今日からキリストの公生涯に入る。キリスト出現の道備えが、まずバプテスマのヨハネによってなされた。「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ」(1節前半)。「そのころ」とは2章の終わりを見る必要があるが、そこではキリストがガリラヤのナザレに住んだことが記されている。聖書は時計が普及している現代人の感覚で、時間を均質的なものとして扱い、「そのころ」と言っているわけではない。ここでの「そのころ」とは、具体的にはキリストが人として30歳に達していた時のことである。バプテスマのヨハネはキリストよりも6カ月年上。「ヨハネ」という名前はユダヤ人には一般的な名前で、ヘブル語の「ヨハナン」に由来している(Ⅱ列25章23節「カレアハの子ヨハナン」)。その名前の意味は「主はあわれみ深い」。「バプテスマ」というのは彼の職務を明確に表している。ヨハネの父親は祭司ザカリヤ、母親はエリサベツ。ヨハネ出産の物語はルカ1章に詳しい。ヨハネは特別な存在で、「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(1:15)と言われる人物で、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」(1:17)と言われている。旧約聖書最後の書であるマラキ書4章5節では「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす」と預言されていたが、その預言者とはバプテスマのヨハネであった。実際、ルカ1章75節では「いと高き方の預言者」と呼ばれている。バプテスマのヨハネは旧約時代最後の預言者ということになる。彼が新約時代をもたらすキリストを救い主として指し示す。

「現れ」(*「到着し」)<パラギノマイ>は、役職に着いている偉い人物が公けに出現したり到着したりするときに使う用語。さて、バプテスマのヨハネの職務は何だろうか?古代、王が来られるというとき、布告官、伝令官が前ぶれとして王が来られることを告げた。バプテスマのヨハネもこれと同じで、王キリストの現れの前ぶれという職務を担った。「・・・教えを宣べ伝えて」<ケーリュッソー>ということばは、王が来られることを大声で広範囲に伝える布告官に用いられたことばで、「布告する、告知する」という意味である。なんとなくバプテスマのヨハネの位置づけが見えてきたと思う。古代、王様の来訪が告げられると、王様が来られるのに備えて、道路工事もしたというが、ヨハネはたましいの領域で、人々にそれをさせようとしている。

彼が教えを宣べ伝えた場所は「ユダヤの荒野」と言われている。古代、王の来訪や、政府の要人の来訪を告知する者は、高級な着物をまとい、上級の宿に泊まり、重要な人々とだけコンタクトをとり、目につく場所で、ものものしく告知した。けれども、バプテスマのヨハネは違った。まとっているものは野生的、しかも告知する場所は人目を引かない荒野である。「荒野」とは当時の汚れてしまった宗教システムから人々を引き離そうとするような環境である。当時の形式主義、世俗主義、偽善、そういったものと対峙するシンボル的な環境が荒野であったと言ってよい。そこは当時の誤りに導く宗教リーダーたちから離れて、みことばに聞き、考え、熟考するには良い環境であった。余計な雑音が聞こえてこない。また、荒野はもし真剣な求めがなければ行き気になれない場所でもある。そこに楽しみはない。私たちはこうした荒野のような環境に行けなくとも、心の中に荒野性をもつことが必要かもしれない。この世の余計な雑音、雑物を取り去り、ただみことばに向かうという備えをするということ。

バプテスマのヨハネのメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2節)。バプテスマのヨハネといえば「悔い改め」である。マラキを最後に約400年間、イスラエル人は預言者のことばというものを聞いたことがなかったわけであるが、「悔い改めなさい」というヨハネのことばに神的なものを感じとったであろう。ヨハネが悔い改めを宣べ伝える動機は「天の御国が近づいたから」ということである。イスラエル人は王なるメシヤの来臨によって神の国が始まると信じていた。だから、ここは、「もうすぐ王が出現するから、それに備えて悔い改めなさい」と言い換えてよい。  マタイが使用した「天の御国」という表現について少し説明を加えておくが、マタイの福音書はユダヤ人を意識して書かれた福音書である。「天の御国」という表現はユダヤ人を意識している。この表現はマタイの福音書に32回使用されているが、他の福音書には使用されていない。他では「神の国」である。異邦人を意識して書かれたルカの福音書では「神の国」が32回使用。だから明らかにマタイが「天の御国」という表現を用いたことには意図がある。実は、ユダヤ人は神の御名を神聖四文字として発音しなかった(ヘブル語「ヤハゥエ」)。だからしばし「神」ということばを「天」で代用した。「神」という名を隠して、遠回し的に表現して、「天に赦しを求むべし」「天を愛して、天を畏るべし」という風に。「天の御国」から「天国」という表現が生まれたが、「天」とは必ずしも、雲の上という空間を意味することばでないことを知っていただきたい。「天の御国」という呼び名によって、全被造物に対する神のご支配を意味させ、ことにイスラエルを主なる神が王として支配すること、とりわけ、歴史の終末に現れるメシヤ王国を意味した。一つの問題はユダヤ人が期待していた王国とは政治的な性格が相当に強いものであったということ。私たちはキリストの来臨によって、天の御国(神の国)はすでに到来したことを教えられている。それは目には見えないけれども霊的な現実としてある。キリストはある時、言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』と言えるようなものではありません。いいですか。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17章20,21節)。このように、キリストの来臨によって神の国は到来したけれども、その完成はまだ先。だから、「御国が来ますように」と祈るように教えられている。神の国の完成は、文字通り天にある神の都、すなわち俗称である「天国」が地上に降り立って、地上も完全に神のご支配のもとに置かれるその時に成就する。すなわち黙示録21,22章に啓示されている「新天新地」が完成した神の国である。

