詩編は人間の心の苦悩とともに、苦悩の中における希望を綴っている。39編の1~3節は、苦悩の描写である。「私の痛みは激しくなった」(2節後半)、「私がうめく間に」(3節前半)といった描写からそれは明らかである。世の中、理不尽に思えることが多いわけである。悪人と思える人が繁栄し、栄華を極め、長生きしたりする。それに対し、正しく生きようとしている人たちが損害を被り、短命で終わったりする。世の中、うまく回っていないような気がする。不公平に感じる。自分もそれなりに善い事に努めて、一生懸命生きてきたつもりなのに、それが報われていないように思える。不公平な扱いを受けている。だから、つぶやきたくなる。誰かを非難したくなる。自己弁護もしたくなる。けれども、この詩編の作者は「沈黙」を守る(2節)。実際、彼が何を悩み、何を言いたかったのかはわからない。ただ、人生の無情と言おうか、そうしたことに関してであることは事実である。この詩編全体から見てわかることは、彼自身がつらい目に会っていたということである。

彼は、この世のはかない人生には真の希望を見い出せないと知っており、その心は神に向かう。それが4節からのことばである。

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(4節)。人の齢は短いものである。縄文時代から江戸時代までの平均寿命は何歳だったかご存知だろうか。一貫して30歳以下であった。江戸時代でも半減率は5歳と言われた。これは、生まれてきた子どもの半分は5歳になるまで死んだということである。武将の寿命を見てみると、織田信長は47歳、武田信玄は53歳、上杉謙信は49歳で死んでいる。それに対して、豊臣秀吉は62歳、徳川家康は75歳まで生きた。天下をとる条件として長生きということが入るように思う。

この詩編はイスラエルの初代王ダビデの作品で今から3000年ほど昔の人物だが、ダビデ家14代の王たちの平均寿命は43.6歳。王たちは一般庶民より栄養が良かっただろうから、当時の一般人の平均寿命は30歳と考えてよい。現代では65歳以上が高齢期と言われるが、昔は、外国でも日本でも、老いは誰にでもやってくるという感覚はなかった。平均寿命が中年期以前だった。確か、中世のヨーロッパ人の平均寿命も30歳であったと思う。しかし、昔も長生きの人はいた。80年、100年生きる人はいた。聖書は、長寿は神の祝福であると告げている。「しらがは光栄の冠」(箴言16:13)。旧約聖書の原語のヘブル語で「老い」<ザーケン>は「ヒゲ」を意味する。白髪のことが意味されているのだろう。白髪になるまで寿命が与えられたことは神の祝福だというわけである。しかし聖書は老いに対するマイナスイメージも告げている。知的能力の低下、身体能力の低下の描写があちらこちらにある。そして死に近づく一歩として描いている。詩編39編も人の死が意識されている。

現代は健康ブームで、コマーシャルといえば健康食品に関するものが爆発的に増え、テレビ番組もアンチエイジングといった健康管理に関するものが多くなった。人々の関心がどこにあるかを物語っている。栄養管理、健康管理に心を配り、老化のスピードを緩やかにするということである。今、日本人の平均寿命は80歳代を迎えた。このように寿命が延びてきたことに伴い、人生は3分の2が過ぎてから本番、余生などというマイナスなことは言ってはだめと言われるようにもなってきた。ところが延命にも限界はある。5節をご覧ください。「ご覧ください。あなたは、私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前ではないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです」(5節)。その人が若さを保ち、その人の一生が他の人と比較してどれほど長いものであっても、神の前ではないに等しいと言われている。神は永遠から永遠まで生きておられるお方なので、その永遠と比較すれば、たとえ100歳でも短命にすぎない。一瞬のことで、ないに等しいとなる。そのような人の生涯はたとえるとどうなるだろうか。「全くむなしいものです」の「むなしいもの」と訳されていることばは、「息、風、空気、水蒸気、霧、煙、泡」、そういった意味のことばが使用されている。人生とはいかにはかないものなのか、詩編の作者はその事に心を向けている。「まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます」(6節前半)。これも前節の言い換えで、ここでは「息」に変えて「幻」という表現があるが、幻もすぐに消えてしまうむなしいものの描写である。「人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません」(6節後半)。ここでは、財を築いても、それが誰のものになるのかわからないまま世を去ってしまうということが言われているようである。

