今日の箇所はアドベントやクリスマスに良く開かれる箇所である。前回は、1~5節より、パウロがピリピの教会に対して、心と思いを一つにするという一致を願っていること、そして一致を保つためには謙遜という徳が不可欠であることを学んだ。一人一人が自己中心や虚栄を捨て、肉的なプライドにしがみつくのを止め、謙遜を身に着け、人の価値を再発見し、互いに尊敬し合い、他人に関心を払うようにならなければ一致はないのだと言う。

続いてパウロは、謙遜の最高の模範を取り上げる。謙遜の最高の模範とはイエス・キリストである。6~11節は前回お話ししたように、初代教会で歌われていたキリスト讃歌に基づいていると思われる。そこには下降、十字架、高挙について言及されている。受肉、受難、栄化と表現しても良い。このすぐれたキリストの描写を読んで、「あ~、イエスさまは素晴らしいなぁ」で終わることをパウロは望んでいない。6節からのすぐれた描写から、キリストの贖いのみわざにのみ心を向けて終わってしまうことをパウロは望んではいない。焦点はキリストの謙遜に置かれている。この素晴らしい描写は、私たちが謙遜になるためにある。自己中心、虚栄を捨て、へりくだり、人の価値を再発見し、他人に関心を払い、互いに同じ思いになるためにある。6~11節は、私たちが謙遜になるための模範として、キリストの生きざま、キリストの心構えが記されている。

6節「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」。キリストは神の御姿である。「神の御姿」という訳は、「神のかたち」とも訳される。コロサイ1章15~16節では、「御子は、<見えない神のかたちであり>、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。」と宣言されている。キリストは目に見えない神のかたちであり、万物を造られた創造主である。このお方が、神のあり方を捨てられないとは考えなかった。これは自分のプライドにしがみつき、それを捨てることはできないとしてしまう頑固な罪人に何かを訴えかける。キリストは栄光の立場をかなぐり捨てた。「神のあり方を捨てられないとは考えず」とは、神であることをやめてしまったということではなく、神でありながらも、神としての立場、位を手放したということである。「神のあり方を捨てられないとは考えず」の別訳は、「神と等しい立場、位にしがみつこうとは考えず」である。つまらないプライドにしがみつく人間とは随分異なっている。「私のこと、だれ様だと思っているの?」と人は言うが、ただの罪人である。キリストの場合、罪人ではないにもかかわらず、だれ様もでもかれ様でもないへりくだった生き方を示された。

7節「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」今日からアドベントに入る。キリストの降誕、受肉に思いを潜める期間である。そのような意味において、今日の箇所は黙想に値する。「ご自分を無にして」は別訳すると、「ご自分をゼロにして」。これは自己放棄、権利の放棄を意味する。天に住まい、王座に座り、冠を冠り、王権を執行し・・・といった権利主張は止めてしまったのである。そして不便で汚い罪人の世界に降られ、汗水流し、税金を払い、人に仕えられた。これは自分の権利を主張してやまない人間とは随分違う。もし、すべての人がキリストのようであったら、この世から争いは完全に消える。「仕える者の姿をとり」は別訳すると、「しもべの身分となり」である。実は、6節の「神の御姿」は「神のかたち」という訳の他に「神の身分」という訳も可能である。新共同訳は、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」となっている。つまりキリストは、神という身分に固執せず、罪人に仕えるしもべの身分をとったということである。しもべとしての身分は、貧しい庶民の子どもとして生まれることによって具体化されていく。神の身分からご自分を無にしての罪人に仕えるしもべの身分というのは、最も高い所から最も低い所への完全なる<下降>を意味する。

7節後半,8節「キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」ここでは、キリストのへりくだりを強調している。実は、8節原文の先頭には、「低くする、位を落とす」を意味することばが来ている。新改訳で「卑しくし」と訳されていることばがそうである。このことばは「へりくだる」と訳せることばである。よって、新共同訳では、「<へりくだって>、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と訳している。強調はへりくだりにある。キリストはどのくらいへりくだられたのか。「死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました」がそれを表わしている。ただ死に従ったのではない。十字架の死にまで。十字架の死というのは当時の社会にあって、最悪の死に方を意味していた。それは苦しさというだけではなくて、最も侮辱的な死に方という意味において。神の身分、神の位を持つお方が、当時、最も呪わしいという十字架刑に服した。この十字架の死への言及は、キリストの謙遜、そのへりくだりというのは、へりくだりの極限、きわみであったことを読み手に知らしめるためにある。この十字架の死は誰のためのものであったのか。私たちのためである。そこにはもう自分のためにだけ関心を払うという自己中心の姿はない。自分を持ち上げるという虚栄の姿はさらさらない。天の栄光をかなぐり捨てて、神の権利を放棄し、しもべの身分に徹し、私たちのためにおぞましい死をも忍んでくださった。自分の家系や経歴や能力を誇り、プライドにしがみついて反目し合う人間とはいかに異なることか。キリストはこんな道を選択する必要はなかった。罪もないのに、こんな道理に合わない役回りを引き受ける理由はなかった。「おまえたち下賤な罪人は」と、矛先を罪人に向け、非難していればよかった。だがキリストはこの損な役回りを引き受け、忍従をもって遂行された。

