前回は、21節の「私にとっては、生きることはキリスト」というみことばを中心に学んだ。キリスト出会う前の生活の中心は「私」。「私は」「私に」「私を」「私が」と、私、私の人生。すべては私のためでなければならない。このように、生きることは私のため、人生は自己実現のためにあるという人生であった。けれども今は、「生きることはキリスト」、「私の人生は、すべてキリストに捧げられています」という生活に転換することが求められているということであった。そしてキリストのためという人生が、実は一番自分のためになるということであった。パウロは「私にとっては」と語っているが、ピリピの信者たちにも「私にとっては、生きることはキリスト」となる生活を願っている。その具体生活がどういうものなのかは今日の箇所で描かれている。
 「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい」(27節)が今日の中心聖句である。キリストの福音にふさわしく生活する、これがパウロのピリピ教会への切なる願いである。「ただ一つ」ということばから、それがわかる(新改訳第二版は「ただ」)。ピリピ教会はヨーロッパで最初に生まれた教会で、1章5節で言われているように、福音を広めることに積極的にあずかってきた教会である。パウロはその持続を彼らに願っている。27節前半を直訳的に訳すと、「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく市民生活しなさい」。「生活する(市民生活する)」ということばは<ポリス>ということばから造られている。その意味は「都市」。ピリピはローマの植民都市である。それは、ピリピの住民がローマ人としての市民権を持っていたということを意味する。ローマ帝国には市民権を持っていたローマ市民と、その下には市民権を持たなかった自由人、解放奴隷、奴隷がいた。当時ローマ帝国の人口は6000万人ほどであったと思われるが、ローマ帝国は多民族国家で、「ローマ人」という民族は存在しない。「ローマ人」とは「ローマ市民」を指し、「ローマ市民」とは「ローマ市民権を持つ人々」のことである。このローマ人の市民権を持っていたということは名誉なことであった。ローマ市民には選挙権、被選挙権、上訴権、相続権、無料で食糧の配給を受ける権利などといった特権があった。市民権を持つ人々はローマ帝国で最上ランクに位置づけられていたので、誇りをもっていた。この手紙の著者パウロも、ユダヤ人でありながらこの市民権をもっていた。だからパウロはローマ市民、ローマ人でもある。
パウロはここで、「ローマ市民としての誇りをもって生活しなさい」と勧めているだろうか?古代ローマ帝国は国家自体を神として位置づけていた。誇れる国家として自負していた。かつて日本も自らの国を神国と位置付けたように同じような状態であった。そしてローマ皇帝は当然のことながら神として礼拝された。ローマ市民にもそれは当然義務づけられた。パウロはそのような国家崇拝、皇帝崇拝をピリピの教会に勧めていない。なぜならば、キリスト信者の市民権は天にあるからである。パウロが言いたいことは、「あなたがたはローマ市民としての誇りや義務というものを知っているでしょう。しかし、あなたがたは、より高いものに召されています。あなたがたは神の国の民、天の市民です。天の市民としての誇りを持ちなさい。その責任を覚えなさい。天の市民はキリストの福音のために生きるのです」ということである。新約聖書のバルバロ訳を見ると、1章27節の脚注でこう記されている。「キリスト信者の市民権は天にあると言う。神の国の新しい都市の王はキリストであり、その法律は福音、その市民はキリスト信者である」。私たちは日本の民であり、この地上の市民であり、住民である。地域社会の立場がある。何々家の一員という立場もある。会社での立場、その他もある。それに伴う様々な責任がある。それはきちんと果たさなければならない。けれども私たちはそのような地上の立場を突き抜けて、自分がキリストを王とする天の市民であるという自覚をはっきりと持たなければならない。もし天の市民、神の国の民という自覚を失い、ただの市民生活をしているだけなら、一組織の人間としては平凡に暮らせるであろう。けれども、それでは敗北なのである。パウロは今日の箇所で、天の市民にふさわしい生活様式というものを説いていく。
 では、天の市民にふさわしい生活様式を見ていこう。それは第一に、福音信仰のために戦うということである(27節後半、28節)。「福音の信仰のために奮闘しており」ということばがある(27節後半)。「奮闘する」とは「戦う」という意味のことばである。パウロは自分が福音を伝えたかどで投獄されたように、彼らにも戦いがあることを知っていた。彼らは偶像崇拝者や皇帝崇拝者からは頑迷な者として侮辱された。ユダヤ教徒たちからは異端扱いされたであろう。社会生活を送ることは困難であった。そのような中で福音信仰を守り、福音を前進させる戦いが続いていた。彼らは様々な反対から、彼らの信仰が縮んで、福音を伝える足取りが重くなり、その足は萎えてしまって、証人としての色彩があいまいになる可能性があった。
