今日の物語はダビデとヨナタンの物語である。それは単に友情を超えた物語である。愛とは何かを教える物語である。
今日の物語の背景だが、サウル王はねたみからダビデへの殺意に燃えていた。前回の19章では、サウルはダビデを槍で壁に突き刺そうとした。そしてその夜はダビデの家に刺客を送った。ダビデは預言者サムエルのいるラマに逃げるが、サウルは次々と警察部隊を送り込む。サウルも足を運ぶ。だが主はサウルを恍惚状態にし、正常な意識を失わせ、ダビデを逃れさせる。
ダビデは今度はどこに逃れたかというと、サウルの息子のヨナタンのもとであった(1節前半)。ヨナタンはギブアに住んでいたが、ダビデはサムエルと同様に信頼できる人物のところに足を運ぶ。ダビデはヨナタンのもとに来て、いのちの危険を訴える(1節後半)。ダビデはいのちを狙われるような悪を行ったのか。サウルの利益を損なうような失敗をしたのか。何も、である。けれども、国家の敵であるかのように執拗にいのちを狙われて、ダビデは自分の正当性を主張しないではいられない。彼は首の皮一枚のところまで追いつめられてしまった。3節後半の告白は重い。「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」。ヨナタンに求められていたのは、ダビデのいのちを救うということだった。そしてヨナタンにはその気持ちがあった(4節)。彼はダビデを非常に愛していた(17節)。
ダビデの願いは5~7節にあり、新月祭には野に隠れて欠席するけれども、欠席したことをサウル王が怒れば、私のいのちを狙っていることの証だから、そうであるならば、そのことを知らせてください、というもの。
今日の物語のキーワードだが、それは「契約」(8,16節)である。契約は安全を保障するものである。まさに、今、ダビデが願っていたのは安全の保障である。「どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから」(8節前半)。ダビデはかつてヨナタンと契約を結んでいる。ダビデがペリシテ人のゴリヤテを倒した後である。その箇所を読んでみよう。「ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた」(18章3,4節)。ダビデはこの時に結んだ契約のゆえに、20章8節で、ヨナタンに「真実」を尽くすことを求めている。「真実」<ヘセド>は、契約と切っては切れないものであり、「契約の愛」と言われることさえある。<ヘセド>は旧約聖書で約250回使用され、「真実」のほかに、「恵み」「いつくしみ」「あわれみ」「愛」と訳される。愛と言っても、この場合<ヘセド>は、単なる愛ではない。<ヘセド>の意味は、「真実な愛」「献身的な愛」である。ダビデはヨナタンと契約を結んだ仲であるので、この「真実な愛」「献身的な愛」を要求した。契約そのものが愛の表れであるが、契約に基づいてこの裏切ることのない真実な愛、献身的な愛を要求した。
ヨナタンは自分を愛するほどにダビデを愛していたので、この愛を発揮する覚悟があった。ヨナタンはダビデに真実を尽くし、いつくしみとあわれみをもって、献身的にダビデを支え、守ることに決めていた。ヨナタンはサウルがダビデを殺そうとしているのに、そのことを耳に入れなかったら、「主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように」(13節)と告げている。またヨナタンは、「しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください」(15節前半)と、ダビデにも真実な愛を求めている。「恵み」の原語は<ヘセド>である。8節で「真実」と訳されていることばと同じである。ヨナタンはダビデにも真実な愛を求めている。ダビデは王になった後、ヨナタンの家の者たちを忘れることはなく、この<ヘセド>を実践しようとした。ダビデとヨナタンの個人的な契約は、16,17節を見てわかるように、両家の契約として更新されることになる。「ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ」(16節前半)。
ヨナタンは、サウル王がダビデに対して殺意があるならば、それをダビデに知らせる方法を告げる(18~23節)。それは新月祭の三日目に野で三本の矢を放ち、矢の位置で知らせるというものであった。新月祭の二日目、ダビデの欠席でサウルの怒りは爆発する(27~34節)。ダビデをかばうヨナタンにも怒りは向けられ、サウルはヨナタンにあらん限りの中傷のことばを投げかけ、腹いせにヨナタンに槍を投げつけることまでする。
ヨナタンの反応はどうだっただろうか。「俺のことを何だと思っているんだ。ばか親父」という反応をしただろうか。「ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである」(34節)。ヨナタンは自分がどうのではない。ダビデのために悲しんだ。サウルは31節で「エッサイの子がこの地上で生きているかぎり、おまえの王位も確立されないのだ」と言っているが、ヨナタンはそのようなことは承知している。彼は自分の王位にこだわりはない。だから、18章でダビデと契約を結んだ時に、ダビデに王権を譲渡する行為に出ている。ヨナタンは王になることなど考えていない。それどころか、ダビデのためにすべての犠牲を払う覚悟ができていた。ヨナタンはダビデのために肉の野心は捨てている。彼は心からダビデを愛していた。彼はダビデのいのちが守られ、王に即位してくれることを願っている。そのために真実を尽くそうとした。
