パウロは今日の箇所で「十字架の敵」ということばを使用している。(18節)。パウロは十字架の敵が少数ではなく「多くの人々が」と言って、「涙をもって」残念がっている。喜びの手紙と呼ばれるピリピ人への手紙にあって、「涙をもって」と言うことばによって、多くいる「十字架の敵」がいかに問題なのかがわかる。現代も「十字架の敵」は多くいるわけである。

17節 パウロは自分を見倣うように勧めているが、それは「十字架の敵」を意識してのことである。パウロが見倣ってほしかったことは、十字架の意味を正しくとらえキリストに仕えようとしている自分の信仰、生き様。パウロはピリピ教会の人々が十字架の敵として歩んでいる者たちに見倣ってほしくなかったわけである。

18節 「十字架の敵」と呼ばれる人々の教えと生き方はキリストを侮辱していた。私たち罪人はどんなにもがき苦しんでも、善行に励んでも、犯した罪の一つも消えはしないし、それはそのままでは赦されない。キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架についてくださらなければ、罪は赦されることも、消し去られることも、また罪から自由にされ、新しいいのちの力で生きることもできなかった。しかし、十字架の敵は罪も罪の力も軽んじ、結果、キリストの十字架も軽んじた。。キリストが十字架で苦しんでくださったその意味をはっきり知るパウロにとって、キリストの十字架が軽んじられ、侮辱されているという事実は涙せずにいられないほどであった。パウロの涙はキリストと心を一つにした涙であっただろう。何のためにキリストが十字架についたと思っているんだと。

19節 「十字架の敵」とはどのような人々のことを指すのだろうか。もう少し詳しく見ていこう。「十字架の敵」の最後は「滅び」と言われている。救いでもいのちでもない。彼らの神は「彼らの欲望」と言われている。神ということばを口に出しても、なんのかんの言っても、欲望にひざまづき仕えていると言うのである。彼らの栄光は「彼ら自身の恥」である。つまりは欲望に仕えている限り、神からの栄誉は与えられないということ。彼らの思いは「地上のことだけ」である。地上に思いがへばりついている。肉の欲、目の欲、名誉心、そうした地上のことだけになっている。罪を肯定してしまっている。

実際、彼らがどのような人々であったのかは二つの説がある。一つはユダヤ主義者たち(律法主義者たち)。彼らはキリストを信じることプラス律法を守ることを強要したと思われる。彼らは、救いはただ十字架にありという基礎をなし崩しにする人々である。ガラテヤ人への手紙ではこの問題が詳しく取り扱われている。パウロはこう言っている。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」(3:1)。パウロはこの手紙で結論的に、律法主義者たちは肉的なものを誇り十字架を恥とする人々であると知って、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(6:14)と命じている。パウロはピリピ3章に入ると、明らかに、割礼を誇り、その他人間的なものを誇りと、肉的なものを誇りにしているユダヤ主義者たちを意識している。見た目はりっぱさを装い自分を義としているが、内実は、傲慢で、ナルシシストで、ねたみ、そねみ、悪意を持ち、欲望に満ちている。2節で彼らは「犬」と呼ばれている。その流れで7,8節では、人間的なものはキリストと比較するならば「ちりあくた」(糞)にすぎないと明言している。パウロは十字架ではなく肉を誇る律法主義は、救いをもたらさないだけではなく、結局は肉の欲望に何の効き目もないことも知っていた。それに対処できるのは十字架だけである。

自他共にすばらしいクリスチャンと認めているAさんという婦人の方がいた。この方の夫は暴君で、長い間、暴君的夫の仕打ちに耐え、忍従しながら子どもたちを守り育ててきたそうである。普通なら夫に対して敵意、反発、憎悪、怒りを表面化しても当然と思われるが、それをよい子になるという努力によって抑え続けてきた。そして、自分はこんな酷い夫でも愛しているという自覚しかない。意識の表面においては憎しみに気づいておらず「憎むなんてとんでもない」と思っていた。そして、無意識的に心の奥底に隠されている憎しみを見まいとしていた。神の前によい子であろうとする自我のわざの信仰。よい子であることによって神に認めてもらおうとする自己追求の霊性がそこに隠されていた。律法主義と言ってもよい。宗教改革者のマルチン・ルターは、自分がもつ、この偽りの霊性、信仰に気づいた人である。どんなに敬虔なわざをなそうと、そのわざによって神の前に立ち尽くすことはできないと。結局、自分は自分自身を追及しているだけであり、自分自身にしがみついているにすぎないと。彼はその内面において、神ではなく自分を選んでいることに気づいた。彼は神を愛することができないばかりか、憎しみさえ抱いていた。そんな彼は、やがてキリストの十字架に立ち返り、十字架にだけすがる身となる。さて、先の婦人は、自分の偽りの信仰、自我のわざの信仰がくずれていった時、自分でもぞっとするような恐ろしい夢を見た。「ある夜、自分の家の畳を上げて、その床下に一人の男の死骸を埋める夢だった」。実は、彼女は自分の中に抑圧されていた夫に対する憎しみを自覚しつつあった時、この夢を見た。彼女に欠けていたのは、罪を大胆に告白し、それからのがれようとしないこと。自分で自分を義としないこと。あるがままの罪人であること。繰り返し罪人になること。十字架にすがること。そこにキリストの高価な恵みである赦しが約束され、キリストの御霊による真の自由、キリストへの真の服従が始まる。

