前回の18章では、サウル王のダビデに対する殺意に満ちたねたみと主の守りを見た。サウルは戦いの最前線にダビデを送り込んで殺してしまおうとさえ計った。けれども全能の主の御手がダビデを危険から守った。ダビデは戦死するどころか、サウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげることによって、人気はますます高まっていく。それとともに、サウルのねたみと殺意もますます高まっていく。本日のテーマも前回同様、主の守りである。

とうとうサウルは自分のうちにため込んでいた殺意を身内に明かすことになる。「サウルはダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた」(1節前半)。トップシークレット、スタッフミーティングが開かれることになる。ダビデの暗殺計画についてである。だが、これらも失敗に終わる。主の守りによってそれは成らない。ダビデの謀殺プラン、抹殺計画は失敗に帰する。19章には四つの守りのエピソードが記されている。何か、映画を見ているようなストーリーとなっている。では四つの守りを順番に見ていこう。

第一は、ヨナタンの仲裁である(1~7節)。サウルの息子ヨナタンは、ダビデを非常に愛していた(1節後半)。ヨナタンはダビデを安全な「隠れ場」に連れて行く(2,3節)。その上で、父サウルにとりなす(4,5節)。ヨナタンの弁論は理路整然としていて、反論の余地がないものだった。①ダビデはあなたに罪を犯していない。それどころか非常に有益な利益をもたらしてくれた。②ダビデはいのちをかけて戦い、イスラエルを救った。③あなたはそれを喜んだはずだ。④罪のない者を殺すことはあなたの罪となる。反論の余地のないヨナタンのことばにサウルは折れることになる。「主は生きておられる。あれは殺されることはない」(6節)。ヨナタンはダビデを引き戻す。ダビデは以前のようにサウルに仕えることになる(7節)。サウル王の側近として仕えることになる。このように、誰かの仲裁によって助けられるということがある。

第二は、間一髪、身をかわして逃げる(8~10節)。ダビデは上官として戦いに復帰し、戦果を挙げ、また以前のように竪琴を弾いて、サウルの音楽療法士の務めをしていた。ダビデの奏でる音色は若干の精神的安定をもたらしたとしても、サウルの殺意に対しては効果はなかった。サウルは槍でダビデを突き殺そうとする。サウルと対峙するこの場面でも主の守りの御手があったことは疑いを得ない。この時は、身を避ける、逃げるという手段で難を逃れた。先の8節を見ると、ペリシテ人たちがダビデの前から逃げたことが記されているが、今度は自分が逃げる番である。

第三は、ミカルの機転である(11~17節)。夜に家に帰ったダビデ。しかし、家はサウルの手下どもによって見張られていた(11節)。サウルは殺し屋たちを派遣したということである。朝になったら機を見て殺害してしまう計画であった。妻のミカルは殺し屋の気配に気づき、その位置もわかったようである。そしてミカルの機転で、サスペンスに満ちた救出劇が行われることになる。ミカルはダビデを窓から降ろすと、偽装工作をして時間稼ぎをした(12~16節)。映画で監獄から脱獄する物語を見たことがある。自分の寝床に手作りの人の頭を置いて布団をかぶせ、さも寝ているように見せかけ、脱獄したことを気づかれないようにしたが、それと似たような、まさに映画さながらの物語である。ダビデはサウルの敵となってしまっていたが、皮肉にもダビデは二回連続、サウルの家族によって難を逃れることになった。初めはサウルの息子のヨナタン、今度はサウルの娘ミカル。サウルの息子も娘もダビデを助けた。