 パウロは戦いを続けている彼らを励ますために、受ける反対は「救いのしるし」であると言っている(28節後半)。反対に会う、それはキリスト者が日常経験することである。いやみを言われることもあれば無視されることもあるだろう。ここで「しるし」と言われていることばは「記念品」と解してもよい。「記念品」というものは、ある事柄を思い出させてくれるもの。記念品にも色々ある。結婚指輪、お祝いの記念品、賞を取った時の記念品、旅行の記念品。記念品というのは、良い意味でのしるしとして、幸福感を味わわせてくれるものである。福音信仰ゆえに受ける反対も、こうした記念品と同じなのだよとパウロは言っている。パウロは、反対をマイナス思考で受け止めさせない。「救いを保証する神さまからの記念品として受け止めなさい」。「救いに至る神さまからの記念品として受け止めなさい」。それが神さまからのものであるというのは、「これは神から出たことです」(28節後半)ということばからわかる。つまり、キリスト者が受ける喜びばかりか、いやなこと、おもしろくないことも、経験させられることは何でも、神の監督下にあるのであって、神のご支配の外で起きていることは何もない、すべてが神の御許しのもとで起きているということである。すなわちパウロは神の主権ということを謳っている。またそこに、神の摂理というものを見ることができる。前回も摂理についてお話ししたが、摂理とは、神がご自身の計画の完成に向かって、物事を導き、状況を支配していかれることである。神はご自身の計画の完成のために、人間の失敗や悪意さえも、御手の中で無駄なく用い、益と変えてしまわれる。神はご自身の民を救い入れるために、すべてを無駄なく用いられる。無駄な事、無駄な時は一つもない。たといつらい経験をさせられたとしても、つらい時を過ごしても、私たちは神の摂理の御手にゆだねて安んじることができる。
 第二に、福音信仰のために強い結束力をもち、一つとなるということである。ピリピ人のクリスチャンは異教徒やユダヤ教徒から反対に会っていた。その結果、彼らの福音信仰が弱まるばかりか、結束力を失ってバラバラになることも考えられた。そうしたら群れとしての力も失ってしまう。27節には「霊を一つにして・・・心を一つにして・・・ともに」と言われている。「霊を一つにして」ということばは「一人の人として」という意味にもなる。夫婦は一心同体などと言われるが、実は教会そのものも同じで、一人の人のような一致、一体を保つことが奨励されている。一致が福音宣教の土台であるということである。一致というテーマは2章で発展していき、4章でも取り扱われる。パウロはこの教会の内部的問題に気づいていたのである。福音を証しする生活の土台は一致である。互いに受け入れ合い、愛し合うことである。
 第三に、キリストのために苦しみことをいとわないということである。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(29節)。実は、この節の冒頭には、日本語で訳し出されていないが、原文では「なぜなら」ということば(接続詞)が入っている。28節と29節のつながりが大事である。28節では、反対、おびやかしの言及があり、「これは神から出たことです」で終わっている。とすると、中には、「神はわたしを嫌っている」とか、「わたしの不幸を願っている」とか受け取ってしまう人も起きかねない。実際そういう人がいる。そこで、「なぜなら、苦しみは、神の子どもたちのための、神からの恵みの贈り物である」と説明し、あくまでも苦しみを否定的にとらえないように励ましている。パウロは、「キリストのための苦しみを被る」と言っておらず、「賜る」と言っている。「賜る」ということばは、「受ける」ということばの謙譲語である。「ありがたく頂戴します」というということ。何を?「キリストのための苦しみ」を。「賜る」ということばは、原文で「恵み」ということばに由来している。皆さんに、ここで気づいていただきたいことは、パウロが言いたいことは、キリストのための苦しみということはクリスチャンである以上、避けられないということではなく、その苦しみというものは、私たちに対する神の恵み深いお取扱いの表明であるということである。苦しみは避けられないと考えているだけと、それを神の恵みの贈り物として頂戴するというのとでは全然違ってくる。
