クリスマスの時期になると、イルミネーションやろうそくが飾られる。ろうそくの光は「自分自身を燃やして周囲を照らす」という意味合いがあり、世の光であるイエス・キリストの象徴である。また今日の12節では、私たちが「世の光」と言われているわけなので、私たちが輝かなければならないわけである。

今日は「従順」という徳にについて学びたいと思う。というのは、今日の箇所でカギとなることばは「従順」だからである(12節)。2章に入り、著者のパウロは、教会は一致を保つべきことと、一致のカギは謙遜にあること。そして謙遜の模範としてキリストを取り上げた。キリストは天の栄光をかなぐり捨て、神の位、身分を捨て、この地上に人となって下り、しもべとして罪人に仕えられ、そして当時の最低、最悪の侮辱的死刑の手段、十字架刑に服された。8節の「十字架の死」は、謙遜のきわみ、極限であるということであった。パウロは今、謙遜から、謙遜のなせるわざである「従順」ということに力点を移す。パウロは謙遜と従順を一つのものとして捕えているのだが、それを理解するために、参照として、イスラエルの初代の王サウルについて記されている箇所を読もう。「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、牡羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像崇拝の罪だ」(Ⅰサムエル15:22~23)。これは預言者サムエルのことばだが、神はアマレクとの戦いにおいて、サウルに聖絶を命じた。ところが彼は従わなかった(9節)。この15章のキーワードは「聞く、聞き従う」ということば。原語のヘブル語<シェマ>であり、この章で<シェマ>は計8回使用されていて、聞き従うことの大切さを教えている(1節,22節等)。シェマは音声として聞くということに留まらず「従う」という概念を持つことば。「聞きなさい」ということはイコール「従いなさい」である。聞き従わない罪は23節で問われている。「そむくこと」と訳されていることば<メリル>は「神に背を向けて従わないこと」を意味する。以前、実話をもとにして制作された「セブン・イヤーズ・イン・チベット」という映画を観たことがある。一人のドイツ兵が捕虜とされた後、脱走し、チベットを目指すという物語である。彼がチベットに到着し、ダライ・ラマに初めて謁見する時のこと。彼は側近から諸注意を与えられる。その一つに、「決してダライ・ラマに背を向けてはならない、背中を見せてはならない」というものがあった。背を見せることは傲慢で不遜な行為とみなされるからである。神に背を向けることも同様である。続いての「従わないこと」と訳されていることば<パーサル>は、「傲慢、高慢」を意味することばで、事実、英訳では「傲慢」、新共同訳では「高慢」と訳されている。サウル王は聞き従わなかった。神に背を向けた。つまり傲慢であった。キリストにおいては十字架の死にまで従うということにおいて、謙遜と従順が一体となっているが、サウル王においては傲慢と不従順が一体となっている。神に背を向け従わない傲慢さは、神が神であることを認めないことと同様であるため偶像崇拝の罪に等しい。そして今見た、新改訳で「従わないこと」と訳されている「傲慢、高慢」の意味をもつ<パーサル>は、従わないどころか、「指図する」という意味も含むことばである。神に指図していたら傲慢もはなはだしいだろう。でも人は神に指図したい気持ちにかられる。違うだろうか。

ではピリピ2章に戻ろう。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(13節)。パウロはここで「あなたがたのうちに」と、教会全体を念頭において語っている。神は一つ一つの各個教会それぞれに進むべき道を示され、なすべきことを示される。パウロは「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と述べることによって、「あなたがたは神のみこころに従いなさい」というメッセージを与えている。もし、神のみこころに会衆が従わなくなったらどうなるか?14節が暗示しているように、会衆の間で、つぶやき、疑いが増える。ここでエジプトから脱出し荒野に旅立ったイスラエルの民を思い起こしていただきたい。彼らはつぶやき通しだった。「暑い、飲み水がない、環境悪すぎ。なぜこんな方向に導くのか。神は私たちを滅ぼしたいのか」と民は神の代理人のモーセにつぶやき続け、神を信頼できず、疑い通しだった。そんな彼らに一致があったかというと、なかった。つぶやき、疑いのあるところには一致がない。彼らの間には争いが絶えず、仲たがい、不和が常にあった。会衆の間ではもめごと続きだった。それは会衆の多くが不遜な態度に出て、神に背を向けてしまったから。そのため、みこころに従う会衆と、つぶやき、疑い、神に反逆する会衆とに分かれてしまった。こうした姿は教会に対する警告となっている。

