前回は、ダビデが万軍の主の御名によってゴリヤテを倒し、イスラエル軍はペリシテ軍に勝利をしたところまで学んだ。勝利そのものは素晴らしくダビデの評判は上がったが、それはまた別の問題を引き起こすことになる。1~9節には二つの反応がある。ヨナタンの愛とサウルのねたみである。サウルの息子ヨナタンは、ダビデにすぐれた好意を示す。「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した」(1節)。有名な戒めに「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」があるが、ヨナタンは「あなた自身のように愛する」とはどういうことなのかの模範となっている。3節にも「自分自身のようにダビデを愛した」とあり、彼はダビデと兄弟の契りを結び、そして4節にあるように、自分の装身具や武器までも与えてしまう。この行為は自分自身と自分の地位を与える行為である。ヨナタンは次期の王であったので、それは王権の譲渡をも意味する。当時、近東においてここまでする者はいなかっただろう。けれどもヨナタンは当時の常識にとらわれずに、ダビデにこのことをした。私のものはあなたのもの、あなたにすべてを与えますと。ヨナタンは、人気も栄光も、全部あなたがとってかまわないという態度を示す。このことに、主イエスの私たちへの愛を付け加えておこう。主が私たちに対して与えたものは何であったのか。4節の「ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた」以上の行為、ご自分のいのちを惜しまずに与えてくださった。
これと正反対の態度を示すのが現職の王、サウルである。ねたみからいのちを奪ってしまおう、殺してしまおうという態度になる。6~9節は、ゴリヤテを討ち取っての勝利の凱旋の場面である。女性たちが楽器を手にしながら戦勝の歌を歌う。サウルはそれが気に入らなかった。メロディやリズムのことではない。その歌詞である。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」。これが自分への葬送曲のように聞こえ、ダビデへの嫉妬心がムラムラと沸き起こった。9節にあるように、「その日以来」、その日を機にして、ねたみをダビデにぶつけることになる。サウルは初め、ダビデを大変気に入っていた。「ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼がたいへん気に入り、ダビデはサウルの道具持ちとなった。サウルはエッサイのところに人を遣わして、『ダビデを私に仕えさせなさい。気に入ったから』と言った」(16章21,22節)。これが最初であった。だが、この好意はねたみへと転換する。このねたみ、嫉妬心の由来はどこにあるのだろうか。悪魔にある。悪魔は神を嫉妬し、ねたんでいる。ヤコブは、「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、・・・そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです」(ヤコブ3章14,15節)と言っている。嫉妬心は自分以外の者が良く思われることを望まない。反対に、自分が高められること、あがめられることを望む。この嫉妬、ねたみの罪の根は傲慢である。この傲慢が悪魔の最大の特徴である。
18章はサウルのねたみを煽ることになる表現が繰り返し登場する。まずダビデの勝利について四回の言及がある(*読んでみよう 5,14,15,30節)。主がダビデとともにおられたことが三回記されている(*読んでみよう 12,14,28節)。人々のダビデへの愛の言及が六回ある(*読んでみよう 1,3,16,20,22,28節)。主はダビデとともにおられ、戦果を挙げさせ、そして誰もがダビデを愛した。ヨナタンはダビデを愛した。ミカルはダビデを愛した。イスラエルもユダも誰もがダビデを愛した。このような状況下にあって、サウルはどうだったか。ダビデを恐れたことが三回記されている(*読んでみよう 12,15,29節)。この恐れは恐れ敬うという意味での恐れではない。自分をおびやかす存在だという認識である。だから、サウルはダビデをねたむ。その存在を消してしまいたいという思いにまで発展する。つまりは殺意を抱くということである。以上からわかるように、18章はダビデに対する両極端の二つの反応が記されている。こうした両極端の反応は、やがて主イエスにも向けられることになる。ペテロをはじめ多くの者たちが主イエスに好意を示し、従うことを選び取る。民衆の間でも主イエスの人気は高まる。けれども大祭司、パリサイ人、律法学者といった者たちは主イエスの人気をねたみ、何度も罠を仕掛け、殺害計画を練り、ついには「十字架につけろ」と主イエスを死に追いやることになる。聖書はこう証言する。「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである」(マタイ27章18節)。このねたみも悪魔的なものである。
