「生きるとは何か」人間の基本的な問いかけである。著者のパウロはこの時、ローマの牢獄の中にいた。でも文章からは嘆き節は伝わってこない。→12節 「わたしの身に起こったこと」をある人は、「不幸な出来事」と訳している。不幸な出来事が自分の身にふりかかったら、私たちはどのようにして自分の気持ちを整理していくだろうか?パウロは獄中ですっかり気落ちし、私を憐れんでくださいと、ピリピ教会に同情を求めているだろうか?事実はそれとはほど遠い。彼は、「不幸、災い、マイナス、損」、そういうことばを実際口にしているだろうか?口にしていない。彼の関心は自分ではなくキリスト。パウロはどういうかたちでもキリストの御名があがめられれば、それを喜んだ。パウロは投獄されたがキリストの福音は前進していた。それは喜ばしいことであった。
 神の摂理という表現がある。それは、神がご自身の計画の完成に向かって、物事を導き、状況を支配していかれることである。神はご自身の計画の完成のために、人間の失敗や悪意さえも、御手の中で無駄なく用い、益と変えてしまわれる。今日の箇所でパウロは、神さまが福音の前進のために、物事を導き、状況を支配していかれたのを見ている。パウロには「摂理信仰」というものがしっかりあった。12節で言われていることは、不幸な出来事がふりかかったにもかかわらず福音が前進した、ということではなく、不幸な出来事そのものが福音を前進させたということである。にもかかわらず何とか困難を切り抜けたとかというのではなく、その不幸な出来事、困難そのものが神の計画を前進させた、福音を前進させたということである。神は摂理によって、人間の目には失望させるような出来事、神のみわざを妨害するような出来事さえも無駄なく用い、福音を前進させてくださる。だから私たちは摂理の御手にゆだねていくことができる。
異教徒たちは、パウロが投獄されたら福音は広まらないだろうと考えた。だが神の主権とそこからもたらされる摂理にあってそうではなかった。実際、福音はどうして前進したのだろうか?→13節 囚人パウロを取り巻く人々が福音を聞いたということである。ローマの兵士たち、囚人を監視する人たち、同じ囚人たち、そしてパウロを訪ねてきた者たち。普段は福音に接するようなことのない者たちが福音の恵みに与った。パウロは獄中で自己憐憫に浸ってはいなかった。「なんてこった。食事は粗末だし、環境は最悪。なぜこんな苦しみに会わなければならないのか」ではなく、これも神の与えられた機会として捕え、獄中の壁の内側から福音を語った。同じようことが今も、獄中で、病院で起きている。
 福音が前進した理由はもう一つある。→14節 普通なら、パウロが投獄されたということで、他の聖徒たちは精神的にダメージを受け、シュンとなって、福音を伝える足は萎えたとなってもおかしくなかった。けれども現実は逆であった。なぜなら、聖徒たちはパウロの模範から勇気をもらった。彼らが大胆になれたのは危険が少なくなったからではない。パウロの投獄がきっかけになって彼らのハートに勇気が注入されたからである。
パウロは付け加えて、15~17節で自分をライバル視する者たちのことについて言及している。彼らはパウロをやきもきさせようとするライバル意識から福音を熱心に伝えた。「パウロよ、そのまま牢獄から出ないことを望む。そうしたら、こっちの勢力を拡大できる」。動機は純粋ではない。競争心から宣べ伝えた。だが彼らの語っている福音の内容そのものは正しかった模様。こうして福音は前進していった。
では、ここで、不幸に見える出来事が福音を前進させた事例を幾つか挙げよう。ある教会の牧師が、伝道集会の当日、車を運転していて、相手の不注意で交通事故に遭って入院してしまった。車同士の衝突事故。「困るよ、今晩から三日間、講師を招いての伝道集会なのに。なんてことをしてくれたの」。完全に相手の方が悪かった。相手の人は申し訳ない思いになって、お詫びの気持ちから集会に三日間出席して救いに与った。
ある牧師は透析を受けなければならない体になってしまった。トラクト配布さえままならぬ体に。その牧師は真剣に祈った。「いやしてください。いやしていただいたなら、この足で、この町中にトラクトを配布して伝道します」。ところが、いやされなかった。外に出かけられない体のため、伝道方針を転換せざるをえなかった。それは、自分が作ったメッセージを信徒たちに渡し、各家庭で人を集めさせ、信徒がそのメッセージを牧師に代わって取り次ぐというものであった。こうして牧師の病気を機に、福音はその町で前進していった。
事故、病気に続いて、投獄のお話し。「天路歴程」という本を執筆したことで有名なイギリスの伝道者ジョン・バンヤン。彼は王政復古があった1660年の後に、十数年牢獄に入れられた。最初、彼は絶望した。福音を伝えることができなくなってしまったと。ところが彼はしばらくして気づく。自分は牢獄につながれていても福音はつながれていないんだ!そして彼は、囚人に福音を伝え、救いに導いた。またイギリスで聖書に次いで読まれることになる天路歴程を執筆し、多くの人に信仰の息を吹き込んだ。
 私たちは、神の摂理の御手に自分の生涯をゆだねて、福音の前進を願っていくときに、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(ローマ8:28)のみことばにアーメンと言えるのである。
