本日より、ダビデに焦点を当てて、ダビデの生涯の半生から学ぶ人物説教を始めたいと思う。ダビデがイスラエルの王に即位するまでの物語を学びたいと思う。ダビデはユダ部族に属し、イスラエル王国の王となり、ダビデの子孫からメシアが誕生することになる。主イエス・キリストはメシアの別称の一つとして、「ダビデの子」と呼ばれることになる。ダビデは詩編の主要な作者でもある。神さまがダビデをどのように取り扱ったのか、ダビデの信仰者としての軌道はどのようなものであったのか、それらを学びながら、私たちの信仰生活に役立てたい。ダビデが王に即位するまで、逃亡生活の期間が長かったわけだが、それは彼の信仰訓練の期間である。そこでの彼の葛藤、苦しみ、信仰の浮き沈みに、サムエル記は十数章を費やしている。そこから多くのことを学び取れると思っている。章としては第二サムエル記2章までの学びとなる。

今日の場面は、ダビデが王として選ばれる場面である。エルサレム王国の初代王はベニヤミン族のサウルであった。彼は神に対する不従順を繰り返し、神は王としての資格をサウルからはく奪する。そして神は、ベツレヘムに住むエッサイの子たちの中から、王を選ぶことを決断される(1節)。誰が王となるのか、それを決めるのは民衆ではない。国の議会でもない。モーセ律法には王を立てたいとなった場合の規定としてこうある。「必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない」(申命記17章15節)。神ご自身が誰が王となるのかを決める。この度、その使いとなるのが預言者サムエルであった。サムエルはサウル王の堕落、不従順について悲しんでいた。主は「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか」と言われる(1節前半)。それはただ、サウル王の不従順を悲しんでいただけではなく、王の不従順のゆえに、このままではイスラエルの国は崩壊してしまうかもしれないと恐れ、悲しんでいたのかもしれない。国を強固なものにしようと王制を敷いたのも束の間、国は弱体化しようとしていた。イスラエルの周辺諸国は、この時とばかり攻め寄せ、イスラエルを侵略してしまうことが考えられる。最終的に、神の名は汚されることになってしまう。神さまはどう動かれるのだろうか。

16章のキーワードは「見る」である。1節に「見出した」とある。「彼の息子の中に、わたしのために王を見出したから」。7節では「見る」が何度も登場する。「主はサムエルに言われた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る』」。「見出す」「見る」と訳されているヘブル語は<ラーアー>である。

まず1節の「王を見出した<ラーアー>」について考えてみよう。<ラーアー>は創世記22章では「備える」と訳されている。創世記22章8,14節を開いてください(8,14節の欄外註を見よ。どちらも直訳は「主が見てくださる」)。「主が見て、主が備える」ということばの概念は「選んでいない」と対峙する。16章の8,9,10節にはダビデの兄弟たちに関して、「選んでおられない」とある。つまり、主が見て、備えた者とは、主が選ばれた者であるということである。サムエルに託された務めは、主が見て選んだ選びの器に油を注ぐということである。「角に油を見たせ」(1節)、「油を注げ」(3節)。油注ぎというのは、王、預言者、祭司に選ばれた者に行われる儀式である。

サムエルは神の命に従って、ベツレヘムに行く(4節)。これは町の長老たちにとって、相当な驚きとなった。「身震いしながら」とある。彼らは、サムエルが来ることは予期していなかったようである。イスラエル王国は政教一致の国で、神聖国家である。神が真の王であり、預言者サムエルは神の代理人的存在である。だから預言者サムエルは、イスラエルにあって王と並ぶ、いや王さえも恐れる権威的存在であった。そのお方の突然の来訪である。何をしに来られたのだろう?町の誰かをさばくためにか?それとも国政上の面倒な事案のために来られたのか?身震いするほど彼らは恐れた。だが、彼らは胸をなでおろすことになる。サムエルの口からはいけにえを献げるということとともに祝宴ということばが出る(5節)。そしてその祝宴にエッサイの息子たちを招くように指示する。サムエルはこの時点では、神が誰を選んでおられるかは分からない。エッサイの息子たちの中からとしか分からない。神もまた教えない。

