今日の箇所はピリピ教会のひとつの不安について記してある。ピリピ教会は以前もお話したように、女性によって支えられていた面がある。そのことはピリピ教会の特色であったとともに弱点でもあった。具体的に言うと、教会内に人間関係のもつれが見られた。ピリピ教会において対立していたのは、ユウオデヤとスントケという女性。この短い節からわかることは、両者とも教会のリーダー核の女性であるということ。有力メンバー。二人とも熱心に主に仕え、福音を広めることにあずかってきたようである。二人とも伝道熱心である。おそらく、この二人は、ピリピ教会の初期のメンバーではないかとも言われている。「安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、<集まった女たちに話した>」(使徒16:13)。パウロが語る福音の最初の聞き手だった女性たちの中に、彼女たちが含まれていた可能性がある。彼女たちは回心してからパウロの働きを助け、ピリピ教会の基礎を築いてきたと思われる。ところが意見の行き違いか、感情のもつれかで対立してしまった。二人とも自分なりの信念をもっているので、自分の方から折れて出るなどということはありそうもない。互いにプライドがあったと思う。互いの間で気まずいことがあった場合、傷口が広がる前に、当事者同士で話し合って解決するというのが原則だが、二人は話し合ったかどうかはわからないが解決せず、それはパウロの耳にまで届いてしまうというところまで発展していた。

彼女たちの不和の原因は、聖書の教理、神学的なものではなく、性格の不一致にあったと述べる人もいる。私もこれと同じようなケースは心当たりがある。まず神学生時代、女子寮がいつももめていた。先輩と後輩の対立、また同学年の学生たちの不和。人間的理由でもめていたように思う。次はかつて私が仕えていた教会の例。教会の中心的存在に二人の女性がいた。その二人のすぐれた奉仕ぶりは誰もが認めていた。一人はその教会の第一号クリスチャンで教会の支柱的存在。もう一人は神学校を出られた方で伝道師の経験もある方。双方とも神に豊かに用いられていた。しかし、ある時から関係がおかしくなった。特に片方の方が距離を置くようになった。きっかけは、ちょっとしたことばの行き違いだったように思う。「あんなことを言うなんて!無神経!」二人ともどちからというと個性派。性格は正反対。片方の方はおおらかで細かいことは気にしない親分肌、もう片方の方は神経が細やかで小さいことに目がいく。思考回路が二人とも違っている感じだった。そのため、理解し合あう難しさが人よりあったと思う。やがて和解に至った。この者は両者に本当に助けられた。

ではこうした対立がほぐれ、和解がもたらされるためにどうしたらいいだろうか。初めに4点、挙げさせていただく。

①    和解できない自分の側の問題をみつめる

反目状態になり、最もらしい口実を見つけて相手を非難し、確かにそれが当たっていたとしても、本当の問題は、その相手と和解できない自分にある。ある女性クリスチャンが、同じ職場で働いているもう一人の女性を気に入らないでいた。「不誠実な人、なんていう人だろう」。ところがある時、彼女は神に示され、「いい感情をもっていませんでした。すみません」と相手に謝りに行った。いい感情をもっていないという相手を愛さない罪を示され、謝った。謝った彼女は、その後、自分の心の中に相手を受け入れるスペースを作ることができただろう。それまでは作れなかった。本当の問題は、あの人、この人ではなく、自分にある。問題の解決は自分にある。考えてみると、神と人間が和解するために先手を取ったのはどちらだったか。神に対して罪を犯した人間であったか。いや、何の罪もなく、謝る必要がなかった神が先手を取った。十字架というへりくだりのポイントまで下られて、身代わりとなり、罪人たちとの和解を成就した。

②    相手を理解することに努める

「何を考えているのか理解できない」と言ってしまうことがあるが、これは理解しようとしていないことの表れでもある。非難しても相手は心を閉ざすだけ。人はどちらかというと、自分が理解されることを求める。けれども相手のことは中途半端にしか理解しようとしない。だが、どうしてあの人は自分と違った考え方をするのか、どうしてあの人はあのような態度に出るのかと、その人の育った環境、人格形成に与えた影響、今置かれている立場、今会っている困難、その人の興味、関心、今の健康状態、と色々考えながら理解する努力に努めることが必要である。