第四は、超自然的な主の守りである(18~24節)。ここでは、目につく人の介入も、身をかわしたとかいうような場面もない。敵たちが自ら戦意を喪失してしまうという不思議な出来事である。ダビデは家を飛び出し、すぐ近くのラマのサムエルのもとに逃げた。そして胸中をこの年老いた預言者に告げた(18節前半)。サムエルはこの後、ダビデとラマのナヨテという地に住む(18節後半)。ダビデは人間的にはどこに住もうと安全であるという場所はない。サウルはすべての地域に情報源を持っていた(19節)。だから、逃れるのに容易ではない。そして、サウルの警察隊がダビデを捕らえに来た(20節前半)。絶対絶命のピンチである。しかしここで、予想もしていなかった驚くべきことが起こる。捕らえに来た警察隊は神の霊に捕らえられ預言をする(20節後半)。こうしたことが二度三度と繰り返される(21節)。二度目に遣わした警察隊も預言をする。そして三度目に遣わした警察隊も預言をする。こうしてダビデを捕まえることができない。この場面の預言で押さえておきたいポイントは、彼らは預言することによって主の忠実なしもべになったとかそういうことではなく、不可抗力の神の霊の働きによって、殺害の意志が骨抜きにされてしまったということである。警察隊を何度派遣してもうまくいかないサウルはしびれを切らす。いったいどうなっているのだと、今度はサウル自身がラマに赴く(22節)。そして、このサウルにも神の霊が臨む。サウルは預言を始め、そしてサムエルのところに到着すると、裸になって、みじめな姿で地面に打ち伏せられ、ノックダウン(24節)。恍惚状態で預言をし、意識も失ってしまったようである。私たちはサウルは何を預言したのだろうかとか、そこに関心が行くかもしれないが、意識が混濁するほど、戦意が喪失してしまったということに心を留めなければならない。先の警察隊のように、殺害の意志が骨抜きにされてしまったわけだが、特にサウルには神の霊が強く臨んだようで、ノックダウンをくらってしまい、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。誰かがサウルを殴ったわけではない。神の霊がそうした。まさに超自然的な主の守りである。こうしてダビデはまた難を逃れた。私も振り返れば、主が相手の動きを突然制したということがあった。

ダビデは、サムエルであれば何とかしてくれると思い、サムエルのもとに行ったと思うが、サムエルは具体的に何をしたのだろうか。目に見えるところはさして何もしていない。では、サムエルは何もしてくれなかったかというと、そうではないだろう。ただ食べるものを用意してくれたとか、寝る場所を用意してくれたとか、話を聞いてくれたというだけではなく、ダビデとともに祈ったのではないだろうか。サムエルは神に訴えるさばきつかさ、預言者である。12章23節には、イスラエルの民に向けたことばとしてこうある。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない」。彼は自分の務めはとりなしの祈りにあることを強く自覚していた。自分が油を注いだダビデの危機に際して、当然祈っただろう。そして、サムエルが想定していたみわざであったのか、そうでなかったのかはわからないが、主の超自然的な守りが起きた。神の霊が敵対者たちを制した。

最後に、主の守りの手段をまとめてみよう。私たちは身をかわすとか、逃げるとかいう手段もとるわけだが、他者がかかわることが多い。主は私たちを守るために人間を用い、通常の手段を用いられる。主がヨナタンやミカルを用いてくださったように。そして用いられるのは、必ずしも信仰者とは限らない。私が幼少の時、沼で溺れた時は父親を用いてくれた。中学生の時、川で溺れた時は友人を用いてくれた。大学生の時、旧統一教会に行きたい旨を姉に話すと、姉がもし行くならキリスト教会に行くようにと方向性を定めてくれた。農家の長男の私が牧師になることを親に認められたのは、東京に住んでいた姉が私に代わって家に入ると言ってくれたからであった。私は仏教の葬儀に参列する機会が非常に多い。そこで偶像崇拝行為になることは一切しないが、しかし、一度だけ、狭い異様な空間で焼香が回ってきた時、心の中で強いあせりを覚えたことがあった。その時、年上の従兄がすすっとお坊さんの所に耳打ちに行き、焼香しなくても良いように取り計らってくれた。それは想定外の助けであった。もちろん、信仰者の方々に助けられたことも数ある。また私たちがヨナタン、ミカルになって人を助けたことも数あるだろう。それは、神さまが私たちを用いてくださったということである。私たちとしては、右の手のしたことは左の手に知らせないように、のスタンスである。

