6~11節は、キリストとはどのようなお方なのかを知る上で、欠かすことのできない箇所であると言われている。この箇所は当時歌われていたキリスト讃歌に基づいているとも言われている。そこには、キリストの下降(天から下に降りること)、十字架、高挙(天に高く挙げられること)が記されている。実にすばらしいキリストの描写である。見落としてならないことは、なぜこのみことばが記されるに至ったのかということである。この箇所はキリスト論の研究の的とされるが、なぜこれが書き記されるに至ったのか、それが見落とされる。だが、そうであってはならない。キリストが天から下り天に昇られたことが書き記された理由は、以外にも、クリスチャンたちが一致するためにである(2節)。

ピリピの教会は比較的健康な教会であった。コリント教会のように争いの絶えない教会ではなかった。けれどもヒビが入りかけていた。次のように言う方がいる。「ピリピの教会は家族的であり、特に女性によって支えられていた。そのことはピリピ教会の特色であったが、また弱点でもあった。パウロに対しては信頼と親愛の情をもって宣教の働きを助けてきたが、また、ささいなことで人間関係がもつれることがあった(ピリピ4:2~3)」。しかし、ピリピ教会は全体的には、どうにかこうにか一致を保っていた(1:27後半)。パウロはこの一致が壊されないために、2章に入り一致の勧めをしている。2節では一致を強調するために、一致を様々な言い方で表わしている。「一致を保ち(直訳:同じ思いを持つ)」「同じ愛の心を持ち」「心を合わせ」「志を一つに」。私たちは性格、個性は様々。物の見方考え方も一様ではない。でも一つとなれるはず。それはちょうどオーケストラにおいて、打楽器、木管、金管、弦と楽器は様々でも、調和をもって一つの音楽を奏でることができるのと同じである。

パウロは3節前半において、一致を妨げる要素を二つ挙げている。一つ目は「自己中心」。一致を妨げるのは意見の違いではなく、自己中心。それは自分にのみ関心を払うこと。私は、私に、私を、私がと、どこまでも自分にのみ関心を払う。他人の利益ではなく自分の利益を考える。そのことのゆえに、一致が失われ、不和、分裂、仲たがいが生じる。オーケストラの内情を聞くと、個々の能力が高いオーケストラが必ずしもすぐれたオーケストラなのではないという。つまり、能力は高くとも俺流を通したがる団員がいるとだめなのだという。一致を妨げる二つ目のものは「虚栄」。このことばは、ねたみの精神や怒りを含むことば。対抗心で心が燃えている。自分を他人の上に持ち上げたくて仕方がない。つまりは自分のプライドにしがみついているわけである。「私のほうが先輩、私のほうが経験年数長い、私は学校の先生やってきた。」「私はたとい経験は浅くても新しい知識だったらこっちのほうが上」と対抗心が生まれる。どちらも自分の主張を譲らず、互いに聞く耳を失う。怒りやねたみで心が毒されてしまう。

パウロは3節後半で一致のカギを述べている。「へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者」と思うこと。すなわち「謙遜」である。我を捨て去り、まちがったプライドを捨て去った謙遜である。謙遜は自己中心や虚栄とは反対の性質。仲たがいやいがみ合いがあるならば、そこに謙遜がないということであり、自己中心や虚栄で支配されているということである。霊的一致があるならば、そこは謙遜で支配されている。一致のカギは謙遜。パウロはこの事実を皆に受け止めてもらいたい。こうしたメッセージをしていて牧師としてしばし経験することだが、「先生のメッセージの通りです。あの人は謙遜にならなればなりません」と言って、さばきの視線を他人に向け、その人自身、周りの人たちから、謙遜になってくれればと思われていることを忘れている。

未信者の方々のことも考えてみたい。神さまはこの者に、ある時、突然、一つの思いを入れてくださったことがある。それは信者と未信者との違いということ。信者と未信者の違い、それはある意味、救われているか救われていないかの違いにすぎない。人間として全く同じ。信者は恵みによって救われたにすぎない。それで思った。「今見渡している人たちと自分は何も変わらない。自分は誇れる者ではないのだ」。もし未信者の方を見て、あの人は田舎の出だとか、不道徳だとか、酒飲みだとか、かたくなだとか言って軽蔑するなら、それは傲慢なパリサイ人と同じ。パリサイ人たちは、キリストの弟子たちが田舎のガリラヤの出だからといって見下げていた。またキリストとともにいたガサツで不道徳な人たちを見て、やはり見下げていた。そうであってはならない。人は見下げられると、その人に近づきたくもなくなってしまう。

キリストはある時、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったと思うのですか」と質問を投げかけられ、「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないならば、みな同じように滅びます」と傲慢を戒められた(ルカ13:4~5)。私たちは他人との比較の中でどうしても自分を持ち上げてしまう。客観的に自分を見ることができない。

今日の箇所では教会内での背比べが意識されているわけなので、私たちは同じ兄弟姉妹を見る目も考えなければならない。世界中を駆け巡っているある伝道者は、「私たち夫婦で世界中を御用させていただいているが、教会内の互いに赦さないスピリットに触れて悲しい思いがする」と言っている。主の祈りに「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」がある。この祈りの意味をご存知だろう。これは相手を非難し裁く前に、まず、あなたと神との関係はどうなのかを自己問答しなさいということ。私たちが神に向かう時に、「私もまた赦されなければならない存在にすぎない」ということに気づかされる。このへりくだった立場に立つと、相手を赦すことができるのである。つまり、罪を犯した相手と自分を同じ立場に置くことができる時に本当に赦せる。けれども傲慢になって同じ立場に立つことができなくなるから赦せなくなる。傲慢になると相手のことばかり見えて、自分のことは見えなくなる。けれども、逆でなければならない。人を裁くエネルギーの10分の1でも自分に向ければ、何かが変わってくる。

