春と言えば、希望の季節と言われる。本日と来週、「希望」をキーワードにお話させていただきたいと願っている。本当の希望とは何だろうか?病気になったら、年老いたら、死んだら消えてしまうような希望は本当の希望ではない。本当の希望は、決して奪えないもの、死んでも消えないものである。

あるクリスチャンの婦人が乳がんになった。二児の母である。私が以前仕えていた教会にも来られていた方である。印象として、落ち着いておられて、かつ喜びに満ちたお方だった。彼女はがんの宣告を受けても、死の宣告を受けても、喜びに輝いていた。最後に入院した病院での逸話だと思うが、医師も看護師たちも、死の宣告を受けながらも失われない、彼女の顔の輝きに驚いていた。ある日、一人の医師が看護師たちを引き連れて、彼女のベッドの傍らに来た。目的は、どうしてそのように喜びに輝いていられるのかと、彼女にキリスト教の死生観を聞きに来たのである。幾つかの質問の後、このような質問があった。「あなたにとって死とは何ですか?」彼女はこう答えた。「ハレルヤです」。私は彼女が亡くなってから、葬儀にも参列してきた。彼女には、自分の地上生涯がいつ終わるかは神さまが決めているのだからジタバタせず、神さまにまかせていればいいという信頼と、自分はいつ死んでも天国に行く、神のみもとに上るという確信があった。彼女は周囲の多くの人の励ましとなり天に召されていった。

私たちは、見える世界しか信じないというのではなく、見えない世界が本当にあると確信し、その上でこの目に見える世界で生きていくことができる。

死生観について、様々あることは事実である。ある方々は見える世界がすべてであるとし、死んだら無になると信じている。ところがこの死生観の矛盾は、死んだら無になると信じていながら、人生を無意味に過ごすことを恐れているということ。極端な言い方をすれば、死んだら無になると信じているなら、人生を無目的、無気力、無感動、無意味に生きればいいわけである。どうせやがて、自分という存在そのものが無になってしまうわけだから。言い換えると、死んだら終わりの無に向かって生きる人生に希望などいらない。

ある高校生男子が自殺をはかった。彼の成績はクラスでトップクラス。そしてスポーツ万能。いったい何が彼を死に走らせたのか。彼の日記には次のようなことが書いてあった。「二歳で死のうが、二十歳で死のうが、六十歳で死のうがみな同じだ。死んだら何もなくなってしまうのだから」。死んで終わり、すべてが無になるというのなら、彼のとった行動というのは実に正直。無に向かって一生懸命生きるほうが愚かとさえ言える。もし、死んで無になるなら、人間存在は無価値、人生に目的はない、今生きていても無意味、無に向かう人生に希望なし、となる。

皆さんはこんな経験はないだろうか?お昼前、知人に誘われあるお店に向かう。「あそこの食堂のランチはお薦めだよ」。期待に胸を膨らませて、車に乗ってお店に向かう。お腹はペコペコ。お店に着いて、お店の正面に立ったら、準備中の札が。定休日だったのである。それでもあきらめきれず、戸に手をかけたけれども開かない。はるばる遠くから来た場合など、あ~今までの期待、何だったのかとなる。店がしまっているとわかっていたら、お金を用意して、車に乗って、ガソリン使って、時間を費やしてなどということは最初からしない。食べ物程度のことなら後で笑い話で済まされるかもしれない。しかし、人生となるとそうはいかない。死んだら無だとわかっていたら、期待し、努力し、忍耐して、無に向かって、無を目的に生きるだろうか?死や無を希望にして生きている人など誰もいない。死の先に希望のもてる世界があると無意識のうちにも信じようとしているのではないだろうか?

私は以前、関東にいた頃、二人の方においしいそば屋に連れて行ってもらったことがある。「隣町で一番おいしいそば屋だから、先生、ぜひ行きましょう。本当においしいですよ」と二人の太鼓判付き。楽しみにしていた当日が来た。私は車に乗せられ、二人の方と目指すそば屋に向かった。田園を通り、山道に入った。すると、運転手の方が道に迷っている様子。「あれ、おかしいなぁ~」。話を良く聞いてみると、実は本人、道を知らない。地図ももっていない。山道を、あっちクネクネ、こっちクネクネ。もう一人の方も道を知らないと言う。そこで心配になった私は、「店の名前は」と聞くと、なんと店の名前すら知らない。「なんだっけがな?」と二人で店の名前の一字すら出てこない。もちろん、電話番号も知らない。これでは探しようもない。ただ確信をもって話されたことは、「そこのそばはおいしい。今日はやっているはずだ」。ただそれだけ。「道も店の名前も知らないのに招待なんて先生には申し訳なかった」と山道の弁。しかし、引き返さないで走っていった。そこまで前向きになれた理由は、今日は店は開いているということだけはわかっていたから。そしてまた、そこのそばはおいしい。これがあきらめなかった理由。出発から1時間も経ってしまった頃、山道を下り、ようやく見覚えのある場所に出て、目的のそば屋を探し当て、入って食べた。今でもその店のことを覚えているが、おいしかったというよりも、苦労して探し当てた味ということで覚えている。珍しいしらそばでおいしかったことは事実。お二人の好意も探す苦労は無駄にならなかった。人生も苦労して少々迷い道をしても、確固たる目的に向かって進み、ハッピーで終わることができれば最高なのである。