翌日、ヨナタンはダビデに対してサウルの殺意を矢を使って教える(35~39節)。ダビデは、自分は去るべきだと知る。ダビデは地にひれ伏し、三度礼をし、ヨナタンの行為に感謝を表す(40節)。
今日の物語から考えたいことは、私たちも契約を結んだということである。誰と?イエス・キリストとである。キリストは最後の晩餐の席でパンを回し、続いて杯を回した時にこう言われた。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタイ26章28節)。キリストの愛はまさしく<ヘセド>である。キリストは私たちを罪と死と滅びから救うために、十字架につき、血を流し、いのちを捨ててくださった。神はキリストを信じる者に、罪の赦しと永遠の安息を保障してくださった。これがキリストの契約である。考えていただきたい。キリストの契約の対象はちりに過ぎない汚れた罪人である。契約の内容は罪を赦して、永遠のいのちを与えるという契約である。そのためにキリストがしてくださったことは、血を流してご自身のいのちを捨てる、ご自身のいのちを与える、というもの。ハンコをポンと押すとか、血判状の契約どころではない。キリストが十字架についてくださったということに、契約の確かさと、契約に込められた真実な愛を見る。キリストの愛はいつくしみと恵みとに富み、実に献身的で、いつまでも揺るぐことがない真実な愛である。キリストの愛はヘセドの愛である。そして、キリストが私たちに求めているものも同じである。献身的な愛、真実な愛である。キリストは言われた。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負って、わたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10章37,38節)。私たちは、キリストの真実な愛に応答したい。
最後に契約を結んだ者には平安があることをお話して終わりたい。42節をご覧ください。「ヨナタンはダビデに言った。『安心して行ってください。私たち二人は、「主が、私とあなた、また、私と子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です」と言って、主の御名によって誓ったのです。』そしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った」。ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください」。サウルはこれからもダビデのいのちをひたひたと狙ってくることがわかっているのに、「安心して行きなさい」と言った。これは気休めのことばではない。契約に基づくことばである。これは別訳すると、「平安のうちに行きなさい」「平和のうちに行きなさい」。契約は真実なものであり、この契約が錨となって、どのような荒波にもまれても転覆することはない、安全である、平安でいられるということなのである。嵐の中の平安と言ったらよいだろうか。聖書が告げる平安は、混乱や苦難が何もないということではない。むしろ、それらのど真ん中にある平和、平安である。キリストは言われた。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16章33節)。このおことばは、最後の晩餐で新しい契約について語られた後のおことばである。私たちが契約を結んだ相手は、いつ裏切るかわからないような相手ではない。いつ破産するのかわからないような相手ではない。この世に呑み込まれ、死んで終わりの相手ではない。契約の対象として、これ以上のお方はない。そして主は契約履行のため、私たちのために十字架で血を流し、いのちを捨てることまでされ、全き救いを保障してくださった。主の契約は真実で、その愛は真実である。この世の契約のように、途中、契約の内容を変えて保障を下げさせてもらうとか、うっかりあなたのことを忘れていたとか、そのようないいかげんなものではない。主の契約は真実で、その愛は真実であるということは、聖餐式で杯をいただく度毎に確認させられる。私たちが主と結んだ契約は、全天全地を見渡して、これ以上はないという最上級の契約である。契約の内容は、罪人に対してこれでいいのですか、という破格のものである。罪の赦しと永遠の安息の保障である。御国の保障である。地上では山あり谷ありはつきもの。だが、人生途上で何があっても、私たちは揺らぐ必要はない。私たちを主キリストとそのヘセドから引き離せるものは何もない。私たちは主の真実な愛の中で守られ、平安の生涯を送ることができる。そして、やがて永遠の安息に入り、主の栄光に与ることができるのである。
私たちは主の契約を疑う必要はない。そこに込められている主の真実、主の愛に全き信頼を置き、その愛の中にとどまり歩んで行こう。