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(14節)これは「神のみこころに従いなさい、従順でありなさい」ということを言い換えた表現であることをわきまえよう。先ほど述べたように教会全体のことが意識されているので、教会が祝福されるために、皆で神のみこころを汲み取り、そのみこころに従順に従うということが肝要である。そして、ここでは「すべてのことを」と言われている。つまり、一見、道理に合わないようなことでも、常識を超えたようなことでも、自分の好みの考えに合わないようなことでもすべてである。自分が嫌だと思うことが主のみこころの場合が多いとも良く言われるが、ある意味、真実である。キリストは十字架にかかる前に、ゲッセマネの園で苦悩の祈りをささげた。十字架の死は恐怖だったから。キリストでも、それは嫌で嫌でたまらなかった。けれども主はどう祈られただろうか?「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39)。主は「あなたのみこころのように」と祈られた。そして、そのみこころに従われた。

「つぶやく」ということばの同義語は「ぶつぶつ言う、不平を言う、ぐちを言う、文句を言う」である。これはまことに不遜な態度で、神への恐れがなく、慎みがない。つまり、傲慢で謙遜ではないということである。「疑わずに」の「疑う」ということばは、原語で「論争する」といった意味合いが込められている。言い換えると、難癖をつけること。「あなたはなんだ、わたしがどうなってもかまわないと思っているんでしょ」「わたしを見捨てるんですか」。こういうセリフや祈りがキリスト者の口から出るなら悲しい。個人にも教会にも祝福はなくなる。

私たちが神に対してへりくだっていて従順であるその姿は、この世への証ともなることを覚えなければならない(15~16節)。「彼らの間で世の光として輝く」、その条件は、へりくだって神に従順であることなのである。傲慢、不従順は証にならない。イスラエルの民はそうした姿で諸国民から笑いものにされた。「世の光として輝く」は直訳的に訳すと、「世にあって星のように輝く」である。パウロはこのようになってくれることが生きがいであり喜びであることを17~18節で語っている。

最後に、一例として、世の光として輝いたキリスト者の証を紹介して終わりたい。第二次世界大戦中、日本軍の捕虜として、クワイ河収容所で過ごした、アーネスト・ゴードンという人物の体験記がある。ゴードンは「戦場にかける橋」で有名になったクワイ河鉄道仮設工事の強制労働に服した。極度に制限された食物による飢饉や、強制労働による過労、日本軍兵士による暴行や虐殺、さらにはコレラやジフテリア等の伝染病が重なり、そこでの生活はまさしく生き地獄であった。彼はそこでの捕虜たちの生活について次のように語っている。「ここでは他人の配慮はまったく消えていた。人間の人間に対する関心は吹き飛ばされて、ひとかけらも残ってはいなかった。…人がいま死にかかっても、私たちはそばに寄り添ってあわれみのことばをかけることがなかった。彼がもし助けを求めて叫んでいたとする。誰もが顔をそむけた。振り向くこともしなかった。人々はみな日本人を呪った。だが、それにとどまらず、身近にいる戦友のはずの隣人にも呪いのことばを投げつけていた。また呪いは自分自身の上にもはかれ、神の上にもぶつけられていた。呪いのことばが常に耳をつきまとい、口をついで出てきた。呪いなしでは生きていけないほど、あらゆるものが呪わしくなっていた」。