では謙遜であるとき、積極的にはどのようなかたちをとるのだろうか。それは他人を尊敬するということ。「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」。これは相手を見下げたり、非難したり、さばいたりすることではない。すべての人間は神のかたちに造られているのだから、すべての人間は尊敬するに価する。ある人は言う。「この世で一番大切なものは、一人一人の人間に対する尊敬である。私の言う一人一人の人間に対する尊敬とは、一人一人の人間の重要性と価値を、積極的に日々認識することを言っているのである。この世のすべての人間は神の被造物であり、一つの目的のために存在し、人間として私の尊敬を受けるに価すると信じている」。私たちはともすると、身分、肌の色、家柄、学歴、能力等で分類と格付けを行ってしまい、一皮むけば、皆同じ神の創造の作品であることを軽んじてしまう。一人一人が固有の尊い存在であることを見失ってしまう。先の人は次のように言う。傾聴に値する。「誰であれ、非専門職の労働者のことを『あいつはただの職人さ』だとか、『ただのセールスマン』だとか、ただの『某なんとか』などという人には腹が立つ。みんな神の御姿に似せて造られた、温かい施しを与える、複雑極まりない人間、誇りと能力をもって自分の務めを果たしている人間である」。私たちはまちがったプライドを捨て、相手を聖書的人間観に基づいて見る必要がある。その人の出身地だとか、身分だとか、服のほころびだとか、乗っている車だとか、どういう功績をあげただとか、そういうことにしか目が入らなければ、人間に対する本当の尊敬の念を持つのは難しくなる。

尊敬を心がけるというのであれば、私たちは年下の者を見下げたりしてもならない。実はこれも当時の社会で良くあったこと。ことに子どもは価値の低い者として見下げられた。マタイ、マルコ、ルカの三福音書に共通のエピソードがある。人々が子どもたちをキリストのもとに連れてきた時に、弟子たちはそれを見て叱った。キリストのその時の反応をマルコ10章14節はこう伝える。「イエスはそれをご覧になり、憤って」。これは当時、子どもたちが見下げられていたことが社会背景にある。キリストはそうした見下しを許さない。そしてキリストは続いて、弟子たちを含め周囲にいた人々に、子どものようになることを教えられた。それはズバリ、謙遜になりなさいとのメッセージである。心貧しくなり、肉的なプライドを捨て去ることである。

謙遜がもっと難しいのは同じ年の頃の人たちに対してかもしれない。比較が生まれ、ねたみ、そねみが生まれ、相手を自分よりすぐれた者と思いたくなくなる。また難しいのは同じ職業の人たちに対してかもしれない。変なライバル意識が生まれてしまう。事実はどうであってもすぐれた者と思いたくない。引きずり下ろしたくなる。非難というのは、相手を叩き低くする戦法。自分のプライドがそうしているわけだが、そのようにして背比べで負けないようにしている。私たちはどうしても「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と思いたくはない。自分が持ち上げられたい。上に上にと行きたい。人の評価にしがみつきたくなる。過去の業績や今自分がしていることを誇り、人からの栄誉を受けたいと願う。ライバルは叩きたくなる。

もし、私たちがへりくだって相手に対して尊敬の念をもつことができれば、どうなっていくのか。相手に対して注意深くなる。あの人はこうだろうと勝手に決めつけて判断したり、何言っているのと一蹴したりせず、相手の意見、相手の考えに耳を傾け、良き理解者となっていくだろう。互いに理解し合うことによって同じ思いを持つに至る。先に、2節の「一致を保ち」の直訳は「同じ思いを持つ」であることをお話しした。同じ思いを持つ、そこに自己中心や虚栄が入る要素はない。互いに相手に関心を向け、みなにとって一番良い事は何かを思考していくようになる。この姿勢が4節で言われている。「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」。一致は自分のことだけではなく、相手のことをおもんぱかることによって達成される。「他の人のことも顧みる」の「顧みる」とはどういう意味だろうか。原語では「目を注ぐ、注目する、注意する」といった意味のことばである。「顧みる」の訳語の他に、「注意を払う、関心を払う、心にかける、気にかける」といった訳語が可能である。自分のことだけではなく他人のことに対してそうするのである。そして日本語では訳し出されていないが、原文では「おのおの」ということばが4節で2回使用されている。原文を直訳してみる。「おのおのが自分のことだけでなく、他人のことにも、おのおのに関心を払いなさい」。一致はだれか一人が心を砕けばそうなるという問題ではなく、おのおのが、めいめいが、一人一人が他の人のことに注意を払い、関心を払って、初めて達成される事柄なのである。「おのおのが自分のことだけではなく、他人のことにも、おのおのに関心を払いなさい」。それは一致を保つためという文章構造である。

パウロはこの後に、一致を保つための謙遜の模範として主キリストを取り上げていく。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」(5節)と。私たちは自分の態度や言動を正当化したいのだが、キリストの模範が私たちの口をふさいでしまう。キリストの謙遜は「キリストの謙卑」とも表現する。キリストは自己中心ではなく、虚栄心を持たなかった。謙遜の極致の生涯を生きられ、ご自身を犠牲にして私たち罪人に注意を徹底的に払い、救いのみわざを全うしてくださった。私たちは上に上にと気持ちが向かう。しかしキリストは下に下にの生涯を歩まれた。私たちのために!次週は6~11節から謙遜の模範として、下に下にと向かわれたキリストのストーリーを味わいたい。

今日の学びからは、謙遜が一致の秘訣であることを受け止め、自分はまちがったプライドにしがみついていないか、他の人を見下すくせはないか、内省し、謙遜を身に着け、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うこと、他の人も顧みる姿勢をもつこと、そのことを心がけていきたい。