聴き方にも注意が必要である。端的に言ってしまえば、相手の言うことに良く耳を傾けるということだが、これまで数々の仲裁に入った経験からすると、これをしないで自分の主張ばかり通そうとする人が多い。あの人の言う事なんかと最初から聞く耳をもたなかったり、最初の非難の言葉を聞くと、すぐ防御の姿勢になって言い返したり、そうでなくても、今受けている非難に対してどう弁明してやろうか、相手がいかにまちがえているかなどと、そちらばかりに思いがいってしまい、良く聴こうとしない。冷静に聴く耳をもってくれないと分かると、感情のぶつけ合いになるか、相手は怒らせるだけだと口をつぐんでしまうかのどちらか。ある方は次のようにアドバイスしている。「最後まで批判を聞きなさい。途中でさえぎっては、相手の心の中にあることを聞く機会を失ってしまうかもしれません。彼のことばに注意しなさい。全部言い終えたと思われるなら、答える前にそれを確認してください。次のように言ってみたらどうでしょう。『私と分かち合いたいことは、他にありますか。』または『それに気がつきませんでした。あなたがなぜそのように感じたか言ってもらえますか。』彼が言おうとしていることに興味を示し、真心から真剣に意志の疎通を図りなさい」。これは、相手の考え方の同調してしまうことではなく、理解する努力である。相手は自分が理解されていると思えば、心を開いてくれるだろう。そして、自分をもっと理解させてくれる。そして心開かれた者同士、和解が生まれるだろう。アッシジのフランチェスコの有名な祈りがある。「主よ。願わくは、理解されることよりも理解するように努めていけますように」。冷静になって聴く耳をもって理解に努めると、思い込みや誤解、少ない情報から勝手に判断して決めつけていたことがあったこともわかる。そういう場合が非常に多い。真実を知るためにも、早い段階での、こうしたよいコミュニケーションが必要である。

③    相手が十字架の愛で愛されていることを受けとめる

このような例がある。その日は忙しくて、へとへとになっていた教会の役員が、役員会に出席するために、教会へ車を走らせた。教会に着いて役員会が行われている部屋に入ってみると、たった一つの空いている席が、その人の嫌いな男の人の隣の席。その人がやむなく座って議事に耳を傾けている時、不思議なことが起こった。その人の心の中で一つの会話が始まった。「神さまがあなたを愛していらっしゃると信じますか。ええ、そうです。あなたが罪を犯して赦しをお願いするとき、神さまは赦してくださると信じますか。はい、神さまはそうしてくださると知っています。あなたは、神さまがこの人を愛していらっしゃると思いますか。・・・一息入れてしぶしぶ・・・はい。では、あなたがこの男の人を愛していないのはどういうことですか」。その時、この人はハッと気づいた。同じ愛されている神の子どもとして、その人を愛すべきであって、軽蔑すべきではないと。この気づきが大事。主の祈りに「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」とあるが、この祈りは互いに神に愛され、赦されている者同士として、お互いにまちがいや欠点があっても、赦し合い、愛し合うことを教えている。神の私たちへの愛は十字架で示された。この十字架の愛が一致の土台である。

④    キリストのからだという教会全体の健康を考える

私たちは自分におもしろくないことが起こると、自分が非難されたとか、誤解されたとか、自分に関心が集中して、教会全体のことを考える視野を失ってしまう。パウロはすでに教会の一致について語ってきた(1章27節,2章1~2節)。パウロは、不一致は、福音の前進、教会の前進を阻むことを知っていた。だからパウロは、ピリピのクリスチャンたちに対極的な物の見方、考え方を願っている。不一致とか不和は当事者間の問題だけでは終わらない。それが続けば、究極的には教会のかしらであるキリストの御名があがめられなくなる。

ある教会での事例だが、ある役員が旅先から教会にチョコレートを送ってきた。牧師はそれを受け取って感謝して食べた。役員が旅先から戻って来て、「先生、あのチョコレートは?」「感謝して家族でいただきました。」「えっ、あれは先生にじゃなくて、役員会で食べようと思って送ったんですよ」。このチョコレート問題で役員会はもめにもめ、役員総辞職にまで発展した。またある教会は、会堂建設の時に、スリッパ履きにするか土足にするかを巡って、教会が二つに割れてしまった。我の強い頑張り屋さんがいると、このようになる。その事は私にとって大きな問題だというような事でも、自分の感情を沈めて、教会全体を視野に入れなければならない。互いに非難し合っている時、その教会の不和の状態を見てほくそえんでいるのは悪魔である。悪魔は神の民が互いにいがみ合い、教会のムードが悪くなり、一致を失いバラバラになり、衰退することを喜ぶ。そのためだったら、チョコレートでも、スリッパでも、人のことばじりでも何でも用いる。

宣教ということを考えたときに、この一致は本当に大切である。もし、教会内で絶えず荒げた口論や、非難や、いがみ合い、裁き合いがあるならば、神はそのような雰囲気の教会にたましいを安心して送れるだろうか。いや、送れない。また主イエスは言われた。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13章35節)。一致が宣教の土台である。

次に、和解の務めということを考えよう(3節)。パウロはここで「真の協力者よ」(個人名の可能性)と、他のクリスチャンに和解の務めを依頼している。二人の婦人の一致、和解のために仲裁に入ってくれるように頼んでいる。この働きは「ピースメイキング」(平和をつくること、和解をもたらすこと)という言い方もされる。その反対はピースブレイキングとなろうか。こちらは関係を壊す方、関係をややこしくしてしまう働き。そして教会全体へとひび割れを広げていく。「あの人はね。実はね。前にあなたのことについて、こんなことを言ったのよ。きっとあの人、こんな気持ちで言ったに決まっているわ。」そして部外者の人のところにも言ってゴシップをまき散らす。口から毒をまき散らしているわけである。

