、十字架の道を避けさせる誘惑と関係があるということについてお話して終わりたい。先ほどペテロがイエスさまをいさめた箇所を開いたが、イエスさまは「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」(マタイ16:23)と戒められた後、弟子たちにこう言われた。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。・・・人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(16:24~26)。私たちは、自分の利益や保身で頭がいっぱいになり、めんどうくさいことは避けて、楽して得しようという誘惑にかられる。悪魔はイエスさまに対してそうであったように、私たちに対して自分の十字架を避けさせようとする。苦しむことのないインスタントな道を選ばせる。そのインスタントな道とは必ずしも、ちょこっと拝んでしまえばいいという偶像崇拝とは限らないかもしれない。いずれ安易な手段に走ること。目の前にそうした誘惑がちらつき、やってしまえばいいと、欲しいものをひったくりたくなる。だがそうすることで、一杯の食物と引き替えに、神の子の権利を失ったエサウのようになってしまう。偶像崇拝という敗北が続けば、永遠のいのちを失ってしまうかもしれない。それは永遠の損失である。私たちは、神のみこころはどこにあるのか、どうすることが求められているのかと吟味し、避けるべきことは避け、みこころであることには困難があっても従うという姿勢で、自分の十字架を負って従う姿勢で歩んでいきたい。