ある会社員が、会社で上司に自分のやりたくないことを命じられた。それが嫌さに、奥さんに、「急用で帰るように」と奥さんに会社に電話を入れさせたという。ある大学では、なぜか試験期間になると、身内に不幸ができました等の理由をつけて、試験を回避する学生が増えると言う。みんなやりたくないことはやりたくない。けれども、その命令が神さまからのもであったらどうなのか?

ヨナ書は神のことばに背いたイスラエル人ヨナの物語である。時は紀元前793~753年に治めたヤロブアム2世とほぼ同時代と推定される。このヨナの物語は私たちにとってかけ離れたものではない。私たちにとって神のことばに従うというのは、時に困難を感じ、好みにも合わないと感ずることもある。それで、理由をつけて従わないということが起きてくる。

1~3節を改めて読もう。神の命令はニネベに行くことであった。ヨナは神の命令に逆らって、反対方向のタルシシュに逃れようとした。ニネベは当時の大国アッシリヤの首都で、アッシリヤはイスラエルの敵国で、残虐なことで有名だった。串刺し、生きたまま皮をむく、生きたまま手・足・鼻をもぎとる。2節を見ると「彼らの悪がわたしの前に上ってきた」と言われているので、邪悪な国であったことはまちがいない。彼らはまた聖書が啓示する唯一の神を信じる民族ではない。水と油の関係。ここ数カ月、民族対立のニュースが絶えない。イスラム教過激派のテロ行為が繰り返される中、フランスの新聞記事がイスラム教の風刺画を描いたことがきっかけでアラブ諸国との対立が強まっている。イスラエルでは800万人の人口のうち140万人ほどがアラブ人で、比較的平和に共存してきたが、ユダヤ教の超正統派(極右)が台頭してきていて最近対立が強まっている。日本ではヘイトスピーチに代表されるように、韓国人、朝鮮人への排他的言動が盛んになってきた。アメリカでは白人と黒人の人種差別問題が解決していない。21世紀に入ってもこの状態で、歴史は繰り返される。

ヨナの場合、神のことばに従いたくないというのは人情的にわかる。当時、アッシリヤはイスラエルを滅ぼそうとしていた敵国。しかもアッシリヤは周辺諸国にとっても恐るべき国で、悪に染まった国。残虐で有名。当然、首都のニネベも悪名高き町(ニネベという名称は偶像の神に由来している)。ヨナは、あんな町滅んでしまえ~、滅んで当然、と思っていただろう。どうしてあんな町に行っていられようか、と思ったはずである。しかし、聖書に、「神はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めることを望んでおられます」(Ⅱペテロ3:9)とあるように、神さまの願いはニネベの住民が滅びることではない。

ヨナがニネベに行きたくない理由は他にもあったかもしれない。私たちは色々な理由をつけて神さまに従わないでしまおうとすることがある。今忙しい、それは自分に向いていない、他にやりたいことがある、体力的にむずかしい、そのお金がない。この者も今まで、そういう場面がいくつかあった。気乗りしない奉仕を頼まれた時、韓国の教会訪問に行かなければならなかった時、そして、実はこの横手行きもそうだった。その度にみことばを通して叱責されたり、励まされたり、最終的には従ってきたわけである。

もし、みことばを通して何かはっきり示されたら、やはり、従わなければならない。みことばの偏食はいけない。それはより好みの従順にすぎない。それは、その人への祝福を減らすばかりか、周囲にとってもマイナスになる。いずれ観ていくわけだが、ヨナの一時の不従順によって人々は迷惑を被ることになる。そしてもしヨナが最終的にニネベに行かなかったら、ニネベの人々は神のことばを聞くことも、救いに与ることもなかった。

さて、神のことばに背いたヨナの行動はどう表現されているだろうか。「主の御顔を避けて」(3節)と二度言われている。これは言い変えるならば、「神の臨在を避ける」ということ。「神との交わりを拒否する」ということ。ヨナはむくれてしまった。そして逃亡を計った。目的地は「タルシシュ」とあるが、おそらくスペインの地。彼は国外逃亡を計った。そこでまず「ヨッパ」という港町に向かった。ヨッパはエルサレムの北西にある港町。そこで彼はタルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払って乗った。すべては備えられたかに見えた。

