前回は「主の御顔を避けて」というタイトルで、ヨナが神の臨在を避けて、神との交わりを拒否して船旅に出て、海に投げ込まれてしまうというところまで学んだ。ヨナは、あなたのやりたくないことをやりなさい!自分の嫌いな人たちにみことばを伝ええなさい!と神に命じられた人物である。ヨナは従順を試された。アンリー・ニューウェンは言った。「私たちが召されているのは従順であって、神の絶えざる愛に、親しく、恐れなく、耳を貸すことである」。私たちが召されているのは従順である。開かれた耳、従う心が肝要である。けれどもヨナにはそこに難があった。

ヨナは、当時にあってバビロンをも凌ぐ大国であるアッシリヤの首都ニネベに行くように命じられた。アッシリヤは偶像信仰の国であり、イスラエルの敵国であった。悪に満ちた国で残虐なことでも知られていた。彼は不快な気持ちになり、主の御顔を避けて、その反対方向のタルシシュへ行こうとして船に乗り込んだ(1章3節)。彼は神のことばに背き、御顔を避けて、神からどんどん離れていった。逃避行である。神は離れ逃げていくヨナを見過ごしにされなかった。神はまず大風を送った(1章4節)。激しい暴風である。この大風はヨナへのさばきというよりも恵みの手段であった。それは、愛の懲らしめという表現も取れるだろう。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12章6節)。

船は大風によって難破しそうになったので、船員は積み荷を海に投げ込んだが、海はますます荒れていった。陸に戻そうと漕ぎ続けたがどうにもならない。船員たちは仕方なく、問題の張本人であるヨナを海にドボーンと投げ込んだ。すると、それまで荒れ狂っていた海はうそのように静かになり、皆、一命を取りとめる(1章15節)。異教徒の船員たちはヨナの信じていた天地万物の造り主を崇め礼拝するというハッピーエンドで船上の物語は閉じる(1章16節)。けれどもヨナの物語は続く。

次いで、海底に場面は移る(1章17節)。海に投げ込まれたヨナには大魚が備えられる。大魚の中で彼は三日三晩過ごすことになる。ある人々はこれは作り話だと言う。しかし、こういう逸話が残っている。「1900年頃、12人の人間を飲み込んだ鯨がいた。飲み込まれた人たちの証言によると、鯨ののどを通って、大きな部屋のような所に入り、そこを歩き回った。・・・1891年、捕鯨船から下ろされたボートが鯨に当たって転覆し、一人は溺死し、もう一人は行方不明になった。翌日、甲板上に引き上げた鯨の体内から、行方不明になっていた船員が、体を曲げ意識を失ったままの状態で見つかった」。このような記録がなくとも、私たちはこの物語を真実だと受け止めるべきである。

2章に入ると、ヨナが魚の腹の中で祈ったという祈りが記されている。主の御顔を避けて旅に出た1章には祈りの記録はない。彼は神とは口を利きたくない精神状態だった。1章5節で「船底に降りて行って横になり」というのも、神から逃避を決め込んだ行動。私たちで言えば、布団の中にもぐり込み、ふて寝してしまうということ。ヨナは神のことばに背いて、心かたくなになっていたので、祈れる状態ではなかった。彼はストレスをため込んでいたので、そこでぐっすり眠ってしまったと思われる。

神さまは、主の御顔を避けて、交わりを拒否していたヨナが、苦しみもがき、祈らないではおれない状況に追い込んだ。「私が苦しみの中から主にお願いすると・・・」(2節)。その場所とは、まず、海底。本来そこは人間が生きる環境ではないし、ヨナにとっては死を覚悟しなければならない環境。「よみの腹の中」の「よみ」とは、海底での死と隣り合わせの状態を表わしている。当然、苦しみもがくことになる。私たちで言えば危機的状況、どん底状態に追いこまれたということ。必然的に神に祈らないではいられなくなる。次に、魚の腹の中。この魚の腹の中は環境的にはどのような所であったかと言うのなら、第一に、「一人にされた所」。第二に、「外界(がいかい)から全く遮断された所」。このような環境は、自分をみつめ、自分を知り、神に向かうには最善の環境と言える。多くのキリスト者が(私も含めて)、このような体験を通らせられる。

