ブラジルの大部分の家は、余り風や寒さを遮るようにはできていないということを聞いたことがある。その理由は、寒さがひどいのは、そんなに度々ではないかららしい。ところが1975年7月のこと、非常に寒い夜があった。家の中にいても、温まるために身をする寄せ合い、毛布にくるまっていなければならないほどの寒い夜であった。ある家族のご主人が、この寒い夜、バスや汽車や停車場の近くで寝ている家のない人々のことを思い出した。彼らはぼろぼろの毛布や新聞紙をかぶって、出入口やベンチの上で夜を過ごしていた。このご主人は、自分の特権である慰めとなる暖かさを後にして、ふるえるような寒い夜の町に出て行った。そして彼は、家のない人たちを見つけられるだけ集め、自分でお金を払って宿屋に入れてあげた。その夜は余りの寒さのために、ブラジルで多くの人が死んだと言われているが、彼の行為によって命拾いした人たちがいたということである。この人はクリスチャンであった。彼は、自分だけ温まっていられさえすれば、というささやきに打ち勝って、外に出た。クリスチャンは、神のイエス・キリストが自分を罪と滅びより救うために、十字架の上でいのちを投げ出してくださったことを信じている。この十字架を胸にするとき、自分のことだけでなく、他人のことを顧みようという思いが強められる。病院のシンボルも、そして当然のことながら教会のシンボルも十字架である。それは自己中心と相対するシンボルである。

皆さんは石川五右衛門をご存知だろう。ゴエモン風呂で有名になった。彼は釜ゆでの刑にあった。妻や子どもも一緒に。初めのうちは妻や子どもが熱がらないようにと、自分が一番下になった。ところがしばらくすると、彼は釜が熱くてたまらなくなって、妻や子どもの上に自分が乗ってしまったと言われている。この話を聞いて、これが自分を含めた罪人の姿だな~と思わされた。最後は自分さえ助かればとなる。人間の自愛心をよく表している話である。

「人間失格」などの有名な作品を書いた、太宰治という作家がいた。彼は色々と作品を書き有名になったが、心はいつも、耐え切れないほどの不安と寂しさとで一杯だった。彼は自分を忘れさせ、慰めを与えてくれそうな酒と女性を求めた。しかし、酒も女性も慰めとはならず、かえって周りの人々に多大な痛手を負わせた。彼は人々を次々に傷つけてゆく自分に耐え切れず、自分を殺すという殺人罪を犯して世を去った。その太宰治は、自分という人間を直視してだろうか、「風の便り」という文章の中で、次のように言っている。「誠実な人間とはどんな人間か知っていますか。おのれを愛するが如く、他の者を愛する事の出来る人だけが誠実なのです。君にはそれが出来ますか。いい加減な事は言わないでもらいたい。君はいつも自分の事ばかり考えています。自分と、それから家族の者、せいぜい周囲の、自分に利益をもたらすような具合のよい二、三人の人を愛しているだけじゃないか」。これも人間の現実の鋭い描写であると思う。私たち罪人は、自分に利益をもたらしてくれるから、その人を愛する、そうでなければ関心を払わないという、自己中心的存在であることを教えられる。

この事は、神と人間の関係にもあてはまる。耳慣れしたことばに「ご利益宗教」がある。自分に利益をもたらしてくれるなら、その神を信ずる、その神を拝む。この関係は、神のための自分ではなく、自分のための神。利益を得る、得する、儲けるという自己中心的霊性がそこにはある。本来はどうあるべきだろうか。まことの神は創造主。人間は神によって造られた。人間は神によって神のために生きるように造られている。造られた者は造ってくださった方のために生きる、これが真理。天国に入れてほしいから神に仕え、善行に励み、修養に励むとか、地獄に行きたくないから悪行を控えて神にすがるとか、健康でありたいから神を信じるとか、商売繁盛を願っているから神に頼むというのは、本質的に、自分に利益をもたらしてくれるから信仰するという利己的信仰。利益という概念がその人の信仰を支配している。こうなると、信じる対象はある意味、何でもよくなる。「鰯の頭も信心から」ということわざまである。別に鰯の頭に自分の人生をゆだねたいとか、鰯の頭にお仕えしたいとか、そういうことではないだろう。ただ自分の欲望、願望が達成できればそれでよい。そうならなければ、生ごみのバケツの中へポイである。すべて自分という視点から考えている。自分のとって損か得か。けれども本物の信仰、まことの神と人間の関係というものはそうでないはずである。自分の欲望、願望のためではなく、神に喜ばれる生き方をしよう、神のみこころを生きよう、となるはずである。「得る」とか「得する」という考えで神に向かうのはご利益宗教。それとは反対に自分の利己主義を悔い改めて神に仕えようとするのが本来の在り方。「得る」ではなくて、神の前にどう「在る」のか。私たちは卑小な自我のために欲望を満たそうとエネルギーを費やしてしまうが、「得る」ではなく「在る」という霊性に生きるときに、その人は不思議と必要なすべてのものを手にすることになる。

「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」(21節)。キリストは目に見えない神を啓示してくださった神ご自身で、まことの人となられたまことの神。キリストの生涯については2章6~8節で言及されている。ここでの強調は十字架上の死である。キリストが十字架の死に従われた理由は、私たちを罪と、その報いである死のさばきから救うためだった。人類史上、私たち人間のために払われた犠牲の中で、これ以上に大きな犠牲はない。このキリストの十字架という歴史的事実は、神が私たち人間を深く愛しておられるということを証している。ここから神と人間の本来あるべき真の関係が見えてくる。それは愛で結ばれた関係ということである。利益で結ばれた関係ではない。キリシタン時代、現代文を交えて語るが、「神があなた方を御大切にしたので、あなた方は神を御大切にしなさい」と教えられたそうである。「愛」を「御大切」と表現したらしい。またある方は「愛」を次のように定義した。「結びついて一緒に生活したいと願う心」。私たちは神の愛、キリストの愛を知ったので、このお方と結びついて一緒に生活したいとなるはずである。この関係はご利益とは違う。悲しみも喜びもともにしたいという関係。それは愛で結びついているのであって、利益で結びついているのではない。ある人は言った。「深く自分を愛してくれる人に従うのは難しくありません」。私たちは日々、キリストの愛に目が開かれなければならないのではないだろうか?