悔い改めに戻るが、ユダヤ人たちにとってメシヤなる王を迎え入れる条件として、すなわち王が始める神の国に入る条件として「悔い改め」が条件づけられたことは、ショックにも感じたと思う。というのは、ユダヤ人の多くが、神の国には自動的にイスラエル民族が入るものだという固定観念をもっていたからである。もちろん、旧約時から悔い改めの大切さは教えられてきたのだけれども、彼らは、自分たちはアブラハムの子孫であるゆえに自動的に神の国の構成メンバーになれるかのように思い込んでいた(9節)。異邦人はもちろん、神の国から除外されると思っていた。バプテスマのヨハネのメッセージは、誤った民族主義を砕くものであった。あなたがたも悔い改めなければ滅ぶと。神の御怒りは避けられないと。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」(3節)。これは悔い改めの絵画的な表現である。この3節はイザヤ書40章3~4節のみことばである。開いて読んでみよう。「主の道を整えよ。荒地で私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての丘や山は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」。マタイは若干、表現は違っている。主の道を整えるということを、峠道の工事をイメージしてみてもよい。でこぼこの曲がりくねった細い道が続いている。峠は非常な交通障害に感じる。こんな道を王様に通らせることもできない。それで岩土を砕き、道を低くし、まっすぐで平らな一本道を作って開通させるのである。罪は神と人との間の障害物である。おごり高ぶり、曲がった思い、それらを砕いて取り除かなければならない。このみことばは、私たちの心象風景について考えさせられる。この悔い改めについては、後でまた見ることにしよう。

ヨハネの身なりは特徴的である(4節)。それは預言者エリヤと似ている。「毛衣を着て、腰に皮帯を締めていた人でした」(Ⅱ列1章8節)。食べ物も身なり同様、簡素である。こうした彼の身なりや食べ物やライフスタイルは、律法学者、パリサイ人、サドカイ人、祭司といった、当時の自己満足と自己欺瞞に満ちたイスラエルの宗教的、政治的リーダーたちとは対照的である。何か、批判的メッセージにもなっているようである。

ヨハネのメッセージの効果はドラマティックに見える(5,6節)。パレスチナの南側のすべての地域の人々が、そしてヨルダン川の両岸に住む人々が、こぞってヨハネのもとに来た。そして自分の罪を告白して、バプテスマを受けた。彼のバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」(使徒13章24節)と呼ばれているが、これは今までなかった彼独特のものである。手、足、頭を水で洗う伝統的な儀式的洗いはあったが、それとも違う。全身を川の水に浸したと思うから。また同じような洗いをするユダヤ教の一派でエッセネ派があったが、エッセネ派は一日のうちに、また一週のうちに何度も洗った。けれどもヨハネのバプテスマは一度である。いずれ、大切なポイントは、このバプテスマが意味するところは悔い改めの意志表示にあるということである。神の契約の民であるから救われるというのではない。悔い改めが必要である。神の選びの民であるから、それで救われるというのではない。罪を自覚して、それを捨て、その上で救い主のもとに来なければ誰も救われない。さて、バプテスマのヨハネのもとに押し寄せた大勢の人々みなが本当に悔い改めたのかというのなら、そうではないという事実はある。それは福音書を読み進めていくとき、人々がキリストのもとから離れ去っていくということからわかる。悔い改めは皮相的、表面的だったと言わざるを得ない人々もかなりいた。だけれども、すべての人がそうであったわけではないだろう。