 パウロは福音の前進に神の摂理の御手を見ていたわけだが、彼の関心は常に、自分がどうなってしまうかではなく、キリストにあったことを見のがしてはならない。→18節 パウロは投獄という喜べない状況下にあった。また悪意やねたみを自分に向けていた人たちがいたので、怒っていてもおかしくなかった。けれども喜んでいる。パウロは、自分がどんな状況に置かれているかとか、自分がどう思われているかということよりも、キリストが宣べ伝えられているかどうかということに関心があった。キリストが宣べ伝えられていればいい、キリストが信じられ、あがめられればいい、私ではなくキリスト。ここに彼の生きる理由があった。これが有名な20~21節のみことばにつながっていく。
 →20,21節 彼の関心はキリストの評判、キリストの福音の前進。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(21節)。パウロは自分が敵視していたキリストこそが真のメシアであることを、あのダマスコ途上で知った。キリストが罪深い自分に対して惜しみなく愛を注ぎ、惜しみなくいのちを与えてくださったことを知った。キリストを信じる者は天の御国に救い入れられ、キリストとともにいつまでも居ることができることも知った。だから「私にとっては、生きることはキリスト」でとどまらず、「死ぬことも益です」と告白している。死ぬことによって、御国にて、愛するキリストとともに永遠に過ごすことができる(23節後半)。だが彼はキリストの福音の前進とクリスチャンたちの信仰の成長のために、今しばらくの間、この地上で生きていかなければと考えている(22~26節)。
 今日は特に、21節前半の「私にとっては、生きることはキリスト」を観察しよう。原文で「私にとっては」が強調されている。「他の人はどうか知らない。しかし、私にとっては生きることはキリスト」。このように私たちも宣言できるだろうか?このような宣言は普通の人には恐ろしいものである。なぜなら、このみことばは、前提として私という自分を葬り去ることを求めているからである。自分を十字架につけてしまうことを求めるからである。私たちは自分がかわいい。自分を生かしたい。私たちはどうしても、自分の願望、自分の楽しみ、自分のしたいことというのが関心の的になる。大切なのは「自分自身」。生きることとは私自身。自分の生活が守られること、家庭が守られること、仕事が守られること、自分の願いがかなえられること。中心は「私」。「私は」「私に」「私を」「私が」と、私、私の人生。すべては私のためでなければならない。結局それらは、人生とは私のためということを言っているにすぎない。もちろん、私という存在は肉体的には生きていく。しかし生きる目的は他に置くことが求められている。ある新約学者は、この箇所を「私の人生は、すべてキリストに捧げられています」と訳した。本当にそういう意味である。「生きることはキリスト」という一文は、動詞が欠如しているので文章としておかしいが、パウロのキリストに対する意気込みが伝わってくる文章である。私たちは、「生きることは自分のため」を後にして「生きることはキリスト」に進むのだが、「生きることはキリスト」というよりも、「生きることはキリスト教徒」の段階にとどまる危険をはらんでいる。みことばは、クリスチャンとして一生を送りなさいということを言いたいのではない。その中身、生きる姿勢のことを問うている。ある人が初代教会の弟子たちについて次のように述べている。「彼らはキリストを記憶しながら出て行ったのではなく、キリストを実現しながら進んだ」。すごい表現である。「生きることはキリスト」というのは、こういうことを言うのであろう。それは20節をヒントにすると、「キリストのすばらしさが現されるために生きていく」ということであろう。私たちはキリストがガリラヤでご自身を現していた時のように、亜麻布を着ていなくていい。洋服でいい。またサンダル履きでなくていい。靴を履いていればいい。いつも歩いて移動しなければならないというのではなく、電車や車を利用していい。仕事は電化製品を利用し、機械を操作していい。日本人であることをやめなくていい。ただ私たちは、キリストの品性に倣い、キリストの教えを生き、キリストの福音を宣べ伝え、キリストの目的に生き、キリストのすばらしさが現されることに焦点を置いていきたいのである。
 キリストは私たち罪人を罪と永遠の刑罰から救うために、十字架についてくださり、いのちを惜しみなく与えてくださったお方。愛の中の愛、まことの神、永遠のいのち。このお方を知ったからには、自分のために生きるのは、もう過去の人生で十分である。これからはキリストのための人生である。しかし、キリストのために生きることこそ、真に自分のためとなるという逆説を見る。キリストは弟子たちに対して、自分の十字架を負ってわたしについてきなさいと命じられたあと、こう言われた。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9章24節)。このみことばを信じますか?
 私たちは常に、「生きることはキリスト」「キリストのすばらしさが現されること」、これらの観点から自分の生活を見直していこう。天の王座に着いておられるキリストを心の王座にも着け、自分の夢、幻、時間の使い方、行動計画、金銭の使い方、人間関係、こうしたことを吟味していこう。順風満帆とはいかない日々も送る。パウロがそうであったように。でもパウロは自暴自棄になったり、自己憐憫に浸ったりはしなかった。皆さんは家庭や仕事場が牢獄に感じられてしまうことがあるかもしれない。だが私たちはどこにあっても何があってもパウロを模範にして、キリストの御名が信じられ、あがめられることを願って歩んでいこう。「彼らはキリストを記憶しながら出て行ったのではなく、キリストを実現しながら進んだ」という初代教会の聖徒の姿に倣っていこう。  
 昔、金太郎飴というものがあった。どこを切っても、金太郎の顔模様が出てきた。同じように、生活のどこを切っても、キリストが出てくるような信仰生活を目指そう。