ある求道者の女性がH教会に行っていた。その教会で、その女性は、ささいな事から老婦人の気に障る事をして、その婦人と婦人の友達に冷遇されるようになった。そして、次の礼拝の時、その婦人が大声で、「あんた、教会に来んといて。あんたが来たら、神様が悲しむ」と言った。帰り道、彼女は、ただただ涙が溢れ出て、思わず、「こんな教会、二度と来るもんか」とつぶやいてしまった。そのつぶやきを一人の信徒が聞いていて、その婦人に告げ口をした。それから、関係がさらにおかしくなった。しばらくして、この女性は謝罪しようと再び教会を訪れたが、中に入ったとたん、「帰ってくれる」と追い返されてしまった。彼女は死にたいくらいのショックを受けたようである。その三か月後、彼女は別の教会に導かれた。バプテスマを受け半年程、中学生クラスの教師として奉仕をしていた。ところがある日、以前の教会でケンカとなった婦人の友人が来て、彼女は前の教会ではこうだったのよと、教会の婦人たちに言いふらした。それ以来、彼女は教会の婦人たちに変な目で見られるようになり、その教会にも行けなくなった。これなど、ピースメイキングではなくピースブレイキングのいい例である。そこに赦しはなく、あるのは非難、つぶし、である。

では最後に、和解の務めのポイントを二つ挙げさせていただく。

①    裁かない心と冷静な判断力

「裁かない心」というのは、悪を黙認していいというのではなく、愛のない裁きの心をもたないということ。ユウオデヤの味方になってスントケを裁いていた人がいたかもしれないし、スントケの味方になってユウオデヤを裁いていた人がいたかもしれない。また、二人を裁いていた人がいたかもしれない。裁く心の人は仲立ちの資格はない。「冷静な判断力」というのは、まず正しい情報を得ることから始まる。片寄った情報でせっかちに判断してしまうことが多いが、そうであってはならない。両者の話を良く聴いて、情報収集をきちんとした後、公平な立場から、感情に流されないで分析し、祈りつつ和解の道を探るのである。

②    愛をもって真理を語る

裁いてはいけないということで、極端になり、まちがいを指摘しなかったり、黙認してしまうことがある。すなわち真理を語らずに終わる。反対に、正しいことを語り、まちがいを指摘しているのだけれども、それが、裁きの心から出ていることがある。つまり、愛の欠如である。これもよくあること。どちらもいけない。

神学生時代、ある女性教師と学生たちの間で対立が生じ、関係が悪化した。私だけがなぜか対立の構図から外れていた。ある学生は大きな精神的ダメージを受けた。その学生は真っ正直で折れない性格の持ち主だったが、それが裏目に出て、攻撃の矢面に立たせられた。女性教師の方も悩んでいた。性格的には物事を決めつけ攻撃的になりやすいタイプだった。学生たちは、私たちのことを簡単に決めつけて非難しないで、もっと客観的に判断して欲しいという思いでいた。男子学生たちも女子学生たちも不快な思いでいた。学生会を開いて、学生の間でこの問題を討論した。ところが、問題対処について意見が二つに分かれた。一つは、「このまま教師と話し合いをしないで黙っていても問題の解決はないし、悪化するばかりだ。その教師に私たちが思っていることを告げ、話し合うべきだ」。本当に、そうだと思った。もう一つの意見は、「今、その教師に言うべきではない。少なからず生徒の側に教師を裁く心を感じる。語る精神が悪くて、何を語っても本当の解決にはならない」。これも本当にそうだと思った。そして、具体的な動きがないまま日数だけが過ぎていった。先の学生はとうとう寝込み、授業にも出られない精神状態になってしまった。人間が変わってしまったようで、怒りを心に溜め込み、その教師を赦せない感情に満たされてしまった。一方、その教師の方は、学生たちとの食事の時間に姿を見せなくなってしまった。食事が喉を通らない精神状態になってしまった。この局面において、学院長が仲介に入った。問題の当事者、関係者たちを呼び、双方の話を良く聞き、そして、それらの人たちに愛をもって真理を語り、当事者たちの心は低められ、和らげられ、和解がもたらされた。学院長は問題に振り回されずに、実に沈着冷静に問題を受けとめ、双方を呼び、裁かす諭し、解決に導いた。当事者たちに表情が戻り、良い関係に変わった。今、その学生はOMFの宣教師として、すばらしい働きをされている。めでたし、めでたし。

平和をつくる人は「ピースメーカー」と呼ばれるが、主イエスは言われた。「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5章9節)。キリストの十字架を仰ぐ者は、神と人との間の平和、人と人との平和を求め、それを身近なところから始めるだろう。また教会において実践するだろう。主は神と人との和解とともに、人と人との間に和解があることを望んでおられる。ユダヤ人、異邦人がともに共同相続人となること、互いにキリストの愛されている者同士として和解していくこと、一人ひとりが神の家族に組み入れられ、キリストの愛を行き交わしあいながら生きること、主はそのような愛の共同体を望んでおられる。 私たち一人一人が主の十字架を仰ぎ、ピースメーカーとなろう。