今朝、新しい年の初めにご一緒に味わいたい箇所は、天の香りに満ちた祝福の世界への入口、黄金のゲイトと言っても過言ではない詩編第一編である。この詩編は私たちを本当の幸いへと招いている。この詩編は「幸いなことよ」で始まる。1節の「幸いなことよ」の「幸い」とは私たちの気分の問題ではなく、神の見地から見ての幸せについて言われている。まず著者は「幸い」の消極面をあげている(1節)。ここでは三種類の人が取り上げられている。最初の「悪者」とは、法律を破った犯罪人という狭い意味で言われているのではなくて、「神さまに従わない人」という意味である。神さまを認めたくない、従いたくない、そう言って、この世的な価値観で生きている人のことである。だから、そんなに特別な人ではない。どこにでもいるような普通の人。続く「罪人」も犯罪人のことではない。「道を外れている人」という意味がある。キリストは言われた。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13,14)。罪人の道とは滅びに至る広い道である。みんなが渡ってしまいやすいような道。神さまが赤信号を出していてもみんなで渡ってしまうような道である。この道を歩いている人は、私たちの周りにあふれている。ソロモン王は言う。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その終わりは死である」(箴言14:12)。最後の「あざける者」とは、神さまの前に高ぶって、自分を神さまのようにしている人のこと。現代の人間観は、「宇宙にあるすべてのものは神の性質を宿しており、人間も神の一部である。人間の本質は神である。人間は生まれながらにして神の子である。あなたも神のようになれる。罪などというキリスト教に伝統的概念は無視せよ。人間の本質は善であり、罪は弱さに過ぎない。気にせず、神のようになれ」。これは実に傲慢な人間観であると思う。悪魔が蛇の姿で、禁断の実を指してエバを誘ったときの言葉をご存知だろう。「これを食べれば、あなたの目は開かれる。あなたは神のようになれる」。しかし、実際はなれないどころが、死のさばきを被ることになる。この誘惑の本質は今も変わっていない。

悪者、罪人、あざける者の末路は、死のさばき、しかも永遠の滅びである。詩編の作者は、彼らの巧妙な誘いに乗らないように注意を与えている。彼らの話が魅力的に思えても、法律的に何の問題がなくても、一見、常識的に思えても、それに乗ってはならない。「悪者のはかりごと」の「はかりごと」には「助言」という意味の言葉が使用されている。だからここを別訳すると、「神に従わない人の助言に歩まず」となろう。その助言はもちろん、みことばに反した助言にすぎない。そのような助言を受け入れ、どれだけ多くの人が痛手を負っているだろうか?

次に「幸い」の積極面を見よう(2節)。主の教えが喜びとなって、主の教えにとどまる人は幸いである。さて、ここでは、昼も夜も主の教えを口ずさむことが奨励されている。新しい年の初めに、私が皆様に強調したいポイントはこれである。何となく心に闇が忍び込んでくる、喜びがなくなってくる、心が硬直化してきている、冷めてきている、そんな経験を皆さまもお持ちだろう。だからこそ、昼も夜も主の教えを口ずさむのである。これは具体的にどうすることだろうか。それは主との交わりということにカギがある。「みことばと祈りの時」を持つことがクリスチャンには奨励される。みことばは主の愛の声である。祈りというのも一方的に何かを話す時ではなく、愛の声に耳を傾ける時である。それは、「神は愛です」と言われているところの神との交わりである。神との交わりを通し、私たちのたましいがリフレッシュされるのである。愛の神との交わりならば、それは苦手な勉強やスポーツと同等のものと思う必要はない。愛の神との交わりならば、それは苦痛ではなく喜びのはずである。自分を最も愛してくれているお方がいて、そのお方といつでも人格的に交われるというのは特権だと気づく。祈りは本質的に、愛の神との交わりであることに気づこう。

この交わりを通してみことばを口ずさむ。「口ずさむ」という言葉の意味は、「黙想する、静かに思う」である。また、ある人は、これを「かむ」と訳した。何度も何度もかむことによって、その教えが自分のものとなるわけである。主の御声を良く味わいながら繰り返し聞くことによって、心の中に主の愛の声が広がり、それが反響していくのである。こうした経験は、この者も昨年させていただいた。

ある方の実例をあげてみよう。「私は、長い間、次のことを祈ってきました。『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせてくださいます』。私は朝30分、椅子に座って祈り、ただ自分が唱えている内容に心を向けさせるようにしました。私はまた、あちこちと動き回っている日であっても、さまざまな時にこれを祈りましたし、毎日の決まりきった最中の中でも祈りました。これらの言葉は、私の落ち着かない現状とは対照的に、しっかりとして揺るぎません。・・・・「主は私の羊飼い」を唱えさえすれば、そして羊飼いとしての神の愛を、心にもっとあふれるように迎え入れさえすれば、次のことがはっきり見えてきます。忙しい道路、醜い商店街、汚れた川の流れは、私という存在の真実を伝えてはいないと。私はこの世を支配する力や霊力に属してはおらず、自分の羊のことを良く知り、羊にもよく知られているすばらしい羊飼いに属しているのです。私の主であり、私の羊飼いのおられるところには、本当に何一つ欠けるものはありません。その羊飼いイエスは、私が心から願っている安らぎを私に与えてくださり、落胆という暗い穴から私を引出してくださいます。」(ヘンリー・ナウエン)。この実例のように、みことばを口ずさむ人、黙想する人は幸いである。