キリストの謙遜を知るために、参考として、詩編18篇35節を開こう。「あなたの謙遜はわたしを大きくされます」。ここは神の謙遜についての言及である。「謙遜」の原語の意味は、「かがみ込む、下降する」である。そして、この節では、「自ら降りる」という自発的な下降が言われている。それはまさしくキリストがそうであられた。キリストはある時、手ぬぐいを腰にまとい、かがみ込んで、弟子たちの足を洗われた。それは本来、召使の仕事であった。そして十字架の死は、強盗、殺人犯、奴隷の死に方であった。

私は、神の謙遜ということを思い巡らしていたある日の夜、夢を見た。私ともうひとりの男性クリスチャンが路肩に立っていた。すると、その男性は不注意にも道路に飛び出した。ちょうどそこに車が通りかかり、彼は車にはねられそうになる。間一髪、はねられずに済んだのだが、車からこわい形相をした運転手が降りてきた。そして、殴りかかってきそうな様子でこちらに近づいてきた。私は、自分と一緒にいた男性クリスチャンが当然殴られると思った。彼が飛び出したわけだから。ところがその運転手は、道路に飛び出したのは私であると勘違いし、私に殴りかかってきた。「何でぼくがやられなくちゃいけないの」と困惑しながら頭を抱えている私に向かって、その運転手はガ~ン!と一発見舞った。イタッ!と思ったその瞬間、目を覚ました。この夢の後、直感的にキリストの謙遜を思った。キリストは殴られたどころではない。それプラス、死の一歩直前まで打ち叩くという鞭打ちの刑にあった。そして、壮絶な十字架刑。キリストはそれを、自ら進んで受けられた。何で罪人たちの代わりに自分が受けなければならないのと、不満を口にすることなく。キリストは私たち罪人にいのちのすべてをささげる価値を見出していた。そして私たち罪人のために十字架の死まで忍従してくださった。ならば、私たちは互いに互いをどう見なければならないだろうか。

9節「それゆえ、神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」神はへりくだる者を高く挙げられるという事実を、キリストの高挙から教えている。低くなる者は高くされるという原則がそこにはある。キリストは低さのきわみ、極限を選ばれたので、高さにおいても極限の高さまで挙げられた。だが、自分のプライドにしがみつき自分を高くする者は、やがて低くされ、恥を見るであろう。

10~11節「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるすべてのもが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」これらの節において、神の栄光が人間の歴史のみならず、全宇宙の、全被造物の歴史の究極の目標であることが記されている。私たちは日ごろの祈りにおいても「御名があがめられますように」という賛美の祈りが第一に来る。

今見てきた6~11節は、原始キリスト教の讃美歌、キリスト讃歌に基づいているわけだが、パウロがキリスト讃歌を持ち出した理由は、私たちを謙遜にさせるため、その謙遜によって一致を与えるためである。謙遜が一致に結びつくという視点は新約の書簡において一貫している。コリントの教会は仲間割れ、争いがあったが、コリント人への手紙を見ると、パウロの処方箋は、人間的なものを誇らないことにあった。コリント人への手紙には、誇り、思い上がり、高慢といったことばが数多く登場し、パウロが彼らの問題の核心をついていたことがわかる。ヤコブの手紙では、4章の冒頭で「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう」とあり、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになる」というみことばに進み、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがを高くしてくださいます」(10節)と結論づけられている。

私たちは自分はどうかと内省しなければならない。へりくだることを忘れ、自己防御に懸命になってはいないか。自分の金メッキのプライドを守ることに懸命になってはいないか。自分を正当化することにやっきになっていないか。つまらないプライドにしがみつき、それを傷つけた者を赦せないとやっていないか。周囲だけをかたくなな者にしてしまい、自分のかたくなさを忘れてはいないか。その心は神から離れていないか。ところが私たちは自分のことは棚に上げて人をさばいてしまう。そこにエネルギーを費やす。私たちが他人のためにエネルギーを費やすというのなら、それは他人を理解することであったり、仕えるというプラスのものでなければならないだろう。

今日は宝玉のようなキリストについてのみことばを学んだ。謙遜の模範として、キリストの天から降り天に帰るという足跡をたどった。注目に値するのは、やはり十字架の死である。キリストの十字架は、神の謙遜のしるしであり、この歴史上、類を見ない謙遜のきわみであったのである。罪人の間には見られない謙遜であったのである。天の栄光も位も身分もかなぐり捨て罪人を救おうとしたキリストの謙遜が、私たちの模範であり、教会一致の土台である。各自がこのキリストの謙遜の模範に倣うことを心がけなければ、教会は健康でいることはできない。

キリストはやがて、弁解の多い私たちに対して、「では、あなたは、わたしほどに謙遜であったのか」と、問われる日が来るのではないかと思う。このアドベントの期間、キリストの低くなられた生涯に思いを潜めていこう。次週は別の角度からキリストの謙遜に光を当てることとする。