イエスさまはユダヤの荒野で悪魔から誘惑を受けられた。前回は第一の誘惑について1~4節を観た。第一の誘惑においては、「不従順」が誘惑のポイントであった。今日は第二の誘惑について観ていこう。今日の箇所は「不信頼」が誘惑のポイントとなる。皆さんは、神さまに対する信頼を失うとまではいかなくとも、信頼が欠けそうになったことはないだろうか。

5節を見ると、悪魔はイエスさまを「聖なる都」すなわちエルサレムに連れて行き、「神殿の頂」に立たせたことがわかる。これはおそらく2章に出てきたヘロデ大王によって再建された神殿についての言及であると思われる。歴史家ヨセフスがこの神殿についてこう述べている。「境内の西側の部分には門が四つある。そのうちの南に面した回廊に一つの門があって、その門の下にはケデロンの谷という谷底がある」「そこの場所の下の谷は深くて、上から下を見下ろすことはできない。それから、その上に建っている回廊は、きわめて高い。だから、その屋根の上から下を見下ろすと、回廊の高さと渓谷の高さが二重になるため、めまいがして、だれも底まで見下ろせる人はいない」。この神殿の頂から谷底までの距離は、約140メートルだろうか。おそろしく高い。イスラエルには高さ140メートルのシャーロームタワーというビルがあるが、1600年代にこのビルが建てられた時、中東で一番高いビルであったらしいが、その高さに匹敵する。

悪魔はここに立たせ、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」(6節前半)と誘惑した。私は、なぜ神殿の頂に立たせたのかと疑問に思った。調べてみると、次のようなことがわかった。当時のユダヤ教の文書で、「王なるメシヤが出現する時、彼は来て、聖なる場所の屋根の上に立つ」と書かれていたらしい。神殿の頂というのは、メシヤが立つ地点として考えられていた。悪魔はここに立たせ、誘惑を試みる。

ここでの「あなたが神の子なら」という呼びかけは第一の誘惑と同じである。「あなたは普通の人ではない。神の子である。ならば下に身を投げて大丈夫なことを証明してみなさい。そうするならば世間も、あなたが神の子あることを、すなわちメシヤであることを認めるはずだ」。もし、このような高所から飛び降りてかすり傷一つ負わなかったならば、ユダヤ人はイエスさまこそがメシヤであると大騒ぎになるだろう。ご存知のように、ユダヤ人はしるしを求める民族である。目に見える奇跡的証拠を見たがる人たちである。伝説では、使徒の働き8章9節に登場する魔術師シモンは、イエスさまが受けた誘惑に倣い、神殿の頂から飛び降りて命を失ったとのことである。悪魔のイエスさまに対する試みは、神殿から身を投げさせて殺すことが目的であっただろう。もし身を投げたら、歓声を浴び、民衆の評判を勝ち取るどころか、見るも無残な死である。これが誘惑の狙いである。悪魔は偽りの父と呼ばれる存在だから、うそつきである。そんなひどいことになる事はおくびにも出さない。真の目的は隠して、死なないかのように誘いをかける。エバに対しても同じようであった。エバは禁断の実を食べてしまうと死ぬことになるという神の戒めを話した時、悪魔は、「あなたがたは決して死にません」(創世記3:4)と約束した。それどころか、「神のようになれる」と誘った(同3:5)。悪魔は偽りの良いイメージを抱かせ、誘う。だが現実はそうとはならない。人間の味方のように見えて、決してそうではない。悪魔は人殺しである。「悪魔は初めから人殺しであり、真理には立っていません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)。けれども人間はその誘惑の意図を見抜けず、自分の欲に引かれ、騙されてしまう。

「神が守ってくれるだろうから、世間をあっと言わせてみよ」というのは一つの扇状主義で魅力的にさえ感じる。世間を驚かすことによって人気を勝ち取ろうと人はする。反キリストはまさしくこの手段を用いる。イエスさまは警告された。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」(マタイ24:24)。人はしるし、不思議に弱い。またイエスさまはこう言われた。「悪い姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12:39)。

イエスさまは神殿から飛び降りることを一つのしるしになるとは考えておられない。イエスさまは神殿から飛び降りて、それが成功し、世間をあっと驚かせたとしても、それがメシヤの証拠として不可欠であり、効果的であるとは全く考えてはおられない。収穫逓減の法則というものがある。それは、元になるものを倍にすれば成果も倍になるかと思いきや、実際はそうとはならないという法則。イエスさまが何か世間をあっと言わせることをすれば、人々は一時驚いても、それで飽き足らなくなり、別の刺激の強い何かを求める。人々はいつも満足しない。もっと別のしるしを、もっと奇跡を、もっと見せて欲しい、となる。自分の影響力を保持するためには、際限なく似たようなことを繰り返さなければならなくなる。先のことよりももっと驚かせる何かをしなければならなくなる。そうして失敗に終わる。イエスさまはこうしたことには関心はない。イエスさまは人気の道ではなく、十字架の道を選ぶ。十字架の道の先にメシヤとしての王座が用意されているのである。十字架を避けて通ることは絶対にできない。悪魔の誘惑は魅力的である。十字架の苦しみを避けて、世間の人気を勝ち取って王座に座れるというものであるわけだから。それはインスタントで楽な道。この誘いにイエスさまは乗らない。十字架という苦しみを通して人々の救いを達成し、神の国の王となるというのが永遠の昔からの神の定めである。