「十字架の敵」の説の二つ目は、道徳超越主義者である。すなわち、不道徳を肯定し、不道徳に目をつむる人たちのことである。文脈から言って「十字架の敵」にユダヤ主義者たちが入るのはまちがいないが、道徳超越主義者も「十字架の敵」であることにはまちがいない。当時も色々なタイプの「十字架の敵」がいたであろう。道徳超越主義者は、キリストによって救われたのだから道徳的責任から解放されたと言って、不道徳に走る。これもキリストの十字架によって与えられる高価な恵みをだいなしにしてしまう。ディードリッヒ・ボンヘッファーというドイツの牧師がいた。彼は第二次世界大戦の中、多くのクリスチャンたちがヒトラーに服従する中にあって、キリストに従う道を選び、投獄される。そして39才の若さで処刑される。彼は「キリストに従う」という名著を著すが、彼はそこで「安価な恵み」(安っぽい恵み)という表現をとって、現代の教会に警告を与えた。一文を紹介すると・・・「この安価な恵みを肯定する者は、自分の罪の赦しを手に入れている。この恵みの教説を奉じる教会は、それによってすでに恵みにあずかっている。このような教会にこの世が見いだすものは、教会の罪の安価な隠蔽であるが、教会はその罪を悔いることはないし、またそれから自由になりたいという願いは毛頭いだかない。・・・安価な恵みとは罪の義認であって罪人の義認ではない。・・・安価な恵みは悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な罪の告白抜きの謝罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた、人となりたもうたイエス・キリスト不在の恵みである」と述べている。砕いて言うと、キリストを信じたのだからもう罪は赦された、またこれからも赦されると言って、なお罪の中にとどまり続けること。欲望のままに罪を犯しても大丈夫、永遠のいのちという死後の保険は下りる、そう言って、この世の人となんら変わりなく生活し、キリストへの服従の姿勢は見られない。そうであるならば、その恵みは神が与えた恵みではない。神が与える恵み(ボンヘッファーはそれを高価な恵みと呼ぶが)は、キリストへの服従へと導くということである。現代も安価な恵みは売りつけられている。キリストをだしにして、自分の欲望を肯定して生きることを許している。得る、得するという自己追求の自己中心的な霊性を許し、キリストへの服従を妨げている。キリスト教国と言われるアメリカでは、99パーセントの人が自分は死んだら天国に行けると思っているそうである。何を根拠にそう言えるのか?神の名を口にする人々の多くも、その生活はこの世の人々と変わりない。パウロは、血筋、経歴、財産、地位、名声、世と世に属するものをキリストと比較したら糞にすぎないとみなしたが、そういう精神とはほど遠いのではないか?

「十字架の敵」は当時どういう人たちであったか詳細はわからないが、いずれにしろ異教徒ではなく、おそらく自分たちはクリスチャンであることを告白していた人々であろうと思われている。だけれども「敵」と言われているので、新生(生まれ変わり)を体験していない人たち。だから性質(たち)が悪い。彼らはキリストの十字架の死を無意味にするような人たち。キリストをだしに生きているような人たちで、本音はキリストのことなどどうでもいい。自分たちの欲望が満たされれば。

では、「キリストの十字架の敵」ではない、本物のクリスチャンたちはどうだろうか?悔い改めと信仰に生きるだろう。神の恵みを恵みとして、キリストを知ること、キリストと似ること、キリストにある成長を求めるだろう。そしてキリストご自身を求めるだろう。キリストをだしに幸福になろうなどとは考えない。キリストご自身を切に待ち望むだろう。

