クリスマスおめでとうございます。「クリスマス」ということばは、ラテン語の「クリストゥス ミサ」の略で、日本語では「キリスト礼拝(キリストの祭り)」と訳せる。キリストの誕生を祝って礼拝する、それがクリスマスというわけである。今日、皆さまとご一緒に、イエス・キリストの誕生を祝い、礼拝できますことを感謝いたします。

まず、キリストがどこでお生まれになったのかを簡単に話しておこう。よく馬小屋と言われる。そう、家畜小屋での誕生である。ヨセフとマリヤという田舎町出身の夫婦が旅先で出産した。その場所は西アジアに位置するイスラエルのベツレヘムという町。マリヤは産気づいたが、当時、町はごった返していて、宿屋はどこも満杯で家畜小屋で産むしかなかった。当時の宿屋は、当時のマイカーであるロバや馬を入れる家畜小屋が併設されていた。今でいう駐車場である。そこは炊事に使ったり、作業場として使われることもあった。そこに行って産んだのだろうという説がある。またベツレヘムは山の斜面にある町で、そこには山の斜面をくり抜いて作った多数の洞窟があった。洞窟の中は二重構造になっていて、下が馬屋、上が客間になっていた。ヨセフとマリヤは、この洞窟の馬屋に行ったのだろうという説もある。これはけっこう有力な説である。誕生した正確な場所はわからないが、キリストが家畜小屋で誕生したことは事実。キリストは誕生すると飼い葉桶に寝せられた。その飼い葉桶は石造りであっただろうと言われている。この地方では材木は育たなくて貴重品だったのである。おそらく、その石作りの飼い葉桶の上に藁などを敷いたのであろう。

不思議なことは、このような貧しい誕生をされたお方が、なぜ全世界で祝われるようになったのかということである。当時、世界を支配していた大帝国といえばローマ帝国であるが、紀元4世紀にはローマ帝国中で祝われるようになった。そして今や全世界で祝われるようになった。その理由は、イエス・キリストはすべての人の、全世界の人の、全時代の人の救い主となるべくお生まれくださったからである。

キリストの誕生は色々な意味で特徴的であった。そのことをピリピ人の手紙2章から見ていこう。

「キリストは神の御姿である方なのに」(6節前半)・・・これは「キリストは神の身分でありながら」と訳すことができる。そう、キリストは天の神そのものであられた。にもかかわらず、その身分をどうしようとされたのだろうか?

「神のあり方を捨てられないとは考えず」(6節後半)・・・これは、神であることをやめたということではない。「神という身分、神という立場、神という位にしがみつこうとは考えずに」ということである。それで、どうしようとされたのだろうか?

「ご自分を無にして」(7節a)・・・7節の欄外注を見ると、「特権を主張されずに」となっている。王様にたとえると、王様は一番の権力者で、我に仕えよで、王様の命令一つでみんな従わなければならない。王様は宮殿に住み、絹の衣を身にまとい、冠を被り、御馳走を食べ、しもべたちが仕える。王様は栄光の王座に座り、国を治める。この王様が王様としてのあり方を全部捨てて、乞食の身分、立場を取ってしまうことを考えたらいい。また王様の身分から奴隷の身分にまで身を落とすことを考えたらいい。王様であることには変わりはないのだけれども、もうその暮らしぶり、その生き方は王様のそれではない。王様としての栄光はかなぐり捨てて、空になってしまっている。

マークトゥエインの児童文学に「王子と乞食」がある。10歳になるウェストミンスター宮殿に住むエドワード王子は、未来の国王としての期待を一身に受け、豪華な宮殿に住んで、温かい食事や高級な衣服を与えられ、何十人ものしもべに傅かれ、何不自由のない暮らしをしていた。一方、同じ10歳のトムはあばら家に住み、お金がないためにパン一つ買えない有様。毎日、物乞いをして暮らしていた。ある日、この二人は運命的な出会いをし、ふざけ半分に、今だけと言って、それぞれの衣服を交換する。王子様はボロの服を着たら、すぐに乞食とまちがえられてしまう。乞食となった王子は街で乱暴される。その後、貧しい暮らしというものをいやというほど身にしみて味わうことになる。やがては宮殿に帰って王子の地位に戻るのだが、彼はそれまでと違って、人の心、庶民の心がわかる君主となる。今お話しした、王子から乞食になった王子の物語とキリストの生涯を比較することができるが、キリストはそれ以上の生涯だった。

