ダビデの半生記を学ぶ人物説教の二回目を迎えた。本日は万軍の主の御名に拠り頼むことをご一緒に学びたいと思う。本日の記事はペリシテ人との戦いの場面である(1節)。戦場は、ダビデが住むベツレヘムの西方、約25キロの地点。ペリシテ人とイスラエル人は谷を隔てて相対することになる(3節)。この戦いの特徴は、ペリシテ陣営から代表戦士が出て来て、一人を選んで俺と勝負しろと言ってきたことにある。その代表戦士の名はゴリヤテ(4節)。このゴリヤテとダビデが勝負をすることになる。このゴリヤテとの戦いは聖書では有名な物語となっている。私たちはこの物語を読んで、「わぁ~、ダビデすごいね」で終わってしまったら何にもならない。この物語を自分たちに置き換えて考えてみなければならない。現代の私たちにとってゴリヤテとは誰か?何か?と煩悶することになるわけだが、ゴリヤテは、やっつけなければならない悪者であるとか、いじめてくる存在であるとか、山のような困難であるとか、自分が作り出してしまった恐ろしい先入観だとか、そういった程度で納得してはならない。10月に開催されたワールドシリーズは、ブルージェイズとドジャースの戦いになったが、戦い前に、この戦いはダビデとゴリヤテの戦いのようなものだと揶揄されていた。けれども、このようにたとえてしまうことは本筋ではない。
17章のキーワードは「そしる」<ハーラプ>である。全部で五回登場する(10,25,26,36,45節/10節は「愚弄する」と訳出)。ヘブル語の意味は、「非難すること、あざけること、挑発すること、ばかにすること、恥辱を与えること」。名詞形は26節で「恥辱」と訳されている。さて、この文脈では、誰をそしっているのだろうか。主なる神がそしられている。26節でダビデは「生ける神の陣をそしるとは」と言っているが、今では、神の教会がそしられているということ。つまりは神がそしられているということ。45節でダビデは「おまえがそしったイスラエルの戦陣の神」と言っている。ダビデは、神がそしられていることにがまんがならなかった。
この章から考えさせられるのは、神と神の教会がそしられて、サウルとサウルの陣営のように沈黙していていいのか、ということである。私たちは、この地で、私たちを通して神の名があがめられますようにという強い願望を持たなければならない。とりあえず、自分の信仰が守られればいいとか、自分さえ救われればいいとか、信仰を個人化してしまって、未信者に対して神の栄光を現していこうという気概を失ってはならない。また私たちは置かれている地域にあって、おどおどしながら信仰生活を送るだけであってはならない。地の塩、世の光の使命を果たさなければならない。教会全体としては、この地で神の名があがめられますようにという思いで前進していくわけである。
ではゴリヤテとは誰か、何かということだが、ゴリヤテとは、神の栄光をはばもうとする人格、勢力、問題と言っていいだろう。ある意味、この世の象徴と言っていいかもしれない。こういったゴリヤテに勝利する秘訣を私たちは学びたい。
4~7節は、ゴリヤテのスーパーマンぶりが強調されている。身長は約3メートル(六キュビト半)。鎧だけで重さ約50キロ(五千シェケル)。武器の槍も馬鹿でかい。8~10節は、ゴリヤテの自信満々の大言壮語。体ばかりではなく、言うこともでかい。それに対するサウルとイスラエル人の反応は、へなへなである。「気をくじかれて非常に恐れた」(11節)。ゴリヤテに立ち向かう信仰のある者は誰もいないかのように思えた。事態はどう展開するのだろうか。
12節に入り、「さて」とある。実に緊迫した危うい状況にあって、「さて、ダビデは」と、救いを予感させる文学上の表現になっている。だが、このダビデはエッサイの八人息子の末っ子で、戦士としては期待されていない(14節)。彼の本業は羊飼いにすぎない(15節)。これまで四十日間という膠着状態が続いていたようである(16節)。転機は、17~19節にあるように、エッサイがダビデに対して、陣営にいる兄さんたちに食料を届け、安否を確認するように命じたことによって訪れる。イスラエルの人々はゴリヤテを見て、びびりまくっていた。「イスラエルの人々はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた」(24節)。ダビデは民の話を聞く(25~27節)。内容は、サウル王はゴリヤテを打ち取った者に報奨金を与え、王の娘をめとらせ、税金その他の義務も免除といったものであったようである。けれども、このような褒美、特典を提示されても、誰もゴリヤテと戦おうとする者は起きなかった。それほどにゴリヤテは強そうな相手であったということであるが、見方を変えると、ご利益を求める心ぐらいでは立ち向かえず、信仰心がなければ立ち向かえない相手であったということである。
ダビデのことばを聞こう。「ダビデはそばに立っている人たちに言った。『このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは』」(26節)。ダビデの信仰のことばである。彼のうちには立ち向かう備えがある。古代の戦いというのは、神々同士の戦いとして位置付けられていた。だから、「生ける神の陣をそしるとは」というのは、主なる神がけなされ中傷されているのに等しい。皆さんは、主なる神の評判が蹴落とされ、名誉が傷つけられ、その名がけなされ、中傷されているのを聞いて黙っていられるだろうか。「無割礼のペリシテ人」、すなわち神を知らない人たちに、主の名を踏みにじられて、黙っていられるだろうか。主の祈りの一番最初の祈りは、「御名があがめられますように」である。「私たちを通して、家庭で、この地で、主の御名があがめられますように」という願いを強く保ち、祈り、みことばを語り、主のみこころを行っていきたいと思う。