バプテスマのヨハネのもとにはパリサイ人やサドカイ人たちも来た(7節)。彼らは何をしに来たのか。むろん、罪の告白をしにではないだろう。「パリサイ人」はユダヤ教のパリサイ派に属する人のことで、パリサイ派はエッセネ派とは反対に多数派である。彼らはシナゴグと呼ばれる会堂を持ち、そこが礼拝、教育、裁判などの機能を果たし、彼らは律法研究に熱心だった。律法学者もパリサイ人である。「パリサイ人」ということば「分離した者」を意味するが、彼らは異邦人だけでなく、取税人や他の律法を守らない同国人から自らを分離することを常としていた。彼らは自己を義とする偽善者として、後にキリストからも糾弾されることになる。「サドカイ人」はサドカイ派として祭司階級という上流階級に属する人たち。大祭司もサドカイ人。イスラエルは政教分離ではなく政教一致であったので、これら祭司たちが政治の実権を握っていたわけである。彼らは自分たちの地位を保つためには異教徒のローマ政府との妥協もやむなしとしていた世俗主義者たちでもあった。金銭愛も強い人たちだった。

パリサイ人やサドカイ人は、ヨハネが群衆の間で預言者であるとうわさされているのを知って、チェックしに来たのであろう。どういう人物だい?もし、真の預言者となれば、その預言者を通して自分たちの権威を保つことができるというメリットも考えていたであろう。彼らはうぬぼれの強い者たちで、自己を義としていたゆえに、罪からの解放と神の義を真摯に求めようとする姿勢はない。彼らは、自分たちはそのままで神の国の構成員であると信じ込んでいた。

バプテスマのヨハネは彼らを「まむしのすえたち」と痛言を浴びせる。まむしは強い毒をもつ荒野のへび。キリストも後に「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを心が話すのです」(12章34節)と語っているが、彼らの教えは毒である。また「まむしのすえ」なのだから、「まむし」とは誰なのか考えなければならない。それは「悪魔」である。キリストは言われる。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」(ヨハネ8章44節)。彼らは神の御怒りがふさわしい。

バプテスマのヨハネは、パリサイ人、サドカイ人に対しても真向から悔い改めを語る。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(8節)。この場合の「実」とは行いのことである。真の悔い改めには必ず行いが伴うということ。ユダヤ人を意識して執筆されたヤコブの手紙では、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです」(2章17節)とある。実は、パリサイ人もサドカイ人も、真の悔い改めとは何かについて学んではいた。悔い改めはユダヤ教の基本的な教義であった。あるユダヤ教の学者は彼らの伝統的教えをふまえて述べている。「悔い改めとは何か?悔い改めとは罪人が自分の罪を捨て去ることである。自分からその考えを追い出し、もう二度とそれを繰り返して行うことのないよう、心に固く決意することである」。このような理解は旧約聖書の教えに基づいており、ユダヤ教徒ならば誰でも知っているはずである。「悔い改める」<メタノエオー>ということばの意味は、「向きを変えること」「方向を転換すること」を表わす。この意味からわかるように、それは意志の変革を伴うものである。けれども、罪を悲しむという感情面も、その過程において含んでいる。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Ⅱコリント7章10節)。

ここで、悔い改めについて整理しておこう。エーリヒ・ザウワーという学者は、悔い改めは三重の行為であると説明する。「理性においては罪の知識を意味する。感情においては痛み、悲しみを意味する。意志においては心を変え、転換すること(ギリシャ語メタノイア)を意味する」。悔い改めとは、第一に、理性において、それは神の前に罪であると認め、道徳的に霊的にきよめられなければならないと認めること。第二に、神への違反である罪を深く悲しむことが含まれる。第三に、意志において転換し、神に立ち返ったふさわしい行動をすることが含まれる。言うなれば、悔い改めとは、理性(知性)、感情、意志、すべてを働かせる行為ということになる。

