キリストの荒野誘惑を三回に分けて学んでいこうと思う。私たちはキリストが受けた誘惑を、自分に結びつけて考えたいと思う。キリストが受けた誘惑の性質を考えるとともに、その誘惑を自分に結びつけて考える、そこがポイントである。

キリストはユダヤの荒野で、3章16~17節で学んだように、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、旧約のメシヤ預言に記されている王なるメシヤであることのしるしである聖霊を受けられ、メシヤとしての準備が整った。しかし、すぐに公けの舞台には出られず、荒野で四十日四十夜断食をされ、悪魔からの誘惑を受けることとなった(1~2節)。

まず「悪魔」という存在だが、<ディアボロス>は「敵対者」「反抗者」を意味することばである。その他の名として「この世を支配する者」(ヨハネ12:31;14:30;16:11)、「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)、「この世の神」(Ⅱコリント4:4)、「サタン」(意味は悪魔と同じ)、「古い蛇」(黙示録12:9)、そしてマタイ4章3節では「試みる者」(誘惑する者)と言われている。1節では「悪魔の試みを受ける」とある。「試みを受ける」<ペイラゾー>は「テストすること」を意味する。そしてそれは聖書で良い意味にも悪い意味にも用いられる。試みる主体が神さまの場合は「試練」と訳され、試みる主体が悪魔の場合は「誘惑」と訳される。「私の兄弟たち、さまざまな試練<ペイラスモス>に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」(ヤコブ1:2~3)。神は信者の信仰の成長のために試練を与える。しかし誘惑はしない。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された<ペイラゾー>、と言ってはいけません。・・・ご自分でだれも誘惑なさることもありません」(1:13)。神が試練を与える時、それが誘惑の機会となるというのは事実である。悪魔の誘惑の目的は信者に罪を犯させ、堕落させること。だが神は信者を誘惑されない。誘惑する者はあくまで悪魔である。また今日の箇所から言えることは、神は主権者であるので、その主権のもとで悪魔の誘惑を許されることがあるということ。旧約聖書ではヨブ記が良い例である。新約では、この荒野の誘惑が良い例である。この試練と誘惑の問題で抑えておきたいポイントは、試練と誘惑は表裏一体の関係にあるということである。試練の時は誘惑の機会ともなるので心しなければならない。

誘惑の場所は「荒野」である。ユダヤの荒野は長さおよそ56キロ、幅およそ24キロで、死海からエルサレムにまで及んでいる。熱い、不毛の地である。バプテスマのヨハネの時に学んだように、荒野は世俗の雑音から離れた場所であるゆえに、神の御声を聞くには適した場所かもしれない。だからこそ、イエスさまもこの場所を選んで断食された。しかし当然ながら通常の生活には適さない地であるゆえに、荒野特有の誘惑に負けて滅んでいったイスラエルの民の事例からもわかるように、荒野は危険な環境でもある。

イエスさまはまず荒野において「四十日四十夜」の断食をされた。このような長期間は不可能だと言われる方がいるが、実際成し遂げられた方々がいる。そして期間の長さは別として、この期間は公けの活動に入る前に、大切な備えの期間となったわけである。モーセはエジプトの王の前に立つ前に40年間ミデヤンの荒野で過ごしたし、パウロはアラビヤで三年過ごした(ガラテヤ1:17~18)。

断食の期間の後、「空腹を覚えられた」。空腹が続けば肉体的に弱くなるだけではなく、精神的抵抗力も弱まる。飢えの時、疲れている時、ストレスがたまっている時、病気の時など、安心、満足を与えてくれる何かに対して、抵抗力がなくなる。誘惑を被りやすくなる。悪魔はそのような弱くなっている時、またガードが下がって不意の状態にある時に、猛烈に攻撃してくる。これらの誘惑はほとんどの人が経験するだろう。