ダビデの立ち向かおうとする気持ちをなえさせようとする二人の存在がいた。兄のエリアブとサウル王である。エリアブは、ダビデをさげすみ、軽蔑する(28節)。何しに来たんだ、おまえなんか羊を飼っていればいいんだと。彼はダビデに憎しみとねたみをぶつける。サウル王もやる気を奪う発言をする(33節)。お前はまだ若い、無理だ、できっこない、相手を考えろと。このように、前向きに信仰をもって取り組もうとするときに、水をかけるような存在、足を引っ張るような存在が出て来る。おやめなさいと。それは親切心から出ることばの場合もある。ダビデの応答を見ると、彼は引かず、自分の信仰体験を語る(34~37節)。私が日ごろ倒してきた猛獣に比べると、ゴリヤテは何ほどのこともありませんと。彼は日常で主の力を体験することを積み上げていたので、今、ゴリヤテを目の前にしても恐れなかった。私たちも、日ごろ、みことばに服従する生活を通して、神を体験的に知ることが大切である。そうした過去の積み重ねが現在の危機に生きてくる。ダビデは若いながらも、信仰の訓練を積み重ねて来た。
サウルはダビデにイスラエルの代表戦士としての戦いの許可を出す。「行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように」(37節後半)。ダビデはサウルから差し出されたよろいかぶとを着け、剣を腰に帯びた(38,39節)。ダビデは歩くことすらできない不便さを覚え、脱いでしまう。そして、いつもの羊飼いの身なりとなり、いつもの武器を手にする(40節)。ダビデの武器は石ころ(約5センチ幅)。それを石投げ器によって投げるわけである。石はつまらないもののしるしとなっているだろう。ダビデはエリアブによって無用な者、サウルによって若くて無理と思われた存在だった。しかし、主にとっては、石ころで立ち向かう若いダビデで不足はなかった。そしてダビデはゴリヤテに立ち向かい、悠然と勝つ(41~51節)。50節で、「ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち」とある。石一つでの勝利。
ダビデの勝利の要因は二つに分けて見ることができるだろう。一つはダビデの信仰である。イスラエルの人々はゴリヤテを見て、彼のことばを聞いて、震え上がって恐れた(11,24節)。けれどもダビデにはそのような様子はない。まさに落ち着いていて、ゴリヤテを恐れはしない。彼は主に対して全く信頼していた。ダビデの詩篇に参考になるものが幾つもある。一例を述べると、「ある者は戦車を ある者は馬を求める。しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める」(詩篇20編7節)。「軍馬も勝利の頼みにはならず 軍勢の大きさも救いにはならない。見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に」(詩篇33編17,18節)。勝利の秘訣は、私たちが槍をもっているか何をもっているかということよりも、主を持っているかどうかである。そして人ではなく主を恐れ、主に拠り頼むことができるかどうかである。
勝利の秘訣の二つ目は、主の十分(じゅうぶん)性ということである。ダビデの服装はあまりにも無防備に思える。そして武器は石ころ。あまりにも不十分に思える。相手はというと大きな槍を持ち、イスラエル人が誰ひとりとして立ち向かえないような勇者である。しかし勝利を治めることになる。主はイスラエルにとって十分なお方なのである。そして主はダビデに勇気を与え、信仰を与え、勝利を与えるのに十分なお方なのである。この勝利はダビデの手柄に見えるが、勝利を与えたのは万軍の主である。
今日の中心聖句は45節である。「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう』(45節)。「万軍の主」、この呼び名は何を意味するだろうか。実は、この呼び名はサムエル記第一の1章ですでに登場している。それは戦いの場面とは無縁である。サムエルの母親のハンナが祈りの冒頭で使用している(第一サムエル1章11節)。ハンナには子どもがなかった。第二夫人のぺニンナから、そのことでいやがらせを受けていた。ハンナは主の宮に出かけたとき、男の子を授けて欲しいという思いを胸に秘め、「万軍の主よ」という呼びかけで祈り始めた。「万軍の主」とは、神のどのようなご性格を意識した呼び名なのだろうか。それは、神の全能性、無限の力、絶対的権力を意識した呼び名である。神は天地宇宙にまたがる全宇宙にあるすべてのものの支配者であり、すべてのものに絶対的権力を持つ、全能の神である。不可能を可能にしてくださる力ある神である。ハンナは神のこの偉大さを心に留めて祈った。そして今日の箇所では、ダビデは、「万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう」と宣言する。私たちは弱く小さい。石ころを握っての生業である。しかし天を振り仰ぎ、神は万軍の主であるということを覚えたい。私たちがこのお方に信仰を働かせる理由は、主の名がこの世の人たちの間でそしられている、さげすまれている、だから何としてでも、この世の人たちの間で主の名があがめられるようにしたい、ということである。主の名がそしられているのに、沈黙していてはならない。委縮し動かずにいてはならない。ダビデのように信仰をもって一歩踏み出すということ。万軍の主の御名によって目の前の人格、勢力、問題に立ち向かうということ。その時に、主のみわざが現わされるのではないだろうか。私たちも、ハンナやダビデのように、生活の中で万軍の主に信仰を働かせよう。そして主の栄光を拝したいと思う。