聖書にはこれが半端で終わった人たちの事例がたくさん記されている。エジプトの王パロは「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ」(出9章27節)と言ったが、それは口先だけで終わり、イスラエルの民を奴隷のままにしようとした。預言者バラムはモアブに行く途中、御使いに対して、「私は罪を犯しました。・・・今、もし、あなたのお気に召さなければ引き返します」(民22章34節)と言ったが、彼の心にはモアブから利益を得ようとする二心が隠されていた。サウル王は聖絶の命令を破った後、預言者サムエルの前に言い訳は通用しなくなり、「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです」(Ⅰサムエル15章24節)と告白したが、彼も悔い改めの実は見られなかった。ユダはキリストを裏切った後に、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」(マタイ27章4節)と告白したが、ただの後悔で終わった。今挙げた人たちは一応に「私は罪を犯した」と告白しているが悔い改めなかった。神さまに背いたことに対する深い痛み、悲しみがなかった。失敗、後悔、自己憐憫、そういった悲しみ止まりで終わった。そして方向転換という姿がない。このような中途半端さは、私たちへの警告である。

悔い改めない者への裁きは火の裁きであることが10,12節で暗示されている。「火に投げ込まれます」(10節)「火で焼き尽くされます」(12節)。

ヨハネは悔い改めを語った後に、キリストを指し示している(11,12節)。他の福音書を見ると、彼はキリストではないかと勘違いされたことも記されているが、彼はここで、キリストの偉大さを語る。「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です」。「私はその方のはきものを脱がせてあげる価値もありません」とは、当時の奴隷の仕事に言及しているわけだが、彼はキリストを前にその値打ちすらないと告白している。

「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」は文脈の中で考えたい。「聖霊」はキリストの御霊と言われるが、キリストの御霊によって新しい生まれ変わりを体験し、キリストのからだの一部とされる。救いは聖霊の働きである。それは「水」ではなしえない働きである。そして「火のバプテスマ」の意味である。ある人たちは、これを「聖霊のバプテスマ」の一つの表現だとする。ペンテコステの日に起こった聖霊の傾注が「炎のような分かれた舌が現れて」(使徒2章3節)と描写されているからである。またある者たちはエゼキエル書等から「火」によって霊的きよめが意味されていると言う。しかし「火のバプテスマ」の意味は文脈上から明らかである。先の10節と、続く12節では火による裁きが描写されている。旧約でも火による裁きはしばし言及されている(イザヤ66章15,16,24節等)。よって「火のバプテスマ」とは、悔い改めない者に下る火の裁きのことである。ヨハネはメシヤなる王の、裁き主、審判者としての性格を強く浮き彫りにしている。

ユダヤ人たちは、預言されている王が来臨して邪悪な者たちを滅ぼし、義なる者たちを解放してくれることを期待していた。しかし彼らが想定していた、裁きを受け滅びなければならない人々とは、自分たちではなく他者、すなわち、自分たちを圧政で苦しめる他国民、他民族のことであった。自分たちは救いに与り、周囲の諸国の人々が裁きを受けるのだ、という安易な理解。来るべき王は政治的リーダーシップをもって諸国の民を懲らしめ、自分たちを救ってくれるという期待。政治的に物事を考えていたことにも問題はあるが、何よりも問題は、自分たちは救われるから神の審判は関係がないと、滅び、裁きを他人事のように思っていたということ。だがヨハネは、彼らに、悔い改めなければ<あなたがたも>滅びると告げている。だからヨハネは「私は、あなたがたが悔い改めるためにバプテスマを授けている」(11節)と言っている。私たちも同様に、罪の審判ということを、他人事のように考え、ただひたすらに他者に裁きの目を向ける弱さがある。自分で自分を義とする者はあわれである。

実は、誰でもが神の前に悔い改めるべきであるということは、次回観ることになる箇所で、罪のないキリストがバプテスマをあえてお受けになる姿からも教えられる。

悔い改めるということは、キリストを信じるときに一度限りの行為でないことも聖書は教えている。悔い改めは日々の習慣でなければならない。今の道路はアスファルトでバイパスも発達しているが、昔の砂利道を思い起こしていただきたい。すぐにでこぼこになる。雨が降ると水たまりもできた。雑草もすぐ生えた。補修は頻繁に行われなければならなかった。アスファルト道路と言えども定期的な補修作業が必要である。3.11の地震の後は、まさしくアスファルト道路が、地割れ、土砂崩れで、通れなくなってしまった。そのような道路が秋田にも何本かあった。そのままいつまでもほおっておいていいわけはない。道路もトンネルも定期的に点検し、補修するだろう。私たちは他者を裁くエネルギーを自分に向け、悔い改めを習慣化し、真に神を畏れる者として歩んでいきたい。不正、おごり、高ぶり、わがまま、かたくなさ、それらは砕かれ、平らにされ、真っ直ぐな主の道を造らなければならない。主は再び来臨される。キリストの再臨の時は近い。我らの王なるキリストをお迎えする者たちとして、主の道を備えよう。