今日の箇所は、クリスチャンであっても利己主義となり、自己中心となり、神のための自分ではなく、自分のための神という偽りの霊性に陥る危険があることを語っている。19~21節の背景を簡単に語ろう。使徒パウロがピリピ教会の生みの親である。そのパウロは今、福音のために捕えられてローマの獄中にいる。当然のことながら身動きできない。パウロは今自分が置かれている状況を伝えるとともに、ピリピ教会の様子を知りたいと切に願っていた。自分は今、当然のことながらピリピに赴くことはできない。それで、誰かを自分の代理としてピリピに遣わそうとした。パウロは、周りにいる何人かに行ってはもらえないかと頼んだであろう。でも次々と断られた。忙しいとか、自分は適任ではないとか、色々な逃げ口上があったであろう。そしてパウロの願いを買ってくれたのはテモテ一人。パウロの目には、テモテ以外の人たちは、利己的に映った。みんな自分のことしか考えていないと。ある人は次のように言う。「パウロは、神への信仰を全く捨ててしまったような人たちのことを言っているのではない。パウロが兄弟と考えていた人々、さらに親しい仲間と認めた人々も指している」。今のように、新幹線や自動車があった時代ではない。長旅をするというのは犠牲の大きい奉仕であることはまちがいない。けれども犠牲のない事であればやりますというのも、違う気がする。21節の「だれでもみな」というのは、キリスト者全員ということではなく、パウロの周囲にいた人々のことを指すのであろう。しかし、私たちの心にも響いてくる。そしてここで教会のための奉仕を疎んじる姿勢が「キリスト・イエスのことを求めてはいない」として表現されている。「いえ、わたしはキリストのことを求めています。いつもキリストを讃える賛美を歌っていますし、キリストへの尊敬の思いがあります」、パウロはそのような姿勢を見て判断しようとしているのではなく、キリストへの愛に根ざして具体的な奉仕を捧げているかどうかで見ている。私たちは次のように思ってしまいやすい。「救いの切符は手に入れたし、あとはほどほどにでいいだろう」。「犠牲を払うのはちょっと・・・。得る、得することであるならばやるけれども」。真の霊性のあるところに利益という概念はないのだが、どうしてもそれは残りやすく、損なことはしたくないとなる。「得る」「得する」という考え方に支配されている時に、人は失うことを恐れる。その恐れはその人を蝕み、やがて自分自身を失う。反対にキリストのための犠牲を決断し、「主よ、あなたのために」という精神的高まりの中で生きることこそがその人を生かす。

今日の箇所では、キリスト・イエスのことを求めていると言える、称賛に値する人物が、3名登場している。一人目は先ほど少しふれたテモテ。彼は胃腸が弱い人であったようだが、ハートは確かであった(20節)。彼は伝説では、エペソ教会で初代監督にとなった後、殉教したと言われている。

二人目はエパフロデト(25~30節)。彼はピリピ教会の使者としてパウロに贈り物を届けた。パウロの身の回りの世話をしたり、パウロの下で福音に奉仕するという使命をあったようである。しかしがんばりすぎたのか、体をこわしてしまった(30節)。エパフロデトの奉仕が「キリストの仕事のために」と言われているのが印象的である。ここから、奉仕の本質が見えてくる。奉仕とは「キリストための仕事」であるということである。アメリカでの話だが、ヒッピーを受け入れていた教会があった。キリストの愛にならって彼らを受け入れ福音を伝えようと。それはそれで良かった。ところが彼らが帰ると、建物の中はタバコの吸い殻が落ちていたりで汚かった。そこの牧師はタバコが大嫌い。苦虫を踏みつぶしたような感覚で、大嫌いなタバコを拾って掃除しているときに、心に主の語りかけがあった。「あなたはだれのためにやっているのですか。だれのためにやっているのですか。わたしのためではないのですか」。「そうだ、すべては主のためだ!」。それからその牧師は、心が軽くなり、いやなこともいやでなくなり、奉仕はすべて主のためにやるという心構えが定着したという。「主のために」である。どんな奉仕に携わるにしても、私たちも同じ精神でありたい。どんな奉仕であっても、それは主のための奉仕である。

称賛に値する三人目はパウロ(17節)。彼はここでピリピ教会の兄弟姉妹のためなら殉教してもかまわないということを述べている。喜ぶという表現さえ用いている。つまり、キリストのために死ぬことは特権であると考えていたということを物語っている。彼は伝説では、ネロ皇帝のもとで殉教したと言われている。

以上の三人は、キリストの愛に捕えられていた人たちだった。「深く愛している人に従うのは難しくありません」という真理を実証した人たちだった。最後にC.T.スタッドのことばを紹介して終わる。「もしもイエス・キリストが神であって、私のために死なれたのなら、どんな犠牲を神のために払っても、大きすぎるということはない」。アーメンではないだろうか?