喜んでいる、それは心が、たましいが健康な証拠である。「心に不安のある人は沈み」(箴言12:37)というみことばがあるが、不安、思い煩いが心を占めると喜ぶことができない。4節で「いつも主にあって喜びなさい」と言われている。有名なみことばである。これは誰に言われているのだろうか。もちろん、皆さんに言われているわけだが、実はこの命令はもともと、いつも喜べる状況にはない人たちに向けて言われた。まちがったことはしていないはずなのに悪意やねたみや嫌がらせを受けている、そういった人たちに向けて言われている。喜べる時に喜べではなくて、喜べないような時にも喜べと言われている。しかも、これは命令で言われている。しかも、原文を直訳(詳訳)すると「いつも喜び続けなさい」となる。これは不可能だろうか。4節ではさらに「もう一度言います。喜びなさい」と、念を押して、喜ぶように命じられている。

聖書は私たちにできないことを命じる道徳の書ではない。できることを命じている。喜ぶことができる秘訣は、「主にあって」ということばがカギとなる。「主」とは、天地を造り、私たち人間を造り、歴史を支配し、私たちの人生を支配し、人知を越えて私たちの人生を導き、天の御国に救い入れてくださるお方である。この「主にあって」こそいつも喜ぶことができる。喜び続けることができる。「主にあって」ということを原語からわかりやすく述べると、「自分の全存在を主にゆだねるような信頼をもって」となるだろうか。また「主に依存して」ということになるだろうか。多くの人たちの喜びは、環境に左右される。自分のからだの状態に左右される。他人に左右される。物に左右される。それらはすべて不動のものではない。恵みの源でもない。

薬物、ギャンブルなどの依存症からの回復を目指す秋田市の民間自助組織「秋田ダルク」の記事が新聞に掲載されていた。その理事の一人で平原さんという方は17歳の時から20年間、覚せい剤依存症であった。覚せい剤が元で服役する、離婚を経験する、自殺を試みる、それでも止められない。その平原さんはこれまでの経験を振り返って、「誰しもが何かに頼って生きている」とい言い、それが仕事や家庭といった前向きなものなのか、薬やギャンブルなのかの違いに過ぎないと見ている。彼の「誰しもが何かに頼って生きている」ということばは重い。キリストは「わたしにとどまりなさい」と言われた。「わたしに依存しなさい、信頼しなさい」と言い換えることができよう。

ある人たちはお金に依存している。ある母親は貧しかったころ娘に、「人間の幸福はお金じゃない」とか、「お金を欲しがるのは心が汚い証拠」だとか、「金持ちは悪者」とか、金持ちをさげすむことを言って育てた。ところが夫の事業が成功して金回りが良くなると、毛皮、宝石、外車と買いまくる。付き合う相手も、かつては悪者呼ばわりしていた金持ちばかり。娘さんがそこをつつくと母親は、「いつまでもこつこつと努力してきた甲斐があってのことなのよ」と巧妙にさらりと言ってのけたそうである。娘さんはそこに母親の矛盾というものを見た。そして母親のお金に対する本当の意識というものを知った。そして貧しい時の母親の発言というものは、ねたみから来たものであることに気づいた。

ある人たちは人に依存している。前に「共依存」という用語が生まれた。それは家族関係の病理を表わす用語として用いられた。たとえば、母親が子どもを愛という名のもとに支配していく。子どもが生きがいとなって自分の思い通りにコントロールしたい。子どもへの依存である。子どもは母親の期待に沿うようにがんばっていく。学業や就職のみならず、性格や物の考え方、異性とのかかわり方、結婚相手の選択にいたるまで母親の期待通りになっている。母親の意に反する行動をとると罪悪感にさいなまれてしまうという生きづらさを抱え込んでしまい、人生を楽しめない。子どもは親の愛は本物ではないと内心気づきつつ、そして憎しみさえ抱きつつ、その親に依存しないではいられない。こうした関係が「共依存」である。またある人は、自分を過信して自分に依存するかもしれない。しかし、この依存にも限界がある。人はそんなに強くはない。それを素直に認めたほうがいい。