やがて、ゴードンはジフテリアにかかり、絶望のうちに身を横たえることになった。ところがこの収容所に信じられないことが起こり始めた。わが身を顧みずに他人のために尽くす少数のクリスチャンが現れた。あるクリスチャンの捕虜は、捕虜たち全員が日本兵に射殺されそうになった時、皆を救うために身代わりになって殺された。ある捕虜は重病の友のために毛布、食事を与えた末、自らは餓死していった。またある捕虜は、同じく重病の友のために薬を得ようとして、自らの危険も顧みず、収容所を抜け出そうとして見つかり、日本兵に殺された。そしてジフテリアのために横たわっていたゴードンのところには、ダスティとディンディという二人のクリスチャンが看護を申し出た。彼らはゴードンの体を洗ったり、自分たちの着物を裂いては持ってきてくれた。そのおかげでゴードンの病気は回復していくが、神を信じないゴードンは、彼らの信仰に引き付けられながらも、疑問をぶつけていく。彼はクリスチャンのダスティにこう言った。「どうして神は何もしないんだ。どうして沈黙したままなんだ。天国とかいうありもしないところにいて、大きな白い雲の玉座に座っているだけで、どうして何もしないんだ」。この文字通りのつぶやき、疑いに対して、ダスティはしばらく考えてから答えた。「きっと何か、今もきっと何か…なさっておられるんです。でも、今なさっておられることの全部が、私たちには、全ては見えないんです。視界が限られていてよく見えないんです。『今、われらは鏡をもって見るごとく、見るところおぼろなり』だからです。でも、いつかははっきり見えてわかるようになるだろうと思います」。生き地獄のような収容所において、この少数のクリスチャンたちは、周りの兵にならって、つぶやいたりはしなかった。そして闇夜の星のように周りを照らした。やがてゴードンはクリスチャンたちの献身的な奉仕を通して少しずつ変えられていく。彼はクワイ河の死の収容所の中に、神が生きて働いておられるのを、その身に感じるようになる。ゴードンは神を信じ変えられていく。彼は収容所内で始まったクリスチャンの集会に顔を出し、病人看護にもつくようになる。収容所の雰囲気は祈り会や聖書研究会、そして、さらに数々の自己犠牲的行為によって変えられていった。まさしく、そこには教会があり、神の国があった。

やがて移動命令によりゴードンらはバンコックに移送されることになった。その途中の列車の中で、彼らは見るも悲惨な状態の、傷つき、病にかかった日本兵たちに出会う。彼らの痛々しい傷口は化膿してウジがわき、戦闘服には泥や血液や便がこびりついたまま。ところがゴードンらは誰かれとなく日本兵のところに歩み寄り、水と食物を与え、膿を拭い取り、傷口に布を巻いてやった。ところが、それを見た別の収容所からの捕虜が、ゴードンに向かって叫んだ。「なんていうバカ野郎なんだ君は!そこにいる奴らは、俺たちの敵なんだ!」ところがゴードンはこう答えた。「私の敵はどこにいるんですか。彼らは敵ではなく、私たちの隣人ではありませんか。神は隣人を造られたのに、私たちが敵を作るのです。私たちの敵は私たちの隣人なのです」。

神を呪い、日本人たちを呪っていたゴードンらは、クワイ河収容所で、神の前に謙遜で、神に対して従順な、少数の、つぶやかず疑わないクリスチャンたちとの出会いによって、神の奇跡を体験し、自らも世の光と変えられた。暗闇の世にあって星のように輝く者へと変えられた。いのちのことばをたいまつのようにしっかりと握り、世を照らしたのである。

私たちは、つぶやいて、神と人と言い争う前に、自分はどうあるべきであり、自分はどうすることが求められているのかと、謙遜に神に聞く耳をもとう。神の前に頑固さを捨て、従う姿勢をもち、世の光として輝こう。その最大の模範は家畜小屋に生まれることをよしとされ十字架の死にまで従われた主イエス・キリストである。イエス・キリストの謙遜と従順に倣おう。