そして、主の超自然的守りというものは現代もある。人の襲来、自然災害、事故からの守りにおいて、そうした証がある。主は御使いを遣わしたのではないかという事例も数ある。旧約聖書や新約聖書にもそうした事例がある。へブル人1章14節には、「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に遣わされているのではありませんか」とある。

主の超自然的な守りととりなしの祈りの関係についてもお伝えしておこう。サムエルの場合、先に述べたように、主に訴えたはずである。24節の「彼(サウル)もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言をし」が意味深で、サウルはサムエルの前で無防備となり、心の刃もへし折られている。サムエルはダビデが守られるために自分の役割を果たしている。彼はダビデの守りのために祈り、霊的な役割を果たしたはずである。とりなしの祈りが働くというのは私たち自身経験していることだが、一例だけ挙げておこう。

ジェイコブ・ディシェーザーという日本で宣教師を務められた方がいる。ディシェーザーは、第二次世界大戦時に戦闘機に乗って名古屋を中心に爆撃をしていたが、機体の異常で中国本土に向い、墜落前にパラシュートで降下した。彼のお母さんは敬虔なクリスチャンであった。このお母さんは息子がどこに配属されたのか、全く知らなかった。ある晩のこと、主は彼女に強い重荷を与えた。「私はある晩のこと、突然目が覚めて、何だか下へ下へと落ちて行くような不思議な感覚に襲われました。それは私のたましいに重くのしかかった恐ろしい重荷でした。私は苦しみのあまり、神に祈り、叫びました。しばらくして、その重荷は突如としてなくなりました」。その後、彼女は、息子がパラシュートで飛行機から脱出できたことを知らされた。その時間を調べてみると、主が自分に警告を与えて祈らせた時間と一致していた。

ディシェーザーがパラシュートで降下した地点は日本軍の占領地で、彼は日本軍の捕虜となってしまった。彼は日本兵の残虐さに日本人を憎むようになった。その頃、主は母親に対して、息子の救いのために大きな重荷を与えられた。彼女は必死になって祈り、勝利を得た。主はイザヤ55章9節のみことばを思い出させてくださったそうである。ちょうどその頃、主は捕虜収容所にいる息子に語りかけてくださり、彼は自分と自分の生涯を主に明け渡したのである。彼の救いのきっかけは、独房に日本人看守が聖書を差し入れてくれたことにあった。彼は聖書をむさぼるようにして読んで、十字架の意味がわかった。そして、キリストの十字架上の祈り、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23章34節)の祈りの通り、憎んでいた日本人を赦せるようになっていく。

しばらくして、これらの捕虜たちが処刑されようとしているというニュースが伝わった。それを聞いたお母さんはたまらなくなり、また必死に祈った。すると主が「御使いが彼を守っている」と言われたように思われ、心に平安が戻ってきた。捕虜は四人で三人は処刑されたが、ディシェーザーは奇跡的に助かった。彼はまだ捕虜であったとき、「神さまが自分を捕虜から救い出して自由の身としてくださるのであれば、日本に戻って日本の宣教師として十字架の愛を伝えます」と約束していた。彼は捕虜から解放された後、アメリカの神学校で学び、日本に戻り、宣教師として30年間仕えることになる。

主はこの母親のように、ある人の危機に際して、強い重荷を与えて祈らせることがある。これは私自身も経験させられた。私たち自身は隠れ場を用意したり、機転を利かせたりというような行動には出られなくとも、とりなしの祈りにおいて参与できるのである。それが主が与えた重荷であるならば、自分の務めとしてしっかり祈ろう。「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます」(第二コリント1章11節)。これは、絶えず危険と隣り合わせでいなければならなかった使徒パウロのことばである。