そして選びの場面を迎えることになる(6~13節)。エッサイの息子は全部で八人。最終的に選ばれることになるダビデは八番目である。サムエルの前に連れ出されたのは七人。でもそこには神の選びの器はいなかった。サムエルは最初、王の選定のために自分の直感を働かせた。サムエルは信仰に満ちた人だから、彼の直感は当てになるのだろうか。今日の記事は、私たちが自分の直感や印象に頼ってしまうことの危険を教えている。サムエルの目に最初に留まったのは長男エリアブだった(6節)。サムエルは彼の容貌や背の高さで判断した。プリンスにふさわしく見える。体もがっしりしていて背が高い。イケメンで背が高いというのはサウルもそうであった(9章2節)。もしこの時、サムエルがエリアブを選んでいたのなら、イスラエルは崩壊していただろう。

主は彼を退けていた。そして言われる。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(7節後半)。うわべで判断するのが世の常である。でもある程度、それに頼らざるをえない。外見が良いならば好印象を得るということで、面接でもお見合いでも、営業でも選挙でも何であっても、外見を良くする努力をすることになる。これは一つの知恵で、それ自体は悪いことではない。ただ、接する側としては、外側の印象だけに頼るのは気をつけよということになる。容貌のすばらしさ、能力、だが、それは人の本質ではない。サムエルは年老いて、人を見ることにおいても経験を積んだ人物であった。だがなお、人をどう見るかということの訓練を受けなければならなかった。外見だけを見て、その人が適格か不適格かのせっかちな判断は禁物であるわけである。主イエスのことばを紹介しよう。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい」(ヨハネ7章24節)。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前で忌み嫌われるのです」(ルカ16章15節)。

このような主の教えは、本日の「人はうわべを見るが、主は心を見る」で、すでに言われている。「うわべ」の欄外註を見ると、直訳「目」とある。この箇所を協会共同訳は、「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」と訳している。つまりは、人は目に映る情報によって判断してしまうが、主はその人の心の奥底まで見て判断される、ということだろう。私たちは、主のように全知全能ではないが、その人の背の高さ、能力、クセ、目に映るしぐさ、髪型、服装、そうしたことだけに捕らわれることなく、その人の信仰、隠れた特徴、品性、そうしたものを主と一つ心になって見ていく訓練が必要だろう。また、「主は心を見る」ということを自分に向けて問わなければならないわけである。私たちは主の前には裸であり、隠し通すことができるものは何もない。人の前に慇懃に映ったところで、主の前では意味をなさない。礼儀正しいとか、挙措にそつがないとか、一見優しく見えるとか、主はそうした目に映ることで判断はしない。だから、主の前には正直であることが第一歩である。取り繕っても仕方がない。

主はエリアブを退けた(6,7節)。サムエルの審査は続く。アビナダブ、シャンマ(8,9節)。しかし両者とも主は選んでおられない。父親エッサイは可能性があると思われる七人の息子を次から次へとサムエルの前に進ませる(10節)。しかし、主はどの者たちも選んではおられない。サムエルだけではなくエッサイの当ても外れてしまう。ここに人の思いを超えた主の思いを知る。主の選びの意外性ということを思う。

七人の息子全員が該当しない。そこでサムエルは問う。「子どもたちはこれで全員ですか」(11節前半)。おまけというか、そういう存在がいた。羊の番をしていた八番目の息子である。「まだ末の子がいます。今、羊の番をしています」(11節中頃)。エッサイのなかでは、ダビデは王選びの眼中にはない。「ダビデは羊の番をしていればいい。ダビデを呼んで来たら、羊は放っておかれるので困る」。そんな思いもよぎっただろう。また、「ダビデを捜して連れて来るのも時間がかかる」と思っていたかもしれない。いずれにしろ、エッサイはこの時、ダビデのことは眼中になかった。ダビデが末っ子で少年だったということが一番大きな理由であったかもしれない。だがサムエルはダビデを連れて来るように指示する(11節後半)。それはだめもとでということよりも、1節の主のおことばがあったからである。「さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子の中に、わたしのために王を見出したから」。油注ぎはあくまでもエッサイの息子でなければならない。それにまた、「人はうわべを見るが、主は心を見る」ということばが与えられていた。12節を見れば、ダビデは紅顔の美少年であったことがわかるが、彼が人には当てにされていない存在であったことは、13節に進むまで、「ダビデ」という名前では呼ばれていないことからもわかる。それまでは、「末の子」とか「その子」としか呼ばれていない。対象外の存在であった。だが主の選びは以外であった。ダビデが最も若かったことは確かであり、そして最も背が低かったかもしれない。主は人間的な選びの基準、慣習にこだわることはしない。ダビデが選ばれて父親エッサイは驚いたであろう。ダビデは17章以降の記事を見れば、主に対して単純で真っ直ぐな信仰があったことがわかる。主はダビデの心を見て、それを知っておられた。

