「キリストとの霊的合一」  ピリピ3:1~16

 

私たちは、キリストの御姿、キリストの救いのみわざ、その愛を聖書から教えられ、キリストのすばらしさを知る者とされた。そしてキリストが我が喜び、我が命、我が宝と呼べる者とされた。先週はクリスマス礼拝をおささげしたが、16世紀のクリスマスの歌に、次のような歌詞がある。

イエスこそ私の宝、イエスこそ私の命、イエスはご自分をささげられた。

イエスは常に私の前にお姿を示されます。

イエスこそ私の喜び、イエスは私の心と思いを生かしてくださいます。

イエスよ、あなたは私の最愛の命、私のたましいの花婿。

おいでください、私は喜んであなたを抱きしめます。

私の心はあなたを離しはしません。

あなたは私のためにその身を苦しい十字架の木の上でささげられました。

ああ、どうか私をあなたのものとしてください。

死の床にあっても、あなたは私の最愛のお方です。

苦難と危険と困難の中にあって、私はあなたを慕い求めます。

イエスよ、たとい私が死んでも、私は滅びはしないことを知っています。

あなたのお名前が、私の中に刻まれています。

その名は死の恐れを追い払ってくださいます。

 

私たちもこのような告白をもって、キリストに従いえたら幸いである。さて、当時、外面的儀式を重んじ、キリストの十字架の救いに反対し、キリストを見失わせようとしていた人たちがいた。ユダヤ主義の教えを奉じる人たち。パウロによって彼らは「犬」と呼ばれている(2節)。この犬は野良犬のこと。ライトフットという学者は、「犬とは、東方の町々をうろつき回っている宿なしで、飼い主がおらず、道路に置かれた余り物や屑物でお腹を満たし、互いにけんかし合ったり、通行人に襲いかかったりするものである」と述べている。ここで犬と言われている人たちは、人間的なものを誇りとし、キリストを誇ることはない、偽りの教えを奉じる人たち。実は、パウロもかつては彼らのように、人間的なものを誇りとしていたわけである。

パウロは5~6節で、彼がかつて誇っていた人間的なものを7つ挙げている(先週、簡単に学んだ)。①「八日目の割礼」~2節のほうでは「肉体だけの割礼」と言われている。これは血統を誇るユダヤ人が非常に強調していたもの。②「イスラエル民族」~ここでは自分はユダヤ教改宗者ではなく、もともと神の愛顧を受けている選ばれた民であるという誇り。③「ベニヤミンの分かれの者」~ベニヤミン部族はイスラエル部族の中のエリート。十二部族の中できわだって優秀な部族。ベニヤミンの子孫のモルデカイは、エステル記に詳述されているように、イスラエル民族を滅亡の危機から救った立役者。この部族からイスラエルの初代の王サウル(サウロ)が出たが、パウロ(ヘブル名サウロ)の名前はこの王様からとられている。彼は誇れる家系から生まれた。④「きっすいのヘブル人」~直訳は「ヘブル人のヘブル人」。混血ではないという純粋な血統が強調されている。今述べてきた4つは、生まれながらにして持っていた特権。⑤「律法についてはパリサイ人。パリサイ派は、ユダヤ教の中で最も伝統的学派で、律法を厳密に解釈し、厳格に守る正統派だった。使徒22章3節から、彼は当時名高いガマリエルという教師から学んだことがわかるが、彼は抜群の頭脳を持ち、名門の出であり、誇れる学派に属していた。⑥「その熱心は教会を迫害したほど」~つまり、彼は誇れるパリサイ派の中でも熱心の最右翼のような存在(使徒22:3,4)。⑦「律法による義についてならば非難されるところのない者」~厳格に律法を守り、律法の行いとしては非の打ちどころがないように努めてきた。また彼はローマの市民権をもっていた。当時のローマ帝国はピラミッド社会で、最下層には奴隷が来るのだが、ローマ市民権をもつ者はピラミッドの上部に位置し、様々な優遇を得ていた。人はこの市民権をお金を払って買ったりもしたが、パウロは生まれながらにこの市民権を持っていた。この市民権を持っているということは、彼の家は格式高く裕福であることを暗示させる。先週お話ししたので繰り返さないが、彼は何一つ申し分がない、人がうらやむ存在。血筋、家柄、富、名誉、地位、教養、厳格な生き方、何一つ不足がない。こんなに条件が整った人物はめったにいない。

けれども、そのような彼が、これまで誇っていた人間的なものが、「排泄物、糞」に思えるくらい、すばらしい方と出会った(7,8節)。彼の価値観は一変してしまった。ある方が教会に初めて行った時、マタイ7章5節の「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはなりません」のみことばからメッセージを聞いた。「あなたがたは今、宝の山に入っている。物の価値がわからぬ犬や豚ではあるまい。手ぶらで帰ってはならない」。この方は、以後、続けて求道し、ついには、その宝であるイエス・キリストを信じた。パウロはコロサイ2章3節では「キリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されている」と言っている。