「すると、試みる者が近づいて来ていった。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(3節)。悪魔はエデンの園で禁断の実を食べるようにアダムとエバを誘惑した。そしてこの場面でも第二のアダムに対して食べることに関する誘惑である。悪魔は石をパンに変えて飢えを満たすように誘った。荒野にはパンに似た石がころがっていると言う。視覚にまず訴えた。石をパンに変えることは私たちにはできないので、私たちにこんな誘いを受けても誘惑にはならないが、イエスさまはそれがおできになるので誘惑となる。悪魔はイエスさまがすぐにできる安易な手段に訴えたということになる。私たちにも、私たちにできる安易な手段に訴えてくる。そして実は「あなたが神の子なら」という訴えかけを見落としてはならない。これは、「神の子なら奇跡的力を使えるだろう」という単純なことではない。原文を読むと、「あなたが神の子であるなら、これこれを受ける権利はあるだろう」という誘惑として読み取ることができる。「あなたが神の子であるなら、荒野で飢え死にするのがふさわしいのか?違うだろう。御父は、シナイの荒野で不信仰なイスラエルの子どもたちに対してさえ、マナを与えただろう。であれば、あなたはなおさら食べる権利がある。もしあなたがこの荒野で飢え死にしまったらメシヤとしての計画はだめになってしまうだろう。さあ石をパンに変えて、食べて元気になれ」。誘惑の目的は単にイエスさまの空腹を満たすことにあるのではなくて、神の子であるということと飢えは「矛盾している」と突いてくることにある。これはキリストを救い主として受入れ、神の子とされた私たちにも起きる。「私は神の子なのに、なぜこんな境遇が許されるの?私は神を信じているのに、なぜ私にこんなことが起きたの?本当はこうなるべきでしょう?神の子は地上でベストの待遇を受けるに値するのだから」。試練の時などは特に、私たちは不平を言いたくなる。「私はこれこれに値する」と。こうして神の愛を疑い、神の方法にまかせきれず、神に反抗的になり、自分で不用意に動いて欲求を満たそうとし、墓穴を掘ってしまう。つまり、神への不従順である。シナイの荒野で滅びたイスラエルの民がまさしくそうであった。イエスさまはこの時、そのようなイスラエルの民の姿が十分に心にあったはずである。そのことはまた後でみよう。

もし、この時、イエスさまが父なる神の養いの手段にまかせないで、ご自分の神的力を使ってしまったら敗北である。罪を犯したことになり、人類を贖う資格を失ってしまう。空腹という現実はあるも、冷静にならなければならない。神の子だからこそ、御父に従うことを選び取らなければならない。イエスさまは人として家畜小屋でお生まれになった。その後、命を狙われてエジプトで逃亡生活も送り、その後、田舎のガリラヤ地方のナザレという寒村で生活をされ、今、荒野でみじめな状態にある。これでほんとうに神の子なのか?まるで、ただの下層民。イエスさまは十字架につけられた時はこう人々に言われた。「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてみろ」(マタイ27:40)。これは、「神の子なら、そんなにみじめでいいのか」というあざけりも含まれている。だがイエスさまは、神の子であるからこそ、真のプライドをもって御父に完全に服従しようとされた。

イエスさまの御父に従う決意は、福音書の所々で記されている。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの<食物>です」(ヨハネ4:34)。「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです」(ヨハネ6:38)。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39)。

イエスさまは悪魔の誘惑に対して、みことばで立ち向かわれた。「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(4節)。私たちは罪を起こさないために行動の原則をみことばに置かなければならないわけだが、そのためには、みことばを知らなければならない。詩編の作者はこう言っている。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩編119:11)。イエスさまは当然のことながら、みことばを心にたくわえておられただろう。私たちは毎日、みことばに慣れ親しむことが大切である。それは悪魔にだまされないために、そそのかされないために。イエスさまが引用したみことばは、申命記8章3節のみことばであるが、その前後も併せて読んでみよう。そうすれば、意味がより明瞭にわかる(申命記8章1~6節)。この箇所は、モーセが荒野での40年間の試練の意味とそこから受け取るべき教訓をイスラエルの民たちに語った箇所である。イエスさまがこの箇所を引用したということは、明らかにイスラエルの民が荒野で経験したことを意識しておられる。イエスさまも今、荒野におられ、モーセの教訓はそのままご自分に当てはまることを知っておられた。イスラエルの民は荒野で食べ物、飲み物のことで飢え渇いた時、誘惑に負け、不従順となって惨敗を喫したが、イエスさまは誘惑に打ち勝って勝利される。