ある人たちは自分の健康状態に依存している。人は誰しもが健康を追い求める。それは当たり前。けれども病気になると同時に喜びも消えるであったらどうだろうか?あるクリスチャンの方は病気になったとき泣いてばかりいた。それを見た未信者の家族が、「聖書に『いつも喜んでいなさい』と書いてあるじゃない」と声をかけた。それが転機になったそうである。

またある人たちは環境に依存している。このピリピ人への手紙には喜びということばが17回使用されていると以前に述べたが、この喜びの命令は、獄中にいるパウロが記したものであることに心を留めたい。彼は獄中にあって喜んでいたので、この手紙が書けた。彼は環境に依存してはいない。新年礼拝で詩編1編を学んだが、水路のそばに植わった木の葉は、熱風吹き荒れる乾いた砂漠にあっても枯れないように、神に根ざし、神を信じる者の喜びは環境が変わっても失われることはない。

私たちが生きていく時にさまざまな事が起きる。悪い事、苦しい事、確かにそれ自体は喜ばしいことではない。それ自体を喜ぶというのは偽善にすぎない。悲しい事は悲しい事でいい。しかし、神の愛を信じ切って、それら起こった出来事が神さまの御許しのもとで起きた出来事であり、神のご計画の一部であることを信じて、つらい事はつらいと告白しつつも、「神さま感謝します」と喜ぶことができる。前に、「喜びと悲しみ」という文章をみつけた。「喜びとは、幸せな気分と同じではありません。私たちは多くのことで幸せな気持ちになれないことがあります。にもかかわらず喜びはなくなりません。なぜなら喜びは、神が私たちを愛しておられることを知っていることからくるからです。私たちは、ともすると、悲しいときは喜ぶことなどできないと考えがちです。しかし神を中心とする人の生活では、悲しみと喜びは同時に存在することが可能です。」

マルチン・ルターは言う。「神のみこころにゆだねることができる人は幸いである。その人は決して不幸にはなりえない。人からいろいろ言われても彼は動じない。『神を愛する人たち、ご計画に従って召された人たちにとって、すべての事が相働きて益となる』ことを知っているからである」。人間の思いを越えた神のご計画があり、それは最善である。今自分の目の前で起こっていることの意味はわからないかもしれない。けれども、神は最善を為しておられ、それらの事も全く益と変えられると信じることができる。

あるクリスチャン夫婦がいた。奥様のほうがひどく衰弱して無期限の入院を申し渡された。ご主人は言った。「どうしてこんな事になったのでしょうか。家内も私も信仰生活に励んできました。どうして今、神は私たちを見捨てられたのでしょうか」。その訴えを聞いていた牧師が話の途中でこう言った。「もし私たちが信仰を持っているが喜べないというのなら、それは神が最善をなしてくださっていることを本当に信頼し、ゆだねていないことになるのではないでしょうか」。この男性は自分の不信頼の態度に気づかされ、神への信頼を回復した。奥様はやがて回復し、お二人は神さまのお取扱いに感謝した。私たちは将来が全く読めなくても、神さまの最善を信じ、ゆだねていくことができる。だから、「神さま感謝します」と喜ぶことができる。

6節では「感謝」が言われている。「・・・あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって」。ある婦人クリスチャンが牧師に悩みを訴えた。「息子が不良息子で家出をしてしまいました。どうしたらよいでしょう」。牧師は、「神に感謝しなさい。息子が不良なことも、家出したことも神に感謝しなさい」。この婦人は、最初は「ええっ!」と思ったそうである。しかし、感謝することを実践して祈った。その後、すべては相働きて益となり、息子さんは戻ってきて、りっぱに立ち直った。感謝するということは、神が最善をもって導いてくださることを信じることであり、人間の思いをはるかに超えた神のご計画に信頼することであり、神が全ての事を相働かせて益としてくださることを信じることである。嬉しいから、楽しいから感謝するのではない。神を信頼するから感謝できるのである。