20節 生まれ変わっていない「十字架の敵」の思いは地上にへばりついている。しかし、しかし、そうでない者の思いは天に向けられ、またそこから再びおいでになるイエス・キリストに向けられる。お会いし、霊的合一に達したいと切望する。「私たちの国籍は天にあります」は明確に生まれ変わった者に適用される。イエスさまはニコデモとの会話で、「まことに、あなたがたに告げます。人は新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることができません」(ヨハネ3:3)と言われたが、「新しく生まれ変わらなければ」の別訳は、「上から生まれ変わらなければ」である。上から、つまり、クリスチャンは、本当に天上に国籍をもつということである。そこからキリストが救い主としておいでになることを待ち望む。

前回(3:1~16)で述べたように、パウロがもつ高尚な目的は、キリストを人格的にさらに知っていくこと。キリストに似た者となること、すなわちキリストにふさわしい者となること。キリストとの全き霊的合一。彼が求めたのはキリスト。キリストをだしにして幸福になろうなどという考えはない。彼はキリストそのものを求めた。この願いが全く満たされるのは、キリストの再臨の時。その時、私たちはキリストをはっきりと知り、顔と顔とを合いまみえ、そしてキリストに似た者へと変えられる。

21節 この節の理解のために、参照として第一ヨハネ3章1~3節を開こう。ただひたすらにキリストを愛し、キリストを求める人は、聖さを追い求め、キリストにお会いする備えをするだろう。女性はそれなりの人と会う時は化粧をするだろう。男性も一応、身支度をきちんとする。ある女性は、夫のために、毎日パーマ屋さんに行くと言う。夫が喜んでくれるなら、一回5000円程度のパーマ代も惜しくはないと言う。すごいものである。私たちがキリストに会うとなれば、意識してキリストにふさわしい者となるべく、当然、聖さを追い求めるだろう。それを追い求めないとするならば、その人は、キリストを通して、何かを得る、得するといった、そんなことに関心が向いているだけ。だが、キリストにふさわしい者になりたい、すなわち、キリストに似た者となりたいと願っている者たちは、再臨の時、その願いが満たされることになる。

「私たちの卑しいからだ」とは、朽ちる肉体という意味だけで言われているのではない。卑しき行為を生み出すからだ、罪を犯す可能性のあるからだ、という意味もある。それは欲望に負けやすいからだである。そのからだが、キリスト再臨の時、キリストの栄光のからだと同じ姿に変えられる。キリストを知り、キリストに似た者となりたいという願いが、この時、完全に満たされる。また「栄光のからだ」も、朽ちない肉体のことだけが言われているのではない。ヘブル思想において<からだ>とは、単に肉体のことだけを指すのではなく、肉体を含めた、その人の全存在を指し、その人自身のことを言う。だから、キリストの栄光のからだと同じくなるというのは、その人自身がキリストのように聖くなり、罪を犯す可能性もなくなってしまうということを意味する。その姿でキリストと親密に交わるという恵みに、やがて与る。私たちは、滑り込みセーフで天国の端っこに引っかかればいい、そういう願いから前進して、キリストの花嫁としてキリストにあいまみえることを、本当に願いたいと思う。

キリストとの最高の出会い、キリストとの全き霊的合一はキリストの再臨によって訪れるので、私たちはキリストの再臨を待ち望むのである。20節の「待ち望む」ということばは、「熱心に待つ」という意味のことばが使用されている。熱望するという意味である。皆さんは何を熱望しておられるだろうか?キリストの再臨はその中に入っているだろうか?ある人は、現代のクリスチャンは、キリストの再臨に対する熱心さが失われているとして、次の理由を挙げる。「クリスチャンがこの世できわめて快適な生活をしているため、彼らはこの世を去りたいとはほとんど思っていないのである」。これは19節の「彼らの神は・・・地上のことだけです」というみことばに合い通ずる。ある人は快適な生活を願って天の御国を熱望するかもしれない。しかし多くの人はキリストを抜きにして天の御国を熱望している。これは矛盾である。天の御国とはキリストの臨在の中にあるのだから。私たちはキリストを、キリストの再臨を待ち望みたい。初代教会のクリスチャンの合言葉であり、主への祈りであったことばは、「マラナタ」(私たちの主よ、来てください)である。私たちも彼らと心を一つにして、「マラナタ」と、キリストの再臨を待望したい。