「仕える者の姿をとり」(7節b)・・・「仕える者」と訳されている原語は、他の箇所では「しもべ」ないし「奴隷」と訳されていることばである。ここでだけ「仕える者」と訳されている。この新改訳聖書の編集にあたった先生は、ここを「奴隷」と訳したほうがいいかもしれないと言われた。なぜならば原語の意味は「奴隷」だからである。確かにキリストは、奴隷のような姿をとられた。そう、キリストは神であるにもかかわらず、罪人の奴隷のようになって仕えることをよしとされた。キリストは全世界の人々のために、身も心も低くして仕えようとされた。

それで、「人間と同じようになられました」(7節c)。そう、これがクリスマスである。キリストは天の神、天の御国の王子である。しかし天から下り、まことの人となられた。人としての生まれ方は貧しかった。王宮のベッドで絹の産着をまとっての誕生ではなかった。家畜小屋での飼い葉桶での誕生である。それは単に貧しさを越え、実に卑しい姿での誕生である。キリストは、奴隷のように人に仕え、人のために命さえ与えるために、この卑しい誕生の姿を選ばれた。

「人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし」(7節d,8節a)・・・キリストは人としての歩みを赤子から始められたので、全く無力な姿で人としての人生をスタートした。人にミルクをもらわなければ生きていけない。下の世話をしてもらわなければならない。着替えは自分ではできない。それは全く無力な姿である。また、その体は、動けば疲れ、寒くなれば風邪を引き、食べなければ動けなくなるという体である。物心ついた頃には、ナザレというさびれた村で、労働者として、大工の息子として暮らしていた。額に汗水流して働きと、天地万物を造られた神さまのすることではない。「自分を卑しくし」とは、人となられたというだけではなく、家畜小屋で産まれられたこと、貧しい村で育ったこと、労働者として生きたことなどが思いつくが、そうしたことだけではない。その先がある。それは卑しさの極致だった。

「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(8節bc)・・・神は本来、死を経験する必要などない。けれども、死にまで従った。しかもその死は自然死ではなく、「十字架の死」という忌まわしいものであった。この死に方は、当時、卑しさの極致とされていたものである。それは、奴隷や凶悪犯を死刑にする手段であった。それは当時、人間として考えられうる、人としての最低の死に方であった。以前にもお話ししたように、十字架は「クルス」と発音するのだが、当時の人は、これを口にもしたくなかったので、直接発音せず、「不吉な木にかける」と言ったり、「あの木、あの木」というように遠回し的な言い方をしていた。キリストはこの十字架についてくださった。先に、この地方では材木は余り育たないと言ったが、そのような事情から、十字架に使う横木と縦木は、建物の廃材を使うことが多かったと言う。しかも、何回も繰り返して使用したと言う。だから、それはきれいな白木の十字架ではなかった。荒削りの十字架であっただろう。キリストはこの十字架の上で、血を流され、人々に呪いのことばを浴びせかけられながら死んでいった。実にみじめな死である。にもかかわらず、このお方の誕生は全世界で祝われている。それは、この十字架の死が全人類の救いの手段だったからである。キリストは十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって裁きを受けてくださった。キリストは私たちが犯してきたまちがった言動のために、そして私たちが心に抱いてきたよこしまな思いのために、その罪から救うために、十字架についてくださった。そこで命を犠牲にしてくださった。そしてよみがえり、今も生きておられる救い主となってくださった。