悪魔は自分の誘惑を補強するために、聖書のみことばを用いている(6節後半)。これも巧妙である。イエスさまは第一の誘惑の時に、みことばをもって誘惑を退けられた(4節)。悪魔は、では今度はみことばを使って騙そうということである。みことばを使えば納得するだろうと。これは、今も悪魔が用いる常套手段である。教典は聖書であるかのような宗教がいくつかある。しかし、真理は歪曲されている。異端と言われるキリスト教に近いグループがいくつかある。彼らは聖書を土台にと言っているが、教えを歪曲している。また純粋にキリスト教を名乗る人たちがいる。けれども、聖書を部分的にしか信じない人たちがいる。自由主義の人たちなどがそうである。処女降誕や復活も信じないので、こうした人たちの見分けはそう難しくない。問題は、20世紀初頭に起こり、今も広い影響力をもつ新正統主義。彼らは、聖書は真理であると口にしつつも、神の真理は聖書そのものよりも、聖書が彼らの心に引き起こす思想、印象、判断、理論の中に見出されるとする。聖書は客観的に誤りのない神のことばである必要がない。聖書を読んで教えられた主観的受けとめが真理とされる。そういう意味では自由主義の人たちと同じである。新正統主義の人たちは、聖書に相対する時、聖書の出来事を通して、出会いを通して神の啓示があるとする。聖書に書かれている出来事そのものは客観的真理である必要はない。その出来事を通して教えようとすることが真理であるという主張。また、聖書を読んでいる時、聖霊の働きで神との出会いが起こり、その読んでいることばが神のことばになると主張。聖書はもともと一言一句神のことばであるとは認めない。極端なことを言ってしまえば、「フィクションは作り話であるけれども、それを作り話だと非難する人はいないでしょう。大事なことはそのフィクションが教えようとしている真理なんです。フィクションは真理を教える教師なんです。聖書もそれと同じです」というような主張である。カトリックも聖書信仰があいまいになっており、彼らは聖書は真理であると考えているが、自分たちの教会の伝統及び合意の集大成である聖書の解釈の中に真理はあるとする。つまり、神のことばである聖書の上に教会の伝統や教会の解釈を権威あるものとして置いてしまっている。このような立場から、ご存知のように、聖書よりも教会の権威をちらつかせ、さらには教会が認めてきたという人間の伝承を聖書と同等のものとしてしまっている。そうして神のことばに混ぜ物をしている。次回、少し触れるが、カトリック、プロテスタント問わず、聖書信仰に立たない人たち、そしてキリストの処女降誕、キリストの復活は信じると言う人たちでさえも、罪から救われるために救い主キリストを信ぜずとも、他の神々を信じ拝んでいても救われるという教えを容認していたりする。そして今、福音派と言われる教会の中でも怪しい教えが見え隠れする。この世の教えが聖書のことばに混じり込んでくる。しかし、こうしたことは初代教会が誕生して間もない1世紀にすでに問題になっていた。使徒たちが説いた教えに、ユダヤ教の律法主義やギリシャ哲学、神秘主義が入り込んできた。パウロやヨハネは、書簡において、これらの教えが聖書の教えと混ざってきているので注意を払うように繰り返し警告を与えている。私たちは聖書66巻を誤りなき神のことばとして、この神のことばに、恐れをもって真摯に向き合わなければならないことであるし、神のことばがご都合主義で引用されたり、削られたり、付けたしされてしまう場合、それを見抜いていかなければならない。