詩編の作者は、むなしい地上での人生がすべてであるかのように、そこに望みをかけ、人をねたんだり、がっかりしたり、一喜一憂しながら過ごすだけの人生に疑問を感じている。財を築くためにただあくせく働いて、あとは消えてしまう人生に疑問を感じている。だから、神さまご自身に望みをかけようという思いになっている。「主よ。今、私は何を望みましょう。私の望み、それはあなたです」(7節)。神さまは死から救ってくださる方である。死の原因である罪から救ってくださる方である。

昔も今も変わらないのは、老いを体験してもしなくても、医者のお世話になってもならくても、人は必ず死ぬということである。ある大学で、新入生に「死」に関するアンケートを取った。Q「あなたは死ということばから、どんな感じを持ちますか」。ベストスリーは、「悲しい」「さびしい」「こわい」である。死に対するイメージは昔も今も変わらないと思う。Q「あなたにとって、死とは何を意味しますか」。第一位の答えは「人生の終着点」。つまり、「人生は、悲しく、さびしく。こわい死で終わる。その先はない」ということである。「神のもとへ行く」という希望を感じさせる答えは第八位で多くはなかった。

この詩編の著者の死生観は、神の心にかなう者は神のみもとに行ける、である。12節に、私は「旅人」「寄留の者」という告白がある。彼は人生を旅にたとえているが、その目指すところはどこであろうか。もし人生の旅路の終着点が死であるならば、その旅はむなしすぎる。しかし彼は終着点をそこにおいてはいない。ヘブル11章8~16節をお開きください(P438)。ここにも「旅人」「寄留者」ということばがある(13節)。目指す場所は「天の故郷」と言われている。天の故郷が終着点ならば、人生は希望の旅路となる。天の故郷は10節を見ると、「堅い基礎の上に建てられた都」と言われているが、地震が多い地上との比較の中で言われているようである。すなわち、やがて到着する神の都は永遠にゆるがないということを言いたい。私たちも、ここを目指さないだろうか(次男の名前の「真都」は、この都を意味させている)。

では、詩編39編に戻ろう。13節をご覧ください。ここで作者は、世を去る前に「私がほがらかになれるように」と言っている。「ほがらかになれるように」とは、罪の赦しの確信をもって、笑顔と明るさで世を去れるように、ということである。罪赦されて、安らかに世を去れるように、ということである。彼の罪の自覚は8~11節の文章に見られる。読んでみよう。「私のすべてのそむきの罪から私を助けだしてください」(8節)。彼はここで罪の刑罰からの救い、罪の赦しを求めている。聖書は罪の結果は死であるということを教えているが、その死とはたましいの滅びも含まれていると告げている。作者は、罪赦されなければ、神に祝福され世界に入れないと知っていた。だから、罪の赦しを請い願っている。

前回、お話したように、天国に入るには「罪を赦される道」を通るということである。まことの人となられたまことの神イエス・キリストは、十字架の上で私たちに代わって罪の刑罰を受けてくださった。そして死よりよみがえり、私たちの先がけとして天に昇られた。キリストの十字架は私の罪のためと信じる者は、すべての罪が赦される。その人は地上での旅路が終わると同時に、天国に救い入れられる。