では魚の腹の中でのヨナの祈りの内容を見ていこう。3~4節を読もう。ヨナは海に投げ込まれたことを神の罰ととらえている。「あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました」「私はあなたの目の前から追われました」。彼も溺死覚悟で投げ込まれたわけだが、投げ込んだ主体が神であったことは確かである。神はヨナをいのちの危機に瀕しなければならない状況に追い込まれた。

5~6節を読もう。ここでは、神の目の前から追われ、海中深く閉じ込められている様が描写されている。「地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました」は海底という牢獄に閉じ込められているというイメージ。自分はもう助かることはできない、神のさばきによって死ぬ、という心理を描写している。彼は意識が遠のいていき、もうだめだと思ったかもしれないが、気がついてみたら、大魚の中にいたわけである。大風も大魚も神が備えたもの。彼は神のあわれみよって自分が救われたことを知った。

ヨナの感謝は7~9節で描写されている。読んでみよう。9節には「感謝」ということばが現れているが、この区分は感謝の歌と言ってよい。では感謝だけで、彼は自分の不従順を悔い改めていないのだろうか?ある先生は次のように述べている。「『感謝』であって『悔い改め』ではないというと、少々おかしな言い方かもしれませんが、それでもここには直接的な悔い改めのことばが見当たらないのです。ヨナは死の恐怖と苦しみから救われて感謝しています。しかし、神の御顔を避けて、御心に従おうという態度そのものを悔い改めていません。『私が間違っていました。悪かった。お詫びします』とは書かれてはいません。このようにして、人の頑迷さ、うなじの強さといった醜い側面が、無言のうちに示唆されているように思います」。ヨナはこの体験を通して砕かれるが、徹底的に砕かれた姿までいかなかったことは事実である。神と心を全く一つになるところまではいかなかった。それは、この後、神の命令に従ってニネベに出かけるが、ニネベの住民の救いを見てへそを曲げてしまうことからもわかる。しかし、私は、これが人間の姿で、神もそれをわかっていらっしゃったと思う。つまり、一度の体験で、短い期間で、三日三晩で、何もかも悟ることはできないとわかっていらっしゃったと思う。ある意味、人の成長には時間を要する。

アメイジング・グレイスの作詞者であり牧師であったジョン・ニュートンをご存知の方も多いだろう。彼は箸にも棒にもかからないような罪人であった。彼は奴隷船に拾われて奴隷船の船員となる。ある時、大風が海に吹きつけ船は荒海に飲み込まれ、難船の危機に瀕する。彼は脳裏に死がちらつく恐怖の中で、神に叫ぶ。その時、彼の心に何かが起こる。この大風が彼の転機となり、彼は劇的な回心をしたという話を良く耳にする。しかし彼の自伝を読むと、人の話には誇張があるとわかる。船の上で彼は全く変えられ、完全に聖化され、完全なキリスト者となったわけではない。難船をまぬがれ本国のイギリスに戻った後、しばらくは奴隷船の船長として過ごす。彼が成長するのには時を要した。一朝一夕で、人は完全に神のみこころにかなう者にはなれない。すべてを気づくことはできない。神の心を一度にすべて理解することはできない。神はヨナにも現実的見方をしていたのではないかと思う。彼は海底に沈み、神に助けを求めた時、この時点での、彼なりのせいいっぱいの信仰を発揮し、感謝を捧げたのだと思う。それを非難するゆえはない。先ほど紹介した「このようにして、人の頑迷さ、うなじの強さといった醜い側面が、無言のうちに示唆されているように思います」というコメントは事実なのだが、ヨナ書では、まだ未熟で神のお心を全部つかみきれないでいる信仰の幼い人間に対する神のあわれみ、神の忍耐深いお取扱いというものが光彩を放っているように思う。それは4章でヨナをなだめる神のお姿からも見ることができる。陶器師である神さまは、みことばとともに、環境や人も用いられ、様々な行程を経て、私たちを形造られていく。