おもしろいことに、神のことばに背いて、主の御顔を避けて、みこころとは反対方向に向かっているのに、そこにちょうどよい助けがあった。反対方向に行く船があり、船賃があり、乗船できた。神さまから離れる助けというものがある。神のみこころとは反対方向に向かう助けというものがある。キリスト者はよく、「導きです、みこころです」ということばを使う。「ちょうどよい助けがありましたから」と。だがヨナのようなケースに、「導き、みこころ」ということばは使うものではない。ある方は「罪にはちょうどよい助けがある」と言った。ヨナの選んだ道は、罪の道であり、徒労の道に過ぎない。私たちは道が開かれたと思った時、それが本当に導きなのか、みこころなのかと神にあって思案しなければならない。助け舟ということばもあるが、助け舟があったと思う時、それが主の御顔を避ける手段ではないかのかどうかと立ち止まって考えてみなければならない。

ヨナはタルシシュ行きの船に乗って、主の御顔を避けた旅に出る。彼は神のみこころとは反対方向に向かった。彼は神から外れた生き方をしている人の代表と言える。だが神は、ご自身から外れた生き方をしている人をほうってはおかない。回復への恵みを賜る。この恵みを無視したら後はないが、さて、ヨナはどうなっていくのか?

4~6節を読もう。助け舟に乗ったヨナであるが、とんでもない事が起きる。「大風」が吹きつけてきた。これは偶然のことではない。主の御手によった。「大風」を送った目的は、ヨナに罪の自覚を与えるためであり、悔い改めさせるためであった。また、その道を突き進まず、引きかえらせるためであった。神のことばに背く時、御顔を避ける時、「大風」がある。その大風とは様々なかたちを取ることがあるだろう。この時は海上であったので、神さまは「大風」を選択されたわけである。大風によって海は荒れ狂い、環境は一変して、不安うずまくものに変わってしまった。このままでは船は「難破」してしまう。乗船している人々の命はない。

船員たちは船が難破しそうになったため、少しでも船を軽くしようとして船の積み荷を海に投げ込んだ(5節)。こういうケースの常とう手段であるが、ヨナの罪が大損害をもたらしたわけである。彼らはよく見ると積み荷を捨てただけではなく、自分の信じている神々に叫んで助けを求めたようである。ところが問題解決のカギを握っている当のヨナは、「船底に降りていって横になり、ぐっすり寝込んでいた」。彼は船を軽くすることに協力する姿勢はない。それどころか船底に降りていってしまった。これも神から逃避する行動。「主の御顔を避けて」の一行動。けれども激しい暴風の時、よく寝ていられるなと思うが、人は極度のストレスが続くと眠りに落ちると言われているので、そうであったかもしれない。とすると、彼は心は疲れ、精神は衰弱していたことになる。いずれ、彼が眠ったままでいていいはずがない。彼が眠ったままでは事態は好転しない。

ヨナのこのふて寝の姿に、未信者が取り巻く環境の中でキリスト者がどうあるべきか、示唆が与えられるような気がする。ヨナはこのままではいけない。被害を食い止めるために目を覚まし行動に出なければならない。彼は周囲の人々に対して責任を負っている。

ヨナは船長によって起こされる(6節)。神は信仰者でない人を用いて、ヨナの信仰を立て直そうと計られた。この者も経験がある。アドバイスされ、叱責され…。

7~10節を読もう。誰のせいで災いが降りかかったのかを知ろうとして、全員でくじを引く。くじを引くというのは、古代世界では民族宗教問わず一般的な方法だった。「そのくじはヨナに当たった」。この事においても主の御手は働いていた。船底にいた彼は、こうして皆の注目の的になってしまう。神はヨナを船底なんかにいさせない。布団にもぐりこんだままではいさせない。

