「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(ヨハネ1章9節)。本日のキーワードは「光」である。皆様は光に何をイメージするだろうか。「すべての人を照らす光」というときに、自然界では太陽の光を思い出すと思う。太陽の光は、闇を光とし、凍り付いたものを溶かし、死をいのちに変え、植物を芽生えさせ、すべての生き物に恵みを施し、喜びを与えるものである。それは全世界を照らす光である。人々は日の出を待ち望む。そして昇る太陽に、威厳と同時にいのちを育む慈愛を感じる。太陽が雲に隠れてしまった場合、その薄暗さと冷えで、太陽のありがたみを強く感じることがある。特に冬の季節は。夕映えの時間帯はその光を名残惜しむ。太陽が沈むと、被造物界は静まり、夜を迎える。そして日の出を待ち望むことになる。それは夜明けの光として歓迎される。

天文学者や科学者は、地球が太陽の光を失ったらどうなるのかというシュミレーションをしている。素人でも想像がつくのは、太陽の光を失ったら暗闇となり、極寒となり、植物は光合成ができず、生態系は壊れ、死の世界がやってくるということである。人類滅亡である。太陽は人類にとって必要不可欠な偉大な存在である。太陽はその偉大さのゆえに、全世界で古代から礼拝の対象にさえなってきた。

だが、聖書が教えている「すべての人を照らすそのまことの光」は地味である。地味で目立たないかたちで、この地上に届いた。それは二千数十年も昔の話である。聖書を見ると、この世界を創造された神が「光」と言われている。その神がまことの人となって、救い主として、人々の光として地上に来られた。処女降誕という方法を通してである。生まれた子どもの名前は「イエス」。父親はヨセフ、母親はマリア。「イエス」も「ヨセフ」も「マリア」も名前自体は当時にあって平凡な名前である。古代ユダヤ人の名称の統計がある(紀元前後の統計)。ユダヤ人名称の人気ランキングベスト80を見ると、マリアは女性の名称で一位。ヨセフは男性の名称で二位。イエスにしても80番中六位と、ありふれた名前である。三人はイスラエルの北の地方の「ナザレ」という村で生活を営むのだが、「ナザレ」は、当時の文書にも名称が挙がって来ない地味な村である。中央からすれば、地方の田舎の村で、卑しめられていた村である。世間の関心から外れていた村である。ヨハネの福音書1章46節には「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というセリフがある。しかし、良いものが出た。救い主であるまことの光が出現した。後に呼ばれる「キリスト」という呼び名は、救い主を意味する称号である。
親となるヨセフとマリアは生活ぎりちょんの貧しい夫婦である。社会的にも地味な夫婦ということになる。そして一家のリーダーとなるヨセフは性格的にも、これまた地味の感がある。今回、聖書を読んでいてあらためて気づいたが、ヨセフのことばはどこを読んでも一つも記されてない。マリアのことばは数々あれど、ヨセフのことばは皆無である。古文書の一つに、ヨセフは口数の少ない男であったことが記されているが、それはあながち外れていないだろう。いずれ二人はイスラエルの地方の在で埋もれていた、無名の卑しい存在に過ぎなかった。

そして、救い主という「すべての人を照らすまことの光」は、なんと家畜小屋で生まれたわけである。干し草匂う地味な場所である。生れたのは旅先で向かったベツレヘムという村である。生まれた時刻は羊飼いたちが夜の見張りをしていた時間帯のあたりである。町の喧騒とは無縁のひっそりとした時間帯である。そしてこの誕生は、職業としては当時にあって低く見られていた羊飼いたちにだけ、「キリストがお生まれになった」と御使いを通してお告げがあった。彼らの他に、救い主の誕生に気づいた者がいたかどうかはわからない。キリストは義の太陽と言われることがあるが、太陽になぞらえるとすると、あまりに目立たず、ひっそりとしすぎているように思える。そして弱々しい光のように思える。踏めば死んでしまう赤子として生まれられた。偉大さとはかけ離れている。これで、「すべての人を照らすまことの光」なのだろうか。

けれども、まず気づかなければならないことは、人間が人間として生きていくために必要であるからこそ、キリストは「光」と呼ばれている。聖書はどうやら、人間が人間として生きていくためには、下界の光だけではなく、たましいの光が必要であると言っているようである。人間はただの生物ではない。当然のことながら、ロボットでもない。人間の特徴は、神を求めて、神とのつながりのうちに生きる存在であるということである。聖書は、この神を見失っている状態を闇と呼んでいる。神ご自身が光である。キリストには「まことの光」ということばが適用されているが、古代より、「光」というのは神々や神聖な存在のシンボルとして用いられてきた。この時代の異端的な宗教も「光」ということばを使っていた。だから、著者のヨハネは「まことの光」と言って、キリストを信頼させようとしている。

光の性質について、少し考えてみたいと思う。光には調べるという働きがある。光によって調べるものにX線がある。レントゲン検査でお世話になっている。X線が私たちのからだの内側を明らかにするように、神の光は私たちのたましいと行動を見通し、調べ上げる。心の中のはかりごとも、闇に隠れてした行いもすべて照らし出す。この神の光を逃れることができる者は誰もいない。「すべての人を照らす」のである。よって、この光は嫌われることにもなる。ヨハネは3章18,19節で次のように述べている。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」。泥棒は夜陰に乗じて忍び込むと言われているが、夜の闇に身を隠して行動したいわけである。

