「あらゆる境遇に対処できる」ということばに、しなやかさや強さといったものを感じるが、これは使徒パウロが使っているものである(12節)。私たちもこの秘訣を会得したいと願う。

パウロという聖徒は、どんな境遇にあっても満ち足りることができる人であった。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(11節)。これは獄中にいる人のことばである故に重みがある。「どんな境遇にあって満ち足りる、これはなかなかできることではない。これは、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、荒野の旅路において必要のすべてを神さまに備えていただき養われたにもかかわらず、エジプトのほうがましだったと不平不満を言い、つぶやき通しだったのとはずいぶん違う。

パウロがこの事を書くきっかけとなったのは、ピリピ教会が牢獄で生活をしているパウロに物質的援助をしていたことが背景にある。この点ではピリピ教会はマケドミヤNO1の教会であった。最近のことでは、ピリピ教会はエパフロデトを使者としてパウロのもとに送り、贈り物を届け助けようとした(18節)。パウロはこの事を感謝して、4章10節で、「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです」と語っている。どうやら、ピリピ教会からの物質的援助は一時ストップしていたようである。だからといってパウロは、その間、私は乏しく落ち込んでいたのではないということを11~13節で語っている。12節では「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」ということばも飛び出している(12節)。「あらゆる境遇に対処できる秘訣」とは、「どんな生活状況にも対処できる秘訣」と言い変えることができよう。「貧しさの中」に置かれたパウロを考えてみよう。彼は神の与えたもう物で満足することを心得ていただろう。では「豊かさの中」に置かれたパウロを考えてみよう。現在の豊かさをつつましい心で感謝し、しかし、その富に心を奪われることなく、神が良いと思われる時は喜んで手放す用意があっただろう。彼の心は物質に依存してはいなかった。彼の心は、物質にも人にも環境にも依存していなかった。今彼は牢獄にいるわけだが、彼はただ、主なる神に依存していた(4章4節参照)。「主にあって」とは、「自分の全存在を主にゆだねるような信頼をもって」「主に依存して」ということであった。だからパウロは、貧しさの中にあろうが、豊かさの中にあろうが、その他、どんな境遇に置かれようが対処できるのである。

この秘訣をパウロは13節で説明している。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」。この別訳をいくつか紹介しよう。「私は、私のうちに力を注ぐお方にあって、どんなことでもできます」。「私は、私のうちに内住するお方の力を通して、何でもする準備ができています」。「私は、私に力を与えてくださる方にあって、すべてのことをする強さを持っています」。私たちは経済状況の変動ばかりではなく、生活環境や仕事の環境が変わると、そこで焦燥感やストレスを抱き、自分を見失いそうになる。喜びも当然なく、思い煩いや不安ばかりが増し、憂鬱になってくる。しなければならないとわかっている事をするエネルギーもなくなってくる。だが、パウロは他の聖徒の誰よりも苦難を味わい、逆境に次から次へと見舞われた人。でも人生の敗北者にならなかった。彼は「私を強くしてくださる方」、すなわち、キリストに心をいつも向け、このお方に依存し、根ざし、このお方とのしっかりとしたいのちの結合を持ち、このお方と交わり、拠り頼んでいた。彼にとってキリストは生活の生ける現実だった。パウロはキリストにとどまり、キリストから力を受け、強められ、まさしく日々がキリスト体験だった。13節のみことばにもう少し説明を加えると、「どんなことでも」というのは、「私のしたいすべてのこと」ではなく、「私がすべきどんなことでも」という意味である。このみことばは、自己中心的願望達成のために悪用されることがあるが、そうであってはならない。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」という精神の中で、「主がともにいてくださるなら、それは必ずできる。強く雄々しくあれ」ということなのである。この事を汲み取った上で、一つの実話をお話しよう。