私たちは宝探しをしてキリストと出会った。でも、もうそこで終わりではない。その価値に完全に目覚めたわけではない。キリストを人格的にもっと知っていきたい。私たちがさらにキリストを知るには二つのことをしなければならない。一つは、祈りとみことばによって、キリストとの人格的交わりをもっていくということ。祈りを怠ると、キリストは遠い存在となる。キリストの御顔はくもり、その表情ははっきりつかめなくなる。臨在は遠のいてしまう。みことばを読まなくなると、キリストを正しく知ることはできなくなる。自分勝手なイメージでキリストをゆがめてしまう。だから、デボーションを怠らないで、キリストのそばにいようと努めていきたい。相手の写真や履歴書を見ただけで、ああ、この人のことは分かったとはならず、実際会ってみなければ分からないいのと同じように、キリストと人格的交わりを持たなければ、キリストのことは分からない。二つ目は、生活の中でキリストのみことばに従うことによって、キリストを知っていくということ。日常生活の中でキリストを体験的に知っていくということである。キリストはヨハネ15章で「わたしにとどまりなさい」と言われ、それは「わたしの戒めを守ることだ」と言われた。私たちがキリスト以外のものに依存したくなって、キリストの戒めを無視していくなら、キリストを体験的に知っていくことはできない。私たちは旅行案内のパンフレットを見て、ああ、そこの観光地のすばらしさは分かったとは言い切れず、実際、行って体験してみないと分からないように、キリストのみことばに従ってみなければ、キリストのすばらしさというものを肌で感じ取ることはできない。

パウロはキリストを知ることを「キリストとの霊的合一」として言い換えている(9~11節)。「キリストの中にある者と認められ」(9節)~人はキリストを信じることによって、キリストと霊的に結び合わされる。「キリストの苦しみにあずかることも知って」(10節)~この地上でキリストの苦しみにあずかるという行程を経て、キリストに似た者へと変えられていく(Ⅱコリント3:18)。そして「どうにかして、死者の中からの復活」に達することになる(11節)~死者の中からの復活とは、聖化の完成としての栄化である。キリストの栄光の姿と似た者へと変えられることである(21節)。すなわち、この時、真の意味でキリストにふさわしい者となる。これが最終目標。私たちの最終目標はキリストを全く知ることであり、キリストと全く似ることである。キリストとの全き霊的合一である。そして今は、その途上にあるということである。まだ、おぼろげにしかキリストを知ってはいない。キリストにまだ少ししか似ていない。キリストと完全なる霊的合一に至ってはいない。

12節では「完全」について触れられている。どうやら偽りの教えは、努力修養によって地上で完全に達する可能性を説いていたようである。そして、その完全の概念も、キリスト抜きのものであったようである。「完全」は原語で「目標の達成」を意味することばであるが、先ほど述べたように、キリストを全く知ること、キリストと全く似ること、それが私たちの目標であり、それが達成できて完全なのである。地上ではそれを追及している。パウロは、「自分はまだキリストを知るという目標を完全には遂げてはいないのだ、自分はまだ完全にキリストを知り尽くしてはいない。キリストを知るというゴールはまだ先にあるのだ。罪を犯す可能性は残っていて、まだ少ししかキリストに似てはいない。私はそれを得ようとして追及しているのだ」と語っている。

パウロは13,14節でそれを強調している。14節では、キリストに似た者となることのゴールについて語っている。ここでは、自己完成を目指して断食したり修行したりといった、自己追求的なパリサイ人のような霊性で言われているのではない。聖者になるためならどんな苦行もいとわないといった自己追求的精神で言われているのではない。パウロにとって生きるとはキリスト。キリストを知り、キリストと交わり、キリストに従い、キリストといよいよ親密になり、キリストをいよいよ愛し、キリストをますます知り、キリストにますます霊的に近づけられ、キリストにおいて天のゴールに達する、キリストと一つになるという、キリスト追求、キリスト中心の精神で言われている。パウロは明らかに、クリスチャンとして成長する過程を、レースにたとえている。

そして15節で、自分は地上で完全に達したと勘違いしないように戒めている。「成人」は年齢的に大人ではなく、信仰が成熟した者を意味)。またパウロは16節で、安逸と怠惰をむさぼる者がいないよう戒めている。私たちも現地点からさらに前進していこう。

故事に、「百里に行く者は九十里に半ばす」というものがある。これは、「人間はとかく疲れてあきやすい。道を行くのでも、初めの九十里とあとの十里が相匹敵するほどだ。何事でも初めはやすく、あとがむずかしい。であるから、忍耐と努力が必要だ」というもの。同じように、キリストを求めることに絶えず熱心であって、冷めてしまわないようにしよう。エペソの教会は、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたはどこから落ちたかを思いだし、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示2:4)と警告が与えられているが、信仰者の生涯のデータを取った人がいるが、先ほどの故事で表現すると、多くの信仰者が九十里まで行ったあと、こけたと言おうか、冷めてしまったことが分かった。いうなれば倦怠期のようなものがやってきてしまった。

キリストを知ろうとすることを怠ると、誰でもそうなる可能性がある。以前、「深く愛してくれる人に従うのはむずかしくない」ということばを紹介させていただいたが、やはりキリストの愛を知っていくということが必要ではないかと思う。キリストの愛は海のように広く、私たちに、罪、汚れ、傷、破れがあるにもかかわらず愛してくださる。キリストは十字架で私たちに罪のために尊い血を流してくださった。そのことを黙想するだけでも、キリストの愛は充分なものであることを知る。この愛に身を浸し続けて生きようとする時、その愛の高さ、広さ、長さ、深さをさらに知りたいという願いが増し加えられるだろう。

私たちは、この世とこの世に属する全てが、キリストと比較するならば、ごみ屑の山に捨てられた排泄物として見えるだろうか。キリストの御姿は、現実に、私たちの心の中で、広がりを増していっているだろうか。それとも世と世に属するものを、うらやましく指をくわえて見てしまい、それを求めているだろうか。

新しい年を迎えようとしているが、新しい年も「生きることはキリスト」を目指そう。キリストへの愛をかきたて、キリストを知ることを求め、キリストに似ること、すなわち、キリストにふさわしい花嫁になることを求め、13節のみことば、「ただ、この一事に励んでいます」を自分のあり方としよう。