光を警戒し暗闇を好む生物の代表格にはネズミがいる。ネズミは光を警戒し、できる限り暗闇を選ぶ。だから、ネズミを退散させるために今、LEDライトの光が用いられている。ネズミは光を嫌って逃げ去る、また近づかない。だが私たちは、そのような光を嫌うネズミや泥棒になることは望まれていない。

ヨハネが「光」ということばを使うとき、私たちがネズミのように退散することが目的で、「光」と言っているのではない。神の光は私たちの罪を照らし出す働きをするが、神の光は本来、私たちを生かすいのちなのである。古代世界より光はいのちのシンボルとされてきたが、聖書も光はいのちを与えるものであると語っている。「まことの光」の大切な働きも「いのち」を与えるということである。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(1章4節)。このいのちを求める人は幸いである。ヨハネは他の箇所で、このいのちを「永遠のいのち」と説明している。いのちの灯が消えるといった表現があるが、それは肉体のいのちのお話で、キリストは私たちに永遠のいのちの灯を灯してくださる光である。

この永遠のいのちは、神ご自身の本質である。私たちは神とともに生きるように造られている。だから、私たちは永遠のいのちである神のもとに立ち返り、神と結び合わされることが必要なのである。神を見失って、神から離れていて、いのちがあるとは言えないのである。皆さんは「生ける屍」ということばを聞いたことがあるだろう。実は、このことばは、クリスチャン作家のトルストイの戯曲の題名である。体は生きていても、ただ生きているだけのような、精神が死んだ状態を「生ける屍」と言う。私たちが本当の意味で生きた者となるためには、たましいに神のいのちをいただいて、神との関係を回復することが必要なのである。

ある人が、本当の宗教は、来世がどうのこうのではなく、この地上での人生のためのものだろうと私に話してくださったことがあるが、キリストが与える「いのち」とはまさに来世のためだけのものではなく、この地上の人生に働くいのちなのである。このことについて考えるために、光と反対の性質の「闇」についても触れておきたい。古い歌に、鶴田浩二の「傷だらけの人生」がある。冒頭のセリフに「今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」がある。もちろん、電気が消えた暗さを言っているのではない。世相の暗さである。りっぱな人格者がこれを言っているのではなく、日陰育ちのひねくれものがこれを言っているという設定である。では世の中の闇の本質を知ろう。太陽が沈めば闇が訪れるように、神を見失っている状態が闇である。それは色々なかたちで現れる。警察沙汰になる事件ばかりと限らない。空しさもそうである。「私の人生にはどんな意味があったんだろう。わからない」。こうした空しさやストレスから来る欲求を、人の優しいことばや何かで満たそうとしても満たされない。すべては気晴らし程度にしかならない。また、家族関係でうまくいかず、仕事で失敗し、災難にも遭う中で、自分が人生の迷子になったような感覚にとらわれる。こうした迷子感もそうである。そうした中、この世の何かや誰かに救いを求めても、根本的解決にはならない。心の中心が空虚のため、孤独感にもとらわれる。未来に目を向けると、「これから先、どんな希望があるのだろう」と、強い不安も来る。未来は濃い霧がかかったままである。確かない希望が見えない。こうした空しさの闇、混迷の闇、孤独の闇、希望喪失の闇。それらはすべて、神との関係が損なわれているところから来る。ある人は言った。「神以外のものに救いを求め、それを心の支えとして自分らしく生きようとする私たちの性質、—それが罪です」。「神以外のものに救いを求める」、すなわち、モノや金、人、人がこしらえた神様、快楽、自分の力など。それらが何であってもまことの神の代わりとはならない。そこにあるのは罪の暗闇である。この罪の暗闇からの救いを与えてくださる存在として、イエス・キリストは来られた。まことの光として。キリストご自身こう言われた。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです」(ヨハネ12章46節)。

キリストはまことの神がまことの人となられた方として、私たちとは違い、罪のない生涯を送られた。人として30歳になられた頃、罪の悔い改めを説き、神とともに生きる道を教える働きを始められた。そして時至り、私たちの罪を代わりに負って十字架にかかってくださった。その時、「闇が全地を覆った」と聖書は証言している(マタイ27章45節)。闇の勝利なのだろうか。やはりキリストはマッチ棒の光のように、頼りなくすぐに消えてしまう光だったのだろうか。十字架で燃え尽きてしまうのだろうか。いや違う。キリストは三日目に死からよみがえってくださった。まさにキリストの生涯は、1章5節の、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」を証明した。キリストは「いのちの光」「まことの光」なのである。全人類のための光なのである。この光を信じ受け入れるときに、空しさは消え、人生の確かな道筋が与えられ、生き方を変える力が与えられ続ける。妬みや憎しみは愛と赦しに、不安と孤独は喜びと平安に変えられる。そして永遠のいのちの希望をいただく。

私たちはキリストという光を避けることができる。けれども、神はそのことを願ってはいない。この光を避けることなく、自分を救ういのちの光として、キリストを受け入れたい。まことの光であるキリストを心に迎え入れて、共にこのクリスマスを祝いたいと思う。この光はこの世の光と違って、永遠に消えないのである。真の意味で、闇に打ち勝つ光なのである。