ある男性クリスチャンが仕事の重圧に耐えかね、過労を覚え始めていた。心身共に疲れ切っていた。神経衰弱の状態である。友人とボートに乗って釣りをしている時のこと、彼の友人が「いったいどうしたんだい」と聞くので、神経衰弱気味になってしまったことを話した。その知り合いは彼を自分の家に連れて行き、長椅子の上に横にならせた。そして、ある文章を読み始めた。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。・・・・・しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:28~31)。そして、その知り合いは尋ねた。「私の読んだのはどこからだか知っているかね」。「それはイザヤ40章です」。「よろしい。君がそれを知っているのは結構なことだ」。「ではなぜそれを実行しないのかね」。そう言って、神のふところでリラックスしなさい。神の力を得るように実行しなさい。神が力を与えつつあると信じ、神の力との接触が断たれないようにしなさい。君自身の内側から力が湧きあがるように道を開けなさい。そうして仕事に打ち込みなさい」。そのようにアドバイスして、もう一度、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と再び、先の一節を繰り返したそうである。私たちは、私たちを強めるみことばを幾つも知っている。だからこそ、私たちも、「ではなぜそれを実行しないのかね」という先の人のことばを無視できない。

今日、後半において目を落としてはいけないみことばは、19節である。「また、私の神は、キリスト・イエスにある栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」。パウロはここで、神は力とともに、実際の経済的必要をすべて満たしてくださるお方であることを知っている。私がこの経済原則を学び始めたのは貧乏神学生時代であった。二年生の終わりの時、「今の生活費では本代を捻出できません。十分な本代をお与えください」と祈った。三年生になった時、神はその祈りに応えてくださった。神学生は奉仕教会が一年毎に変わった。三年生になって私が遣わされた奉仕教会は、毎月5千円を本代としてくださった。その教会の毎月の会計報告の支出の欄には、なんと「神学生の本代」という科目があった。奉仕神学生を受け入れる教会は多いと言えども、神学生に本代を毎月支給するよう予算化している教会はそこだけであった。主の真実を覚えた。

さて、「あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とはありがたいことばだが、「あなたがた」とはいったい誰のことと言えるだろうか?すべてのクリスチャンのことか?確かにそう言えるが、厳密に言えばそうではない。直接の文脈ではピリピ教会のことだが、ピリピ教会はどのような特徴を持つ教会であろうか?まず、ヨーロッパ最初の教会として、福音を広めることに熱心に与ってきた教会であった(1:5参照)。ピリピの教会は「御国が来ますように」と御国の福音の前進のために熱心であった。キリストは「神の国とその義とをまず第一に求めるならば、それに加えて生活に必要なものはすべて与えられます(マタイ6:33)と約束された。次にピリピ教会は、良く献げる教会であった。今日の14~18節を見ただけでも、そのことが良くわかる。ピリピの教会以上にパウロの働きを物質的援助をもって助けた教会はなかったようである。この事が19節の布石となっている。パウロは19節において、献げる者、献げる教会に対して、神はあなたがたのすべての必要を満たしてくださるという原則を語っている(箴言11章24~26節)。

札幌で伝道しておられた三橋先生ご夫妻は、函館時代、貧困の中にあった。「たましいを与えてください」と祈るよりも、「日毎の糧を与えてください」と祈ることのほうが、より深刻な祈りであったそう。当時、来客があった時、近くのラーメン屋さんからラーメンをとってご馳走することが最大のもてなしであったそう。どんぶりと箸がついてきて大助かり。ある時、4人の来客があったが、ラーメン代が手元に無し。実は2~3日後に控えた伝道旅行のための、とっておきの5百円があったが、でもこれを使うと、という心配があった。しかし必要を満たしてくださる神を信じ、ラーメンでもてなした。5百円はラーメン代に消えてしまった。その夜、切実な祈りをささげ、必要が満たされるように祈ったそうである。すると翌朝、差出人の名前もない不思議な手紙が届いた。そして封筒の中には、5百円を使っただけなのに、その十倍の5千円が入っていた。ご夫妻は今も生きて働いておられる神さまの真実さに感謝したそうである。

神は御国の福音のために身を献げ、そして物質的な献げ物を怠らない教会、クリスチャンたちの必要をすべて満たしてくださるお方である。

19節の「あなたがたの必要をすべて」の「すべて」ということばにも注目したい。ここでの「すべて」とは「あなたがたの欲しいものすべて」ではない。「主のみこころにかなう必要なものすべて」である。主の祈りの、「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」の祈りの前に、「みこころが行われますように」という祈りが先行している。私たちはみこころを行うために生かされおり、そのための必要である。