黙想するに至るみことばは聖書に満ち溢れている。聖書を読んでいる中で特に心に留まったみことばに印をつけ、心の中で練りはむと良い。自分と主の関係が確認でき、信仰が励まされ、主の愛の声に導かれていく。

では次に、主の教えを喜びとする人と悪者の報いに違いについて見てみよう。主の教えを喜びとする人は、良く実のなる木に象徴されている(3節)。この木は、一見、乾いた土地、不毛に見える土地に植えられている。熱い風が吹き付けているかもしれない。しかし、この木の根は地下に深く張り、豊かな水量の流れに達し、その豊かな流れから滋養分を吸い上げて、葉は青々と生い茂っている。一見、枯れても当然のような環境の中にあって。この比喩は私たちの心に何かを訴えかける。

第二次世界大戦の終わり頃、中国に渡っていた一組の宣教師夫妻は、この木の状態を文字通り体験した。中国は共産主義の体制下に入った。それからの2年間、彼らは、一人娘とともに小部屋で生活をした。家財道具は背もたれのない腰掛一脚だけ。そしてクリスチャンの友人たちとはコンタクトの取れない状況。財源もストップ。暖も満足に取れない。夕食のために焼き飯を作るのに、一日一回、小さなストーブを焚く、それだけ。燃料といったら、道から拾い集めてくる動物のふんのようなものだけ。まさしく彼らは、乾いた環境に置かれてしまった。後に彼らは本国に帰り、窮乏状態にあった時の神の恵みを文章に残した。そのタイトルは「日照りの季節の青葉」である。なぜ彼らがこのような証を残せたかと言うのなら、主の教えを喜びとしていたからである。彼らは乾いた環境にあっても枯れることなく、御霊の実を結ぶことができたからである。

聖書は、主の教えを喜びとしているのなら、目に見える結果はすべてハッピーというような、単純で現世的な言い方はしない。もっと奥深い表現をとっている。試練の中にあって生活が支えられるというのは確かである。そして物質的繁栄というよりも霊的繁栄に主眼が置かれている。「その人は、何をしても栄える」の「栄える」という言葉は、時と場所にかなった言葉を語り、行うという意味が込められている。この場合「栄える」とは、言葉と行いが神によって祝福されるという意味であろう。それは主の御栄えを映し出す生活と言って良いだろう。私たちは環境にだけ目を奪われているなら、喜びはなくなり、霊的に枯れてきてしまうだろう。自分の力で何かを為そうと思っても神のために実は結べない。新約聖書を見るならば、キリストがぶどうの木にとたとえられていて、私たちはぶどうの木の枝にたとえられている(ヨハネ15章)。「わたしにとどまりなさい」とキリストは言われた。それは実を結ぶためである。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(15:4)。またこうも言われた。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(15:5)。「何もすることができないのです」というのは、神のために実を結べないということ。ローマ7章4節にはこうある。「すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」。私たちが主と主のみことばから離れるなら実を結べず、霊的繁栄はない。けれども、主と主のみことばに結び合わされ、とどまるなら、どういう環境かによらず、それはもたらされる。

主の教えを喜びとしない人、悪者は、「もみがら」に象徴されている(4節)。脱穀の時に飛ばされるもみがらは、神のさばきの時の悪者をみごとに表している。当時、脱穀には、動物やそりなどが用いられた。穀粒がはじき出されると、農夫は、木のフォークやシャベルなどを使って、それを空中に放り投げる。するともみがらは風に吹き飛ばされ、重い穀粒は床に落ちた。神のさばきという選別の日、悪者は空っぽで無価値なもみがらとして、飛ばされ、焼かれてしまうのである。なんというみじめな結末であろうか。悪者とは最初に述べたように特別な人ではない。それは、神に従わない人であり、みことばには目もくれない人たちと言うこともできよう。

主のみことばはいのちのことばである。私たちは、この新しい年も、主との交わりのうちに、主の教えを喜びとし、みことばに生かされ、みことばに導かれて歩んでいきたい。時代の潮流は常にみことばに逆行してきた。昨年も様々な分野で活躍している著名人のことばを聞き、また活字にされたものを読んだが、なんとみことばから離れた意見、主張が多かったことだろうか?惑わしの教えも多い。私たちはみことばによって客観的に世界と自分を見ることができないと、いつの間にか、この世にからみとられてしまう。この新しい年も、どのような状況下に置かれても、みことばに聴き、それをかみしめ、心に浸透させ、主に寄り頼み、水路のそばに植わった木のような者たちでありたい、実を結ぶ者たちでありたいと思う。