9節でヨナは皆の前で信仰告白をしている。というか、強制的にそうなった。「私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています」と、この告白を見てわかるように、彼は信仰を捨てたわけではない。ただむくれて主の御顔を避けて不信仰になっているわけである。不信仰は未信者の人々に悪影響をもたらしてしまう。ヨナの不信仰は周囲の人を巻き込み、多大な迷惑をかけていた。ヨナはそのことは自覚していたが、この場で、災いの原因がヨナにあるという事実が公けになる。「何でそんなことをしたのか」(10節)と叱責まで食らうことになる。いうなれば、皆のさらし者になり、「わたしはクリスチャンです」と告白することになり、「なんてことをしてくれたんだ」と未信者の方々に叱責されるはめになるということである。

11~15節を読もう。海はますます荒れ狂っていった(11節)。この荒れ狂う海は、私たちの解決しなければならない問題を象徴しているようである。最初、船員たちは自分の信じている神々に祈ったがだめだった。また船荷を海に投げ込んでなんとかしようと努力したが海はますます荒れて危険な状態になっていった。ヨナは、自分に原因があるから自分を海に投げ込みなさいとアドバイスする(12節)。しかし、船員たちはそれをしないで、一生懸命、船を陸に向かって漕ぐ(13節)。彼らは力を振り絞って漕いだだろう。それでも全くだめ。状況はますます悪化していった。そうさせたのは神である。では、彼らはなぜヨナを海に投げ込むのをためらっていたのだろうか。ヨナの話を聞いて、そうかニネベになんか行きたくないよな、とヨナに同情していた面もあっただろうが、ヨナを海に投げ込むことによって、ヨナが信じている神さまの罰(バチ)が当たるのを恐れたからである(14節)。ここで彼らは、いくらどうやっても海は静まらないので、人間的方法、手段が尽きて、ヨナを海に投げ込むしかないと判断。神はこれを待っていたわけである。そして投げ込む(15節)。荒れ狂っていた海は、ヨナを海に投げ込んだタイミングで静かになった。これは偶然のことではない、ヨナの神のみわざだと皆が悟った。

16節を読もう。「人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた」。やがてヨナの宣教によってニネベの住民は回心するわけだが、ここは、その宣教の前触れといっていい記事である。異教の民が14節にあるように、「ああ主よ」と祈り、15節でその御力を体験することになり、結果、16節にあるように、「主を恐れ」、そして礼拝をささげることになる。

この事件を船員に焦点を当てて読めば、人間的努力は問題を根本的には解決しない、解決は主なる神にあるということ。船荷を投げ捨てて船を軽くすればという人間的計算もだめ。一生懸命気力を振り絞って船を陸に戻そうと漕いでもだめ。人間の知恵、努力、熱心もすべて徒労に終わる時、残された道は、それまで口にしていた神々にではなく、海と陸を造られた神に向かうということ。まことの神にあわれみを求めるということ。それが出発点となる。皆様の家族や知り合いの方もそうなってほしい。

ヨナに焦点を当てればどうだろうか。ヨナは神のことばに背き、逃避する。主の御顔を避けている限り、そこに平安はない。船底で、心は疲れ、精神は疲れ、衰弱し、眠るだけ。しかし、神はそんなヨナを追いかけ、なんとか引き戻そうとする。ほおってはおかない。神は愛をもってヨナを追求する。ヨナを愛する愛は私たちにも向けられている。

神はヨナが海に投げ込まれる選択をされた。船底ではなく海の底で彼の信仰を呼び起こすためにである。次週学ぶが、彼は海の底で、苦しみの余り、ようやく神に向かい祈る者となる。神は、ヨナの反抗する行動を益と変えていかれるわけだが、今日のところで信仰者が教えられることは、何があったとしても、神の臨在を避けたままでいてはならないということ、神との交わりを断ち、口を利かないままでいてはいけないということ、そして苦悶したとしても、みこころに従う決断をするということである。より好みの従順であってはならない。神さまは、私たちを目的をもって生かしておられる。その目的にかなう歩みをしていきたいと願う。私たちは、「神はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めることを望んでおられます」(Ⅱペテロ3:9)という神のお心を受けとめながら、神の目的のために自分を捧げていきたい。