ある人たちは、自分で稼いでいるから、祈らなくても困らないと思ってしまう。しかし、先の「日毎の糧を今日もお与えください」という祈りは、私たちは神に生かされている、神によっていのちが支えられている、私たちの生活は神の恵みに依存している、という事実の確認でもある。私たちのたましいの衣服である肉体から始まって、飲む物、食べるもの、実際の衣服、金銭、生活空間にある一切のものが神の恵みであり、神の所有である。私たちを根底から支えているのは、その人が自覚しているしていないにかかわらず、神である。神の恵みを信仰の中でとらえている人は、豊かさの中にあったとしても、この祈りは欠かさないだろう。さらにこの祈りは、注意深く見ると、「私たちの日毎の糧を」と、「私たち」という自分以外の人々のための祈りとなっていることにも気づかされる。自分の必要さえ満たされればいい、ではなくて、他人の必要のためにも祈り、配慮するということである。

19節の「栄光の富」ということばにも注目したい。パウロはこの表現を使うことによって、あなたがたの必要が満たされないことはないということを強調したい。エジプトを出て荒野を旅したイスラエルの民はおよそ200万人。豊かさとは無縁の環境。民たちはこの荒野で飢えと渇きで死んでしまうのではないかとつぶやいた。モーセでさえも、この環境で肉は無理でしょうと思ったことがある(民数記11章)。けれども、神は彼らにパンも水も肉も与えた。私たちは栄光の富から必要を補給される。

私たちはまず、ピリピ教会の姿勢から教えられるように、みこころに沿ったライフスタイルということを大切にしたい。主以外のものに依存しようとして二心に生きること、福音のために生きることを考えないこと、不正を働くこと、自分の貯えのことしか考えないこと、そうした生き方は祝福を失う。

けれども、ちゃんとやっているのにもかかわらず必要が満たされないという場合、いろいろな理由が考えられる。すでに必要は満たされているのに、それでは足りないと勝手に思い込んでいる場合がある。何が必要か考え違いしている場合もある。神は、私たちが必要だと考え違いしているものは祈っても与えない。神は真に何が必要かご存知である。またイギリスで孤児院経営にあたったジョージ・ミューラーなども体験したが、ある具体的な必要に関して祈り求めることをうっかり忘れていたということもある。神がそれを自動的に与えてくださると思い込んでいるが、神は祈り求めることを待っておられる。また妥当なものを求めても、その人の罪ゆえに閉ざされ、与えられないということがある。この場合は悔い改めが必要である。また、神が与えようとしているタイミングはもう少し先ということもある。その場合には忍耐が必要である。さらに、必要を得ようとする方法がみこころから外れているため、満たされないということが起こる。増やそうと思って株に投資したら失ったなど。やっていること自体は、この世の人たちもしていることなのだけれども、それがみこころから外れているということを本人たちが知らないでいることがある。こうした失敗に気づいたら、すぐに引き返せばいい。

いずれ私たちは19節のみことばを信仰をもって受け止めよう。実は、この者は開拓という冒険に出るにあたり、やはり悩んだ。必要は満たされるのだろうかと。土地建物の購入費用すら不確かだった。生活費も不透明。家族は息子二人を入れて4人。今後やっていけるだろうかと。まず開拓はみこころなのかと確信を得るまで待った。その後、神さまの方法で、様々なかたちで、とりあえず数年分の必要は備えられた。ある人に今年に入って開拓のことを話した時に、あるたとえで表現された。行きの燃料だけ積んで飛び立った飛行機と同じだねと。そうだよ、と答えた。飛行機は地上にあっては安全だが、飛行機は飛ぶためにある。リスクはある。けれども、みこころにかなうなら必要な燃料は与えられると信じた。

私たちは経済の問題とは別のところでも悩む。この者も、たとい必要は満たされても、今しばらくは開拓伝道はしたくないと抵抗を覚えていた。私たちはすべての境遇に慣れているわけではない。それに耐える精神的肉体的エネルギーがないと感じることがある。無理だ、できない、自分の感情として嫌だ、逃げたい、前に進めない、体力的に不安がある、休みたい、と色々な思いにさせられる。明日という日が来るのがこわく感じる時があるかもしれない。最近の若い信仰者は試練に弱い、すぐ折れるというような話も聞くが、多分に信仰の問題もあるだろう。私たちは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」と信じ、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と信じて、実際、主の力を体験し、あらゆる境遇に対処し、主のために仕えていきたい。