さて、「喜び」と相反するものに「思い煩い」がある。「何も思い煩わないで・・・」(6節)。「思い煩う」(メリムナオー)の原語の意味は「心を分離する」である。「心がバラバラになってしまうこと」である。心があっちこっちに分散して散らばってしまうわけである。思い煩いは心を不安定にし、喜びを奪い去り、病気の原因も作ると言われている。その病気のリストは、「心臓障害、高血圧、リューマチ、胃潰瘍、感冒、甲状腺の機能減退、関節炎、偏頭痛、視力喪失、それに様々な胃腸障害、また心悸亢進、首の後ろの痛み、消化不良、吐き気、便秘、下痢、めまい、説明できない疲労、不眠症、アレルギー症、一時的な麻痺の原因等」。聖書の中に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」(箴言17:22)とあるが、思い煩いそのものが健康によくない。

「思い煩い」(メムリナオー)ということばは、別の箇所では「心配する」と訳されている。マタイの福音書6章を開いてみよう(6:25,27,28,31,34)。「明日」という時も「あさって」という時も神のご支配の中にあり、神のご計画の中にあり、神が愛する子どもたちのためにすべてを備えてくださる日である。だから私たちは神に感謝し、自分と自分の人生をゆだねていくことができる。

私たちは思い煩うが、それをストップし、感謝をもって祈る。その結果は神のくださる「平安」である(7節)。だから、私たちは6節のみことばを実践しよう。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていだだきなさい」。ここで感謝をもって祈り願うのが「あらゆる場合に」と言われていることを忘れてはならない。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって祈りと願いをささげる時に、7節にあるように、人のすべての考えにまさる神の平安が、私たちの心と思いをキリストにあって守ってくれるのである。

最後に、もう一つの勧めに目を留めたい。実は今日の箇所では三つの命令が記されている。喜ぶこと、思い煩わないで感謝をもって祈り願うこと、そしてもう一つが寛容な心を人に示すことである。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです」(5節)。「寛容」ということばで、愛の章と呼ばれている第一コリント13章4節の「愛は寛容」を思い起こす。しかし、ここでの「寛容」ということばは、第一コリント13章の「寛容」とは別の原語が使用されている。この箇所の「寛容」(エピエイケース)の意味は、「寛大、従順、他人に権利をゆずること、他者に思いやりと優しさを示すこと」である。この美徳を気の知れた人に示すのはやさしい。しかし5節では「すべての人に」と言われている。ピリピ人にとっては、そこに迫害する人々や偽りの教師たちも入っただろう。つまり、敵意をもって自分たちに向かってくる人たちに向かって寛大であれ、というメッセージがここに込められている。そうするなら相手の敵意も和らぐであろう。事実、「寛容」と訳されていることばは、「憎んだり恨んだりすることなしに、冷遇する者や虐待する者たちに対して服従する忍耐」という意味を持っている。この美徳は服従したくない人にも服従させる。この美徳の言及に続いて「主は近いのです」と、キリストの再臨に言及されているが、キリストの再臨の日が裁きの日となる。その日、憎んだり恨んだりしたことによって恥じ入ることにならないように、ということであろう。寛容な心という美徳はキリストご自身が持っておられる徳である。パウロは、ここでキリストに倣うようほのめかしていると言うこともできる。いずれ、反対者たちに反対されてもイライラしたり、短気になって言い返したり、感情的になって争ったりしない生活が勧められている。この「寛容」も、喜ぶこと、感謝することとともに大切なクリスチャンの徳であることを覚えよう。

私たちは自動的に喜んだり、感謝できたり、寛容さを発揮できない。けれども、主にあって喜ぶ、主に対して感謝する、主を覚えて人に寛容であること、主なる神に連なる信仰者はそれができるはずである。どうぞ今年一年も、皆様が主の恵みによって、今日の三つの命令を実践できることを心から願う。主にあって喜び、主に感謝し、人には寛容を示そう。真の意味で主に依存し、主に根ざす時、それは可能となるのである。