 皆さんはピリピ人への手紙が「喜びの手紙」と言われていることをご存知であろう。そしてパウロが、同じマケドニヤの教会であるテサロニケ教会に宛てた手紙では、「いつも喜んでいなさい」という有名なみことばを語っている(Ⅰテサロニケ5:16)。なぜ喜べるのだろうか?その辺の秘密は、苦しみも神からの恵みの贈り物として受け止めることができるパウロの信仰にある。ピリピ教会もテサロニケ教会も、パウロの第二次伝道旅行の時に建て上げられた教会であるが、この旅行の間の主要テーマは「苦しむことの必要性」である。なのに、喜びということばが目立つ。悲壮感はない。神の恵みは苦しみの時も色あせないのだが、この事実を信仰をもって受け取るのである。パウロのように、救いに至る記念品、神からの贈り物、神の恵み深いお取扱いの表明として受け取るのである。
29節について大切なことを付け加えておきたい。誰のために、何のために苦しむのかという意識ですべては違ってくるということである。大嫌いな人のために苦しむのは嬉しいことでも、喜ばしいことでもない。ありがたいとは思えない。でも愛する人のためであったらどうか?その苦しみは特権だと感じるだろう。創世記29章を見ると、独身のヤコブはラケルをめとる条件として、ラケルの父親のラバンのもとで7年間の労働が義務づけられた。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた」(20節)。ヤコブは結局7年で終わらず、倍の年数を仕えることになる。でもラケルのためにと仕えた。「ラケルのために」と言っても、実際はラケル本人の身の回りの世話をするのではなく、羊とやぎを遊牧する重労働。後で彼は「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」(31:40)と告白したように、きつい労働であったようだが、だけど愛が耐えさせた。「ほんの数日のように思われた」というのは誇張ではないだろう。私たちは愛から、キリストのための苦しみをいとわない者たちでありたい。
 キリストのための苦しみは、福音のための苦しみと置き換えられる。それは無駄な苦しみではない。豊かな報いをもたらすものであるから。それはちょうど農家の方が、自然と格闘しながら作物を育てる苦労も、収穫という希望があるゆえに当然と考えるのと同じである。
 パウロは、最後に、キリストの福音のために奮闘している彼らを、自分のことを引き合いに出して励ましている(30節)。彼らの受けている苦しみは、すでにパウロが経験してきたこと。「私について見たこと」とは、パウロがピリピの宣教で経験してきたことが入る。パウロはそこで反対に会い、牢獄にまで入れられた(使徒16章)。「私についていま聞いているのと」とは、今、パウロがローマで受けている苦しみである。パウロはローマの獄中からこの手紙を書いている。私たちは自分がなぜと思う前に、同じ思いを経験した信仰の先達が過去にいることを覚えよう。「自分だけがなぜ」という自己憐憫に浸るのはやめよう。他の平穏無事でいるクリスチャンと自分を比較するのもやめよう。
 先に、キリストのための苦しみは、賜物であること、神からの恵みの贈り物であることを学んだ。このキリストのための苦しみは皆で分かち合うのである。明治、大正、昭和の大家族時代、おやつを皆で分け合って食べただろう。皆さんも。分ける方とすれば、みんなに平等にあげたいと考えるわけである。子どもたちは早く食べたいと、その分けているしぐさをじっと見つめている。自分の分が少なくなりはしないかと心配そうな顔で。では、キリストのための苦しみということに対してはどうか?ご遠慮します、ではないだろう。どうして自分にくれるの?というのではなく、私もいただきますと、皆で分け合うのが自然である。パウロも、ペテロも、世々の聖徒たち、皆が分け合ってきた。ちょっと苦味があって大人向きの味かもしれないが。パウロは有難く頂戴します、と受け取った。先日、赤ちゃんの最新研究を伝える番組を見たが、赤ちゃんは苦いのは全くだめだそう。けれども成長するに従って、慣れてくるというか、それを好むようにもなる。私たちも赤ちゃんを後にしよう。
 今日は、天の市民にふさわしい生活様式について学んだ。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく市民生活しなさい」。私たちは、天の市民、神の国の民という自覚を持ちながら、キリストの福音を宣べ伝えていくのである。それを実践するのが「生きることとはキリスト」ということである。それは、私たち同胞のためにもそうであらなければならない。神は一人でも滅びることを望んではおられない。私たちはキリスト者としての色彩をあいまいにする誘惑から守られ、一つとなって、福音を宣べ伝えていきたい。人を救えるのは天下にキリストの福音だけである。キリストの福音に絶対的価値を置いて宣べ伝えていきたい。