私は教会に通うようになる前、少年時代の時、死んだらそれで終わりではなくて、人生の終着点は天国の扉が開いていてほしいと願っていた。皆さん、人生の終わりが無であったなら、今生きていることも無である。人々はこんなことをまじめに考えると、恐ろしくなって空しくなってしまうので、勉強に熱中し、仕事に熱中し、趣味に熱中し、忙しさに逃げ込み、夢を、夢をと追いかける。隣り合わせの、そしてやがて必ず訪れる死が、それらをすべて飲み込んでしまうとは考えたくない。

小学6年生になる男の子が、ラジオでこんな質問をした。「ぼくは死んだらどうなりますか。夜寝て、明日の朝、起きているかどうかわからない。もし、死んだら自分がどこにいるかわからないんじゃ、夜こわくて眠ることができません」。そんな電話での質問だった。二人の回答者がいた。一人は、「人間は死んだら消えるんだよ。死んだら科学的には無になるんだよ」と言った。もう一人の人は、「人間は死んだら牛とか馬になって生まれ変わるんだよ」と言った。男の子は納得できず、「死んだらそれっきりとか、その辺の牛とか馬になるなんて信じられない」と言った。結局、二人の回答者は、「小学6年生なら、自分が死ぬなんていうことは考えるな。スポーツとか、勉強とか、遊びよか、そういうことをせいいっぱいやりなさい!」そう言って電話を切った。結局、回答者たちの答えは、「そんなことを考えるな。考えたって仕方がないことを考えるな」である。果たしてほんとうにそうだろうか。人間の心には、「自分はどこから来たのか?自分は何のために生きるのか?死んだらどこへ行くのか?」そういう問いが湧き起こるようにできている。だから小学6年生の男の子は、誰に教えられたわけでもないのに「ぼくは死んだらどうなるの」と考える。「自分はなぜこの世界に存在しているのか?死んだらどうなるのか?」そのような問いは自然な問いであるし、人間にとって重要な問いである。この問いをかき消しながら生きていくのではなく、この問いに真正面から向き合うことが大切なのではないだろうか。人は必ず死ぬわけだから。そして聖書は、この問いに対して、答えを与えようとしている。

伝道者の書は、今から三千年前にイスラエルの初代の王として君臨したソロモンが書いたものである。彼は当時の世界にあって随一の知恵者として名声を博した。世界中から彼の知恵を聞きに人々が集まってきたと言われている。彼は伝道者の書を通して、「人はいくら財を築いても、いくら快楽にふけても、歴史に名を残しても、死んでそれっきりの人生であったなら空しい。この世界を造られた神さまを信じて、永遠の世界につながるような人生を送らなければ空しい」と教えた。伝道者の書3章11節では、神は人の心に永遠という二文字を刻まれたということが書いてある。聖書は、人間は死んだらそれで終わりとか、死んだら無になるとか思わないで、永遠に対する限りないあこがれを大切にして生きるように告げている。神は私たちの心に、永遠への思いを与えられたのである。皆さんの心にもないだろうか?それは、永遠のいのちへのあこがれ、永遠の祝福の国へのあこがれと言ってよいだろう。神さまは実際には無いものを思うようには言われなかった。永遠のいのちは本当にあるので、それを私たちが求めるならば見いだして、手に入れることができる。永遠の祝福の世界は本当にあるので、それを私たちが求めるならば見いだして、入ることが許される。

聖書は、人は死んだら無になるのではなく、死と同時に肉体からたましいが引き抜かれて神のみもとに立つことが言われているが、誰でも彼でもが救われて、永遠の祝福の世界、すなわち天国に入ることができるとは告げていない。聖書には「永遠の滅びの刑罰」という、もう一つの永遠についても語っている。

秋田での出来事であるが、ある病院の診察室で、外科の先生とこんな対話をしたことがある。医師「すべての人間が必ず体験するものがあります。何だかわかりますか?」斎藤「死でしょう」。医師「そう、必ず死は誰にでもやってきます。死から逃げてはいけません」。斎藤「そうですよね。死を避けないで、死と向き合って生きていかなければなりませんよね。良き生を生きるために」。このあたりの会話までは良かったのだが・・医師「天国と地獄、どちらに行きたいですか?」斎藤「天国ですよ」。医師「私は地獄なんです。どうしてだかわかりますか。地獄のほうがお友達がたくさんいるからです」。地獄にお友達が多いからと言って、それでわざわざ地獄を選ぶことはないはず。斎藤「本当のお友達であったなら、こんな苦しいところに来るな~と言っているんじゃないですか」。医師「地獄でお友達とマージャンをしたいんです」。聖書は地獄を「火の池」とも呼んでいる。そこはとても苦しくて、マージャンなどしている余裕などない。もっと死のことを、死んでから後のことをまじめに考えなければならない。という私も、信仰を持つ前は、「地獄だって死ねば都さ」なんてうそぶいていた。そんな私も信仰をもち、クリスチャンとなって1年が過ぎた頃、胃腸を壊して手術したことがあった。手術をした晩、胃腸が苦しくて一晩もだえ苦しんだ。一睡もできないような苦しさだった。その時、自分が思ったことを今でも覚えている。「地獄の苦しみはこれ以上だろうな。しかも限りなく苦しみが続く。地獄には絶対に行きたくない」。