クリスマスシーズンに、全世界のどこかで必ず演奏される曲目に、バッハの「クリスマスオラトリオ」がある。誕生をお祝いする管楽器の明るいメロディで始まる。お祝いの曲が続く。しかしところどころで、なぜか受難のメロディが控えめに短く流れる。これは意図的ある。つまり、キリストは十字架の死に向かって生まれられたということ、十字架で死ぬために生まれられたということ。そして、それは聖書が告げる真実である。飼い葉桶の中に生まれられたというのも、十字架上で死ぬことを暗示していると言ってよい。飼い葉桶の中での誕生、もうそこに十字架の影が投げかけられている。クリスマスカラーと言われている「赤」は、キリストが十字架の上で流された血の色を意味している。「赤」でサンタクロースの衣装を連想する前に、キリストの十字架を思い起こして欲しい。

では次に、このピリピ人への手紙の著者パウロに焦点を当てよう。クリスマス物語を一番詳しく伝えているのはルカの福音書の著者のルカであるが、ルカの本業は医者で、使徒パウロの宣教旅行に同行した方である。パウロは当然のことながら、ルカからキリスト誕生にまつわるエピソードを色々聞いたはずである。パウロはキリスト誕生の物語を熟知していたであろう。しかしパウロはルカから色々話を聞く前に、キリスト者たちを迫害していた旅の途上でキリストを信じ、その生涯が180度変わってしまった男である。価値観が一遍してしまった。キリストに絶対的な価値を見出した。そして新約聖書の文書の半分を執筆するまでになる。パウロがどういう男で、キリストについてどう思っていたのか、ピリピ3章から簡単に見ていこう。

キリストを信じる前のパウロは人間的なことを誇りにしている人だった。5~6節では、彼がかつて誇っていたものが七つ挙げられている。①「八日目の割礼」・・・これは単なる肉体への切り傷ではない。これは正真正銘のユダヤ人であることを表わす印。血統を誇るユダヤ人が強調していたもの。これを勲章のように誇っていた。②「イスラエル民族」・・・日本人たちが自分を神の子孫として誇るようなもの。民族の誇りである。③「ベニヤミンの分かれの者」・・・「ベニヤミン」とはイスラエル十二部族の中のエリート部族の先祖。ベニヤミン部族からイスラエルの初代の王様サウル(サウロ)が出た。パウロのもともとの名前はサウロ。パウロには王様の名前が付けられている。パウロの家系は王の家系なので、これ以上、誇れる家系はない。日本で言えば、皇室や名のある武家の家系といったところ。④「きっすいのヘブル人」・・・混血なんかではないと純粋な血統がここで強調されている。⑤「律法についてはパリサイ人」・・・「パリサイ人」とはユダヤ教の中で最も正統的な学派であるパリサイ派に属する人という意味である。パリサイ派はユダヤ教のブランドである。これは宗教の誇りである。なお彼はパリサイ派の最も高名な教師に学んだと言われており、パウロはいわば東大出といったところ。彼は博学。つまりパウロは自分の優秀さも誇っていた。⑥「その熱心は教会を迫害したほど」・・・パリサイ人たちは神の教えを正しく説くのは私たちだけだと言って、キリスト教をユダヤ教の異端だと言って非難していたが、パウロは我らの教えに従わない者たちは許さないと、教会を迫害するほどに自分の信奉するパリサイ派の教えに熱をあげていた。その熱心さにおいては誰にもひけもとらないと、その熱心さを誇っていた。⑦「律法による義についてならば非難されるところのない者」・・・ユダヤ教には厳格に定められていた戒律が多々あったが、それを非の打ちどころのないほど注意深く守ってきたということ。自分の行いの誇り、正しさの誇り、まじめさの誇りと言ったら良いだろうか。