後半は、ダビデに対する主の守りということを見ていきたい。サウルのねたみは相当なもので、そこから来る殺意は相当なものであったが、ダビデは19章1節の時点に進むまで、自分が計画的にいのちを狙われていることに気づかない。19章1節で、サウルは息子をはじめすべての家来にダビデを殺すことを告げる。「サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた」。その前の18章後半では、サウルによる巧妙な暗殺計画が描かれているが、それは表には出されない。ダビデは本当の意味で自分の身の危険に気づいていない。いやいや、ダビデはすでに気づいていたよと言われるかもしれない。10,11節は、いつもの音楽療法でダビデが竪琴を弾く場面である。サウルは錯乱状態になる。だが、こうしたサウルの錯乱状態は今に始まったことではない。ダビデは、王様はいつもよりかなり不機嫌だと思ったことは確かであろう。今日の感情の爆発はひどいと。しかしこの時、他の家来がいたとすれば、「ダビデ、今日は王様は特に機嫌が悪いんだよ」で済まされたと思われる。家来たちはみな、サウルは感情的に不安定な王様であることは知っていて、腫物にさわるように接しないといけないという思いがあっただろう。ダビデもまた、その不安定さは知っていた。だからこそ、音楽療法を依頼されたわけである。槍を投げつけられるわけだが、計画性のあるものではなく、一過性のものであったわけである。DVの旦那が、奥さん、子どもたちに手を上げ、時には近くにあるバットとか何かに手を出し、暴力を奮ってしまう感覚である。
サウルは、ダビデと距離を置くことを選ぶ。そして、ダビデを千人隊長の長に抜擢する(13節)。これ自体はお互いのために賢い選択であると言える。だが、その後のダビデの活躍と国民のうなぎのぼりの人気は、ダビデを計画的に殺さないではいられなくさせた。手始めに考えたことは、自分の手を汚さずに殺すこと。家来や国民に恨まれでも得にはならないからである。17節以降からわかるように、サウルは王の婿にする約束を口にする。22節では、家来を通して「王はあなたが気に入り」ということばを語らせている。ダビデはそれがサウルの巧妙な罠であることには気づかず、サウルのことばに乗っていく。ダビデは、サウルがどうやって自分を殺そうかと思い巡らしていたということには気づいていない。
サウルは最初、長女メラブを戦いの褒美として与えようとしている(17節)。意図は明らかである。ペリシテ人との戦いで戦死させてしまうためである。それに失敗すると、今度は娘のミカルを使って、ペリシテ人の手でダビデを葬り去ろうとする(21,25節)。26節で言われているように、ダビデにとっても王の婿になることは良いことのように思えた。「王の婿になることは、ダビデの目には良いことに思えた」とある。ダビデはサウルの巧妙な暗殺計画に気づいていない。サウルの意図はダビデの目には隠されていた。サウルが求めていたのは「ペリシテ人の陽の皮百枚」ではなく、ダビデのいのちであったが、サウルの期待に反する結果となってしまう。ダビデは瀕死の重傷を負うどころか、またもや大勝利を治める。そして王の婿となる。サウルはダビデを王として選んだ神のご計画には逆らえない。ダビデを殺そうと図りながらその計画は失敗し、皮肉にもダビデを王の婿とする結果となってしまう。
神は、ダビデをサウルの殺害計画から、その悪から守ってくださった。しかし、その守りというのは、人の目に強烈には入ってこない守りである。ダビデは自分が気づかないうちに守られた。目に見えない主がともにいてくださり、守ってくださった。主の私たちに対する守りということも考えてみよう。私たちもこれまで、自分が気づかないうちに多くのことから守られてきたのではないだろうか。主なる神は人を配置し、タイミングを導き、私たちの心を動かしと、色々な要素を絡めながら、力強い御手で守ってくださったのではないだろうか。自分の機転でと思ったことも主の守りであったのである。自分の力でと思ったことも主の守りであったのである。私たちはこれまで、自分たちが気づかないうちに、どのような守りが行われて来たのかを、思い巡らしてみることが必要ではないだろうか。そうすると、今、自分が生きているのは奇蹟という結論にも達するのではないだろうか。多くのクリスチャンが達するはずである。ダビデが主に守られる過程はこれからも続いていく。
最後に詩篇を二箇所読んで終わろう。
「いと高き隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。」(詩篇91編1節)
「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。」(詩篇121編4節)