皆さんには「地獄のほうに行きたい」なんて冗談でも言っていただきたくないものである。永遠の祝福された世界、天国に入っていただきたいものである。ただし、この祝福された世界に入るには、ただ一つの条件がある。多くの方はそれを勘違いしている。つまり、たくさん良い行いを積み上げれば天国に入れると思っている。しかし、どんな人でも罪のない人はいない。それにたった一つの罪でも、その人を天国の外に追いやるには十分である。良い行いをたくさんした人でも、引き算したら罪は残る。消えない。それに心の中の隠れた思いも罪であると聖書は告げる。そして罪の報いは裁きであると告げる。よって、神が私たちを天国に救い入れるために定めた唯一の条件は、「罪が赦されるための道」を通るということである。その道とは、イエス・キリストの十字架である。イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちです」と言われた(ヨハネ14章6節)。そして、罪を裁く処刑の道具である十字架についてくださった。それは私たち罪人の身代わりとしてである。これは今から約二千年前、西アジアのイスラエルで起こった出来事である。キリストの十字架はわたしの罪のためであったと信じることが、罪が赦されるための道を通るということである。

ある人たちは、神さまは憐れみ深い方ならば、その人が罪を認めようが認めまいがどんな人でも天国に救い入れるのが当たり前のはずだと主張する。良い行いを積んだらとかいうのではなく、無条件の救いを主張される。しかし良く考えていただきたい。「神さまは憐れみ深い方だから、人殺しをした人でも、犯罪をひた隠しに隠してきた人でも、誰でも彼でも天国に入れて救ってくださる。何のお咎めも裁きもない。すべての人が救われる。神さまの限りない憐れみによって」。しかし、こんな聖さも正しさもない、罪をさばかない方を、神とはみなさせないのである。

以前、神は愛ならば、すべてを赦すべきだと言われる婦人に対して、こんな話をした。「世間を騒がせたあの有名な悪徳政治家が、この世で何の裁きも受けないで、死後、神さまからの裁きも受けないで天国に行くことがあってもいいと思いますか」。「そんなのはダメ」。また、地獄のさばきも、この地上での裁きも、裁きというものは一切あってはダメという人に対して、こんな話をしたことがある。「じゃあ、人を十数人殺して悔い改めなかった人がいますが、その人は何のさばきも受けないで天国に行けるのですか?」「いや~、それはだめだ」。1+1=2という法則が定まっているように、罪には裁きという法則は定まっている。そしてどんな罪にも裁きがある。だから、罪を赦されるための道を通らなければならない。

聖い神は、私たちの罪を赦そうとして、御子イエス・キリストをこの地上に送り、キリストは罪のない生涯を送られた上で、十字架にかかり、私たちの罪と裁きを負ってくださった。キリストは私たちの罪のための処罰を、あの十字架の上で完璧に受けてくださった。十字架は人間の罪に対する神の裁きなのである。もし、私たちがすべてをご存知の神さまの前で、正直になってへりくだり、自分の罪を素直に認め、キリストはわたしの身代わりとなって、十字架で罪の裁きを受けてくださったと信じるなら、やがて天国の門の前に立った時、「おまえは罪人だけれども、おまえの罪はイエス・キリストの身代わりによって全部清算されている。おまえの罪は赦されている。この祝福された永遠の世界に入りなさい」。そう宣言されて天国に入ることができる。良い行いも罪を消し去ることはできない。ただ、自分の罪を認め、悔い改め、キリストの十字架を「ありがとうございます」といって受け取ることが救いの条件である。

今日は、キリスト教の暦では「受難週」である。キリストが私たちの罪のために苦難を味わい、十字架で死んでくださったことを覚える週である。2000年前の当時、十字架刑は、ユダヤ人にとっては、神に永遠に呪われることを象徴していた。ギリシャ人にとっては、十字架刑は、奴隷や、強盗、殺人犯、人間のくずと思われている人たちへの死刑手段であった。まことの神にしてまことの人、神のひとり子イエス・キリストは、あえて、この十字架刑に服してくださった。私たちの罪が赦され、私たちが天国の門をくぐることができるために。そして、私たちに永遠のいのちを保証するために、三日目に死からよみがえってくださった。

神さまは私たちの心に永遠という二文字を刻んでくださったわけだが、今朝、皆様の心に十字架という文字も刻んでいただきたい。キリストの十字架なければ、私たちの罪の赦しはなく、救いはなかったのである。キリストの十字架は私たちの罪の赦しのためだったのである。キリストの十字架が天国への道なのである。キリストの十字架が、私たちに永遠の希望を与えるのである。