これらの七つの誇りを見ていくときに、血統において、家系において、能力において、経歴において、人からどう見えるかということにおいて、申し分なかったと言うことができる。もう少し付け加えると、実は、彼の生まれた家はローマ社会で社会的地位も手にしていた。ということは、ある程度裕福でもあったということ。彼はその家に生まれ、エリートの道を歩み続けていた。世の人がうらやむのは、富、地位、名誉、家柄、学力といったところだが、彼は人がうらやむものをことごとく手にしていたと言えるだろう。世の中にはまれにこういう人たちもいるが、普通はそうではない。裕福だけれども自分の出生に問題があるとか、勉強はできるけれども誇れる家系ではないとか、エリートコースを走っているけれども評判が悪いとか、家系はいいのだが能力がなくて不出来であるとか、あっち良ければこっち悪しがほとんど。どこか一つ欠けている。でもパウロはすべて完璧だった。すべて一流だった。今で言えば、公家か武家の家系で、裕福で社会的地位の高い家に育ち、頭が良くて優秀で、一流大学を一番で卒業して、伝統的宗教を極めに極め、身の振る舞いもそつなく、人望が篤く、政府の高官を務め、皆の羨望の的になっているといったところ。私立探偵に調査してもらってみたら、あらゆる面ですぐれており、何の汚点もないというような人物。人間的にはすべてが誇れる。自慢できる。リッチ、ローヤル、ブランド、エリート、ステータス、エクセレント、そんな言葉がみな当てはまる人物。そんな彼に転機が訪れた。キリストを信じ受け入れることによって、価値観、人生観、世界観が一変してしまった。

「しかし、私にあっては得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに損と思うようになりました」(7節)。「得」と思っていたものが「損」と思えるように。

すぐれた血統、家系、家柄、経歴、能力、まじめな行い、彼はそれらを得と考えてきた。それは自然なことのように思う。でも、それらをキリストのゆえに損とみなすようになった。それでは止まらない。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(8節a)。いっさいのことが損と感じるほどだと言う。さらに、「私はキリストのためにすべてを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(8節b)。「ちりあくた」とは上品な訳で、平易に訳せば、「排泄物」「糞」である。ごみ屑の山に捨てられる排泄物、糞。つまり、キリストと比較するならば、今まで誇って輝いて見えていたものが、糞に見えてしまうということ。それくらいキリストを宝として感じている。パウロは外面的にはりっぱで皆にうらやましがられる人物であったが、自分の罪に悩み、劣等感も抱きと、私たちと何ら変わりがない人物だった。自分を義としようとすればするほど、その義は金メッキのようなものにしかすぎないことを感じ取っていたと思う。彼はメッキの下に隠れている自分の醜さが嫌であった。彼も、本当の意味での罪の赦し、きよめを求めていたと思う。心には埋まらない空しさもあったと思う。それは人間的なものを誇っても埋まらない空しさ。それは、キリストだけが埋めることができる。

キリストという人格ほど最高のものはない。キリストは何一つ罪のない正しいお方というだけではなく愛そのもの。私たちを罪から救うために十字架でいのちを捨ててくださったお方。そのようなお方は世界でただひとり。孤独で悩む時代、人はいったい何を求めているのだろうか。誰でも愛を求めている。またキリストは聖書において永遠のいのちそのものと言われている。キリストは十字架についたが死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはないお方。今も生きておられ、信じる者に罪の赦しと義と永遠のいのちを与えるお方である。人がどんなにお金を積んでも、どんなに行いでがんばってみても、罪の赦しと永遠のいのちを得られるものではない。では永遠のいのちはどうやったら得られるのだろうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。クリスマスカラーの「緑」は、この永遠のいのちを表わしている。キリストは永遠のいのちそのもので神からの最高のクリスマスプレゼントである。これを拒む理由はあるだろうか。

パウロがキリストのすばらしさに心の目が開かれたように、私たちもキリストのすばらしさに目を開かれたい。パウロがキリストを心に信じ受け入れたように、私たちもそうでありたい。キリストは神さまからの最高のプレゼントである。朽ちることのない宝である。私たちの希望がすべてここに詰まっている。このプレゼントを受け取りたいと思う。