この主の選びに関して確認しておきたいことが一つある。それは1節の「わたしのために王を見出したから」という表現である。わたしのために王を見出した、備えた、選んだと言われているわけだが、誰のためにかということを確認していただきたい。主は「わたしのために」と言っておられる。主ご自身がイスラエル王国をご自分のからだのように案じておられ、わたしのためにと、一番望ましい備えをしようとされた。主の選びというのは、主にとってはすべて「わたしのために」である。こうしたことを踏まえながら、私たちの側では、主のみこころがどこにあるのかと、主を中心に判断していくことが望まれる。サムエルは結果的にそうした。私たちも主のみこころを尋ね求め、主と一つになって判断することを心がけていきたい。自分、自分と、自分中心に考えてしまいやすい私たちだが、「主のために」である。

さて、ダビデは油注ぎを受ける(13節)。主の霊はダビデに激しく下る。新約的に言えば、ダビデの聖霊とともなる生涯が始まったということである。だがなぜか順風満帆な生涯とはならない。ダビデは王宮に上げられると間もなく、様々な困難に直面することになる。サウルからのねたみ、憎しみ、サウルの果てしない追跡、ダビデは罠にかけられ、荒野に逃亡し、洞窟に隠れ、流浪の身となり、がけっぷちに追い込まれる。サムエル記第一はそこで終わる。

ダビデが王宮に上がるきっかけとなったのは、14節にあるように、サウルから主の霊が去ってしまい、わざわいの霊が彼をおびえさせたことにある。ダビデには主の霊が降った。だが対照的にサウルから主の霊は去ってしまっていた。だから、悪い霊を引き込みやすい状態になってしまっていた。サウルの家来たちは、音楽療法をサウルに進言する(15,16節)。サウルはそれに同意し、竪琴を弾く名手を見つけ出すように命じる(17節)。「私のために上手な弾き手を見つけて」の「見つけて」も「備えて」の意味がある。それは選ぶことと関係する概念である。こうして主に選ばれたダビデは、サウルにも選ばれることになる。皮肉にも主に拒まれたサウルは、主に選ばれたダビデを選ぶ。サウルは無意識のうちにも、ダビデが王となる路線を敷いていくことになる。サウルは、ダビデという新しい王の存在をはばむことができないばかりか、自らがここでダビデを選んでしまう(19節)。

ダビデによる音楽療法はサウルを喜ばせることになり、ダビデはサウルに気に入られることになる(21節)。この音楽療法だが、音楽療法は対処療法でしかなく、根本的解決にはならない。サウルの霊性を根本から変えるまでには至らない。サウルには主の霊は戻らない。主の霊が降ったダビデと主の霊が去ったサウル。このコントラストそのものが、この後の不穏な関係を暗示させる。22節で「ダビデを私に仕えさせなさい。気に入ったから」と言ったサウルだが、それは長くは続かない。ほどなくして、それは燃える妬みと敵意に変わっていく。

ダビデと同じような生涯をたどることになるのが、ダビデの偉大な子孫である主イエスである。イザヤ11章1節の預言、「エッサイの根から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」は、主イエスを指す。主イエスは救い主として選ばれた。イザヤ42章1節のメシア預言では、「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者」とある。主イエスも選ばれた者である。主イエスが公生涯の初めにバプテスマを受けたとき、聖霊が鳩のように主イエスに降る。聖霊の油注ぎである。こうして公生涯がスタートする。その後、ほどなくして、ダビデと同じように困難が待ち受ける。主イエスの選びに対する郷里の人々の反応はどうであったか。良かったのは最初だけ。すぐにそれは敵意に変わった。「『この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。』こうして彼らはイエスにつまずいた」(マルコ6章3節)。郷里の人々はキリストを迫害し、そしてキリストを取り巻く民衆の機嫌は秋の空で、ユダヤの指導者層の攻撃はヒートアップしていく。エルサレムでは、「十字架につけろ、十字架につけろ」の大合唱に発展していく。こうした苦難はその人物の罪のしるしではなく、主に選ばれたしるしである。私たちも、主に選ばれた者たちである。パウロは、各書簡において、クリスチャンとは神に選ばれた者であることを語っている。パウロは苦難の中にあるテサロニケ教会にこう書き送っている。「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています」(第一テサロニケ1章4節)。神に選ばれた者たちとは、神に愛されている者たちである。苦難があってもその事実に変わりはないのである。ダビデの波乱万丈の生涯を見ていく旅に出るにあたって、私たちも、神に愛され、神に選ばれた者たちであるというスタート地点に立ちたいと思う。