私たちは弱くなり忍耐がなくなると、耐えかねて、自分の欲求、自分の必要を満たすために、自分でそれをなんとかしようとして自己中心的になり、妥協的な手段に出たり、安易な方法に拠り頼んでしまう。神の手段、神の方法を待てない。それは不従順である。どうすることが最善なのかと熟考し神に従うことができなくて、要求するものをひったくるようにして自分のものとし、満足を得ようとする。目の前のものに安易にしがみついてしまう。そうして、みこころを損なう。ヤコブは警告している。「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、また、あのことをしよう」(ヤコブ4:15)。これはイエスさまの生涯にも完璧に見られた。イエスさまは福音書を見れば、数々の奇跡を行ったことが書いてある。しかし、それらはみこころにかなうもので、神の栄光を現すものだった。自己満足のために、自分の欲求を満たすために、父なる神がどう思われるかは無関係に奇跡を行って楽になろうとすることは一度もなかった。しかし、そうさせようとする誘惑がここにあったわけである。ある人たちは、自分たちは奇跡を行う力などないわけだから、この誘惑の記事は自分とは関係ないとしてしまうかもしれないが、そうではない。もちろん、石をパンに変えなさいという誘惑は冒頭で言ったように私たちにはないだろう。しかし、神さまの養いということに心が向かず、自分中心に何でもしてしまおうとする誘惑は常にある。そして目当てがパン、金になっていく。こんなことばもよく聞く。「人生、結局、パンだろ、金だろ。きれいごと言わないでくれよ」。昨年もある方からこのことばを受けた。けれども、神に従う人生ということを第一に選び取らなければならない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ5:33)のみことばを信じ、また「わたしは決してあなたを捨てず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:3)の約束を信じて、神に従い、今あるもので満足して生きていくのである。

ある人たちは、キリストは神なのだから、罪を犯す可能性がないわけだから、私たちとは違って誘惑ということばは当てはまらないと言うかもしれない。しかし誘惑を感じなかったら、誘惑ということばは言葉遊びとなってしまう。誘惑する側も完全に無駄だと分かっていたら誘惑などしない。キリストは全き神であるけれども、人間性を完全にまとわれたお方として、「弱さ」という要素をお持ちだった。お腹がすく、喉が渇くといった肉体的欲求が起こる。ストレス、疲れも経験する。痛みも味わう。栄養も睡眠も必要である。何もしないでほおっておけば死ぬという肉体である。一定の空間と時間の枠で生きなければならない不自由さがある。神の独り子といっても、自分に関しては、普通の人間と同じく、父なる神に拠り頼んで生きるという生き方を実践しなければならない。キリストは人間性という限界をお持ちであられた。弱さを身にまとっておられたと言ってよい。だから、誘惑は現実のものであられた。

この第一の誘惑は、食物、肉体の欲求、生活の必要、将来の生活設計といったレベルの誘惑と言ってよいだろう。肉体の欲求が強くなっている時、生活のことで不安に感じる時、心身ともに疲れ切って先のことが冷静に考えられないような時、危ない。悪魔は私たちを神に対して不従順にならせようとする。「神はほんとうにあとでちゃんと備えてくれると思うのか?今そうすることは自分勝手なことではない、常識的なことだ。それはあなたに開かれている。やってしまいなさい。」悪魔は、イスラエルの民がそうであったように、神にぶつぶつ文句を言うように誘うかもしれない。イエスさまはそれをされない。誘惑に打ち勝たれた腹ペコのイエスさまはその後、どうなったのか?イエスさまは石をパンに変えずとも、どうやら養われて生きていかれたようである。神は真実なお方である。肉体の欲求を刺激し、生活の不安を煽る誘惑に乗ってはいけない。

イエスさまは誘惑に対して、今日の箇所に見るように、みことばを用い、またゲッセマネの園の箇所からわかるように、祈りを用いられた。私たちもそうしなければならないわけだけれども、私は、その誘惑が外からの働きかけであるか、心に響いてくる声かは別として、それが悪魔の誘惑であるという認識を強くもつことが必要でないかと思っている。この世界は神と悪魔の戦いの場である。私たちがその戦いを担っている。自分の欲望やつかの間の幸せのために、悪魔を喜ばせることは空しい。悪魔は現実に存在し、誘惑してくる。誘惑に負けることの代償の大きさも冷静に考えてみなければならない。それは計り知れないほど大きい。自分にとって損失となるばかりか、周囲にとっても損失となる。私たちは荒野の誘惑の場面を心に焼き付けて、現実の生活で打ち勝っていきたい。今日の箇所では、全く神に信頼し、神への従順を選び取るということである。悪魔の声ではなく、神のことばに聞くということである。自分の欲求ではなく、神のみこころを選ぶということである。