では彼の心の態度の変化について、もう少し観察していこう。4節を読もう。「・・・もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」「聖なる宮」は「神殿」という解釈と「天」という解釈があるが、いずれ、そこにお住まいである主なる神を求めている。これは神の臨在への求めである。1章において「主の御顔を避け」という表現が3回登場した(3,10節)。だが今、苦悩しているたましいは神の臨在を慕い求めている。ちょうど雨天続きの天候の時に太陽の光を求めるように。また暗室の中に入れられて萎びてしまった植物が日の光を求めるように。彼は単に死からの救いを求めているのではない。神を切に求めている。「御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによってお救いください」(詩編31章16節)

7節を読もう。「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき」。彼は精神的に衰え果てていたが、それは単に肉体の衰弱からだけ来るものではなく、神の臨在を避け、神との交わりから遠ざかっていたところから来る衰えだった。神の臨在から遠ざかっていたゆえに危機をも招き、それが相乗効果となって、なお衰えた。ヨナは神の臨在を失い、そしてもう神の愛顧を完全に失うのではないかというところまで来た時に、神に心が向かった。「主の御顔を避けて」いたヨナは「主の御顔を求める」者となった。そして主との交わりを回復する者となる。ではヨナは主との交わりを回復して、完全に彼の霊的問題が解決したかといえば、そうではないことは先ほども述べた。彼はこの後、ニネベに伝道に行くわけだが、彼の心にはニネベの人々に対する整理がつかない思いが実在していた。けれども、神のことばに背いていたヨナが、神との交わりを願って、神に心を向けたという転機的な大きな変化がここに見られる。神もこの事実を喜んでくださったに違いない。そして、そこからすべてが始まる。

8節を読もう。ヨナが主の御顔を避けてわかったことは、そこに何も良いものを見い出せないということ。神の臨在を避けて、神から離れていく時に祝福はないということ。「むなしい偶像に心を留める」とあるが、「むなしい偶像」とは、これはかたちあるものばかりではなく、いわば神以外のすべてである。ルターが「人は神か、さもなくば偶像をもつ」と言った通りである。もし神以外のものを心の王座に着けようとするならば、「自分への恵みを捨てます」が現実となる。「恵み」は神との契約に基づく愛と言われるが、この場合、単純に「神の愛顧」と考えて良いだろう。また「自分の恵みを捨てます」ということばに、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4:6)も思い出す。高ぶる者は神の恵みを捨てる。ヨナは自分の苦い体験を通してすばらしい告白に導かれた。ヨナは、神がニネベの人々をも恵もうとされているそのお心、神がニネベの住民たちをも愛しており、赦して、救おうとされているという深い恵みの理解までには達していない。ただこの時、自分への深くて大きい恵みを知ることができたということは、彼にとって貴重な体験であった。「滅びるはずの自分が救われた、死から救われた。この救いは奇跡で、神の恵み以外の何物でもない」と。彼の受けた恵みは、私たちそれぞれ個人が、キリストの十字架によって罪と滅びと死から救われ、永遠のいのちを受けた恵みと比較できるかもしれない。

9節を読もう。「救いは主のものです」(別訳:救いは主から来ます)。空しい偶像は何の助けにも救いにもならない。「偶像」ということば自体も「空しさ」を意味することばである。救いはただ主から来る。この告白自体は正しい。ただヨナは、救いがニネベの人々にもたらされることに対しては快く思ってはいないという問題を残している。これは初代教会が誕生当時、異邦人への宣教に対して懐疑的だったのに似ているかもしれない。ペテロなども最初戸惑っていた。当時、救いはユダヤ人のためという限定的な枠組みがまだ取り払われていなかった。それが取り払われるまでは、少々時間を要した。先週は「神はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めることを望んでおられます」(Ⅱペテロ3:9)というみことばをキーワードに学んだ。私たちも主の恵みと救いを体験したが、もしニネベ的な人々を、悪人だ、かたくなな人たちだ、つきあいたくないと嫌っているだけなら、みことばが言わんとしている恵みと救いの理解に達していないのかもしれない。もし、そうであるならば、ヨナ書を通して私たちは自分の信仰のあり方を問い直さなければならない。