実は日本人にも、罪の問題が解決しないと死んでからの祝福はないという思想がある。聖書の教えとの違いは次のようである。人は死んでも罪の問題はまだ解決していないので、天国には入れない。それで追善供養という儀式が行われる。人は死ぬと、死者の霊は裁判にかけられる旅に出る。死んでからも旅は続く。そのため、死者には旅支度をさせて納棺するということが昔、良くされた(今もこの風習はある)。死ぬと七日ごとに死者の罪状に基づいて裁きがある。計七回の裁判である。初七日に、初の書類検査がある。その書類はエンマ帳と呼ばれる。三途の川を渡るのは二七日である。三七日には姦淫の罪を調べ上げられ、猫にかみつかれ、蛇に締め上げられると言う。四七日になると、秤があって、生前の罪の重さが量られると言う。五七日には死者を司る地獄の主神、閻魔大王(ヒンズー教の神)自らが裁く。六七日には、四七日に使われた秤と閻魔大王の鏡を使って、再検査がされる。そして七七日、すなわち四十九日に最終判決が下される。判決の結果によっては地獄行きになる。追善供養とは、この死者の裁きを軽くするための儀式である。七日ごとに行われる死者の裁判の時に、生きている者が読経すると、それが良い行いとなり死者に振り向けられる。これを「回向」(えこう)と言う。つまり、生きている者の読経が善行となって死者に加点されるというポイント制である。だから読経してもらったほうが助かる。ポイントがたまるから。この読経によって死者の罪が軽くされたり、エンマ帳に記されている罪業が消滅したりすると言われる。

死の旅路を助けるために線香もたく。線香は「香食」(こうじき)と呼ばれる。なぜ、香りを食べると書くのかというのならば、線香の香りを食べながら、山道から始まり、三途の川を渡る死者の旅路をたどるのだということである。線香は死者の食べ物というわけである。これは、葬儀の際に和尚さんからも聞いたことがある。

もし四十九日の追善供養むなしく、死者が地獄に落ちてしまったらどうするのか。保釈の可能性は残されているとする。百か日、一周忌、三回忌が再検査の日であり、この再検査の日に追善供養すれば保釈の可能性があるとされる。正統な再検査の日は三回忌までと言われ、なぜか仏教国の中で日本だけ、七回忌~五十回忌、百回忌まで行う。お盆も保釈の日の一つとされる。

以上のようなことは、宗派によって細部の考え方は違うが、追善供養の意味はだいたいお分かりいただけたかと思う。死者の罪を軽くしたり、罪の記録を消し去るためにする。六道輪廻の地獄界に死者が落ちないようにと。

聖書は、罪滅ぼしのための良い行いは決して人を救えないと明言する。たとい良い行いをしても引き算をしたら罪は残る。それが帳消しになるには神の救いのみわざに寄りすがるほかはない。聖書は、私たちの罪に対する裁きは、あの十字架の上でキリストがすべて受けてくださったとする。私たちの罪のための身代わりの裁きである。このキリストを救い主として信じる時に、罪状書きに記されている罪状、罪業はすべて消滅し、罪は精算され、一度も罪を犯さなかった者とみなされ、死と同時に天国に救い入れられる。死んでから、七日ごとに裁判にかけられる四十九日の旅で、ようやく行先が決まるとは教えていない。死後ではなく死ぬ前に、行先が保証される。その行き先も六道輪廻のどこかではなく、「天国」である。ただ、キリストの十字架を「ありがとうございます」と受け入れる信仰によって、罪赦され、天国が約束される。

さて、今日は、キリスト教の暦では「イースター」と言って、キリストの復活を記念する日である。キリストは十字架の上で死の裁きを受けた。もし、キリストが死人のままであったならどうだろうか。私たちの希望は死人にあるのだろうか。私たちの人生の終着点も死なのだろうか。そうではない。キリストは死から三日目によみがえることによって、私たちに永遠のいのちの希望を与え、確かに、天国に救い入れられることを約束くださったのである。キリストは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。キリストは架空の存在ではない。神話の神ではない。歴史の中にまことの人として来られ、私たち人類を罪から救うために十字架についてくださった唯一のお方、生ける神である。私たちの罪のために身代わりに刑罰を受けてくださった方はこのお方以外にいない。そしてご自身が神であることを証明するため、私たちに永遠のいのちと天国を保証するために死からよみがえってくださったお方である。キリストは死に打ち負かされたダメ神ではない。死人を神として拝んでも何の希望もない。キリストは死からよみがえられた。キリストは今も私たち一人一人に、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と呼びかけてくださっている。このお方を信じ受け入れて、天国を目指し、希望の旅路を歩んでいただきたいと思う。