悪魔が引用した聖書箇所は詩編91編11,12節である。この引用のみことば自体は問題がないように見える。みことばそのものに見える。だが問題が見える。まず、前後の文脈を無視しての、ご都合主義の引用である。こうしたコンテキストから外れてしまった引用はよくある。悪魔のこうした引用は、ある人曰く、今も毎週日曜日の説教でもされていると言う(もし、わたしがそうした引用をしたならば、ご指摘願いたい)。詩編91編11,12節を開こう。この91編は神信頼の詩編である。「神信頼」である。始まりの1~2節を見てもわかる。この詩編は神に信頼する者は守られると教えている。しかも「すべての道」で(11節)。「すべての道」とは、どんな生活の場でも、どんな人生の場面でも、ということで、神に信頼する者は守られる。そのように約束されている。ならば、神は守ってくれるかかどうかと神を試す必要などない。それは神信頼どころか、不信頼である。悪魔はこの信頼の詩編を、無謀な冒険へチャレンジさせるための誘惑のことばに変えてしまっている。悪魔はイエスさまに対して、「あなたが御父の保護に信頼を置いているということを、飛び降りて証明してみなさい」と提案してきた。もう一つ問題と言えるところは、みことばの一部を省略しているということである。悪魔の引用には「すべての道で」という句が省略されている。あらゆる生活の場面、あらゆる人生の場面、行く所どこにおいても、であって、それに例外はない。いつでもどこでも守っていただけると言われているわけだから、「今、守っていただけるか試してみよう」と神を試す必要はない。神さまは、この詩編全体を通して、「数々の人生の試練や苦しみや悩みの時でも、ともにいて助けて守る」と約束してくださっている。

本当に神を信頼している人は、聖書のみことば、約束だけで十分なのであって、愚かな行動に出ない。危険を犯して奇跡的保障を求めるなどはもっての他である。イエスさまが第二の誘惑において、悪魔の誘惑を払いのけたことばは、第一の誘惑同様、聖書のみことばであった。「あなたの神である主を試みてはならない」(7節)。これは申命記6章16節のみことばである。そこでは「あなたがマサで試みたように」となっている。マサでの試みは出エジプト記17章1~7節にある。開いてみよう。ここでは荒野で水不足に悩んだイスラエルの民たちが、神の代理人であるモーセに対して、「ここで俺たちを死なせる気か」とつぶやいた。モーセは神の代理人であったので、そのつぶやきと不信とは神に向けられたものであった。神を試みるとは、神を疑うことである。それは神信頼とは反対の姿勢である。「主は私たちの中におられるのか、おられないのかと言って、主を試みたからである」(7節)。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」「主はわたしとともにいてくださるのか、そうでないのか」「主はわたしを愛しておられるのか、そうでないのか」「主は私を心配してくださっているのか、そうでないのか」、そうした疑いが根本の問題である。神に信頼する者は厳しい局面に立たせられても、死の陰の谷にあっても、信頼を失わない(事例、体験)。

そして、主を試みるというのは、疑い・不信頼ということが根本にあるとともに、神に対する高慢な態度が形を変えたものであることがわかる。これは前回、第一の誘惑で観た不従順とも関係がある。参考として、詩編78編17~23節を開いてください。この詩編はイスラエルの民が神を試みた内容が中心である。この詩編では「神を試み」と3回言及されている(18,41,56節)。実際の試みの内容は19~20節で言われている。彼らは、荒野で神さまが自分たちを養ってくださることを信頼できなかった。23節では、はっきりと、「これは、彼らが神を信ぜず、御救いに信頼しなかったからである」と、神を試みてしまう根本原因について言及している。不信頼である。またこの詩編では、「逆らう」ということばが3回使われている(18,19,56節)。これは不従順な姿勢、すなわち高慢な態度である。高慢な彼らは、「神さまは俺たちのためにやれないのか?」「やれよ」と奇跡を要求した。結果的に彼らは災いに会う(30,31節)。

信仰の旅路において必要なことは、従順と信頼という姿勢であることは明らかである。それを失いかけた時は、冷静になり、「あなたに従います。自分勝手な行動に出ませんように」「あなたを信頼します。今は苦しくとも」と、主を試みることにストップをかけるのである。

また、みことばに拠り頼んで歩もう。今日の誘惑では、誘惑の手口が巧妙となり、聖書のことばを用いてきている。だから、聖書に対する姿勢がいいかげんであると騙されてしまう。私たちは聖書は誤りのない神のことばと信じているし、みことばが信仰生活の基であると信じている。毎日、聖書のことばは目に入っているかもしれない。けれども、生活の現場では、偽りの教えを見抜くことができなかったり、ご利益的にみことばを自分に都合の良いように適用したり、みことばとは関係ない内なる声に動かされて行動する傾向にある。その内なる声とは自分の欲求である。ヤコブは、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです」(ヤコブ1:14)と語っている。イスラエルの民も自分たちの欲望に負けた。私たちは本当の意味でみことばにとどまる姿勢を保ちたい。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(4節)を文字通りに生きて行きたい。今日のところでもキリストは、「あなたの神である主を試みてはならない」とみことばを正しく適用し悪魔の誘惑を退けた。悪魔の誘惑はクリスチャン生活に現実にある。それは死ぬまである。だから目を覚ましていなければならない。悪魔は誘惑の手段として聖書をも用い、真理の大海に一滴の毒をもたらす戦術も使う。だから私たちは真理のみことばのうちにしっかりとどまる意志を持ち続けたい。何はなくてもみことばを生きる糧として歩んでいきたい。