10節を読もう。神は大魚の腹の中でご自身との交わりを求め、心の態度が変化したヨナを陸地にはき出させ、宣教に用いようとされる。ヨナはまだ十分な宣教者とは言えない。心かたくなな部分もまだある。神の恵みと救いについて全部よくわかったわけでもない。けれども神は、このヨナを用いようとされる。このヨナの姿を自分たちとだぶらせて見ることができるだろう。私たちも不完全。信仰者として成長の余地は多分にある。神のお心と聖書の世界に対する理解はまだ乏しい。宣教の対象に対する愛も十分ではない。だがどうにか救われた感謝はある。私たちは上から目線でヨナを分析し、批判することだけに終始すべきではない。私たちもヨナのように不完全で未熟で、神のお心を理解し切れていない。神は現代のヨナのような私たちに、和解の福音を託している。神は不完全な私たちを用いようとされている。そのような私たちに求められているのは、まず「従順」である。

お金と時間を使ってニネベから逃げようとしていたヨナは、次回詳しく学ぶが、ニネベに向かう。「ヨナを陸地に吐き出させた」とある地点からニネベまでは1300キロある。だが彼は向かう。彼は主の召しに、みこころに従おうとしている。私たちは神のなそうとしておられる意味がわからなくて、つぶやいたり不平を言いたくなる。従うことを躊躇する。私たちは、従うことの意味が全部よくわからなくとも、まず従うということである。ヨナにとっては、神がニネベで何をなそうとしておられるのか、なぜそうされるのか、なぜ私でなければならないのか、先々どうなっていくのか、そんなことが全部わからなくとも、まず従うということである。神の主権に服従し、行動に出るということである。私たちは従いたくなかったことに対して従う過程で、ぶつぶつ言っていた自分のまちがいや足りなさ、めそめそしていた不信仰な姿が浮き彫りになってくる。もしかすると、なぜ自分はこの道に従わなければならないのか、謎は解けずわからないままで生涯を閉じる可能性もあるかもしれない。

私たちが従うというとき、多くは国内での領域に関してだろう。ヨナの時代、ヨナのように外国に遣わされる者はまれだった。多くは国内での従順が求められた。ヨナはイスラエル第13代の王ヤロブアム2世の時代の預言者であるが、ヤロブアム2世の時代に、イスラエルは経済的繁栄の絶頂に達したと言われている。しかし、こうした見かけの繁栄とは裏腹に、国内では堕落が進行していて、同時代の預言者アモスによって非難されている。国内では主を求める熱心は失われ、主に逆らう者が多かった。アモスは世俗的になっていた彼らに主のみことばを語った。その内容は厳しかった(アモス書参照)。

神が私たちに求められている従順は、普通は日常の場面、場面に関するものであろう。そして周囲に置かれている人々への証ということであろう。私たちが毎日の生活の中で従順であるために、どのような機会が提供されているだろうか。考えてみよう。また私たちが神に求められている事柄に従順であろうとして、苦痛に感じる生活の領域があるだろうか。できればやりたくない、逃げたいという領域はあるだろうか。けれでも、前回学んだように、より好みの従順であってはならない。新約の民である私たちは、キリストの十字架という犠牲とその恵みのゆえに、生かされ救われていることを従順の原動力としなければならない。この十字架の恵みを従う原動力とし、自分の十字架を負って主に従って行きたい。主は言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)。「自分の十字架を負う」とは、行きたくないところにも行く、したくないこともする、という自発的意志を意味する。それは主のためにである。