今日は、ヨハネの手紙第一の最終の講解メッセージである。最後の文章は、「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」という勧告である。偶像崇拝については、出エジプト記20章のモーセの十戒をはじめ、各書において直接的に間接的に戒められている。偶像と聞くと、異教の偶像、人間の手で造った偶像を思い起こすが、ヨハネはそれにとどまらず、異端の教えを意識して、このことばを使用しているようである。

最初に異教世界の偶像について整理しておく。一世紀のキリスト者たちは、異教世界の偶像の問題に直面していたことは事実である。当時、人間の手で造った神々の偶像が現代以上に崇拝されていた。犬も歩けば偶像に当たるのような地域もあった。そして人間にすぎないローマ皇帝も神として拝むことが強要された。そして偶像を拝まないキリスト者たち、偶像に供え者をしないキリスト者たちは迫害された。だが、こうした偶像崇拝を正当化する主張はいつの時代にもある。たとえば・・・

一、「偶像を拝まなかったら殺される。そうしたら周囲も悲しむし、自分も神を伝えることができなくなる。今死ぬより、生き延びたほうが得だ。なあに、ぺこっとひれ伏せば、それで済むことだ」。ダニエル3章では、バビロン帝国において金の像を拝むように法律が制定されたとき、それを拒んだ三人の物語が記されている。金の像を拝まない者に対する刑罰は火の燃える炉に投げ込むというものであったが、三人は、たとえ神が火の燃える炉から救い出してくださらなくとも、たとえそうでなくても、と言って、偶像崇拝を拒んだ。
二、「聖書では世の偶像は実際にないと言っている。みな、ただの石や木や金属にすぎない。だから、ただ頭を下げても何の問題もない」。これと似たへりくつに、戦前戦中の教会の神社参拝の問題がある。政府は神社は宗教ではないという見解を打ち出し、これを受け入れてしまったキリスト者たちは、神社、神棚の前で拝礼行為をした。これを正当化する理屈として、次のようなものもあった。「拝めと命じられたものは、帝国一致の象徴であり、国旗に敬礼することと同じなのだ」。だが、神に敵対する権力に服することは偶像崇拝である。
三、「すべての宗教は同じ神に通じる。だから、他宗教の神々を拝んでも何ら問題はない」。現代は、これも多い。実際この偽りの神学に立って、正々堂々と偶像崇拝をするキリスト者たちがいる。だが、この屁理屈を認めている聖書箇所はどこにもない。
四、「キリストの象徴として像を造ることは認められるだろう。私は像を拝んでいるのではなくて、それが象徴するところのキリストを拝んでいる」。だが、このような主張であったら仏教徒の方々も言っている。「私たちは木や石で造ったものを神仏とは思っていない。像は神仏の象徴。私たちは像そのものを拝んでいるのではなく、その像が象徴しているところの、その像の背後にいるところの神仏を拝んでいるのだ。だから偶像崇拝と揶揄されるのは遺憾だ」。こうした理屈をキリスト礼拝に適用する者たちがいる。キリスト像を造り、キリストを拝む助けになるのだと。マリアや聖人にも適用する。だが忘れてはならない。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野で金の子牛を造ったときのことを。彼らはそれを主なる神の象徴として造った。そしてそれを拝んだ。神はこの行為を許しただろうか(出エジプト32章)。目に見えない神をかたちにすること自体、許されていない。モーセの十戒では「いかなる形をも造ってはならない」(出エジプト20章4節)と命じられている。

五、「死者崇拝や自然崇拝は許容範囲だろう」。イスラエルの民にとって約束の地と言われたカナンの宗教の実態が、考古学の発見によって分かって来ている。神はカナンの宗教の存続を許さなかったわけだが、どのようなものが実際に神とされていたのかと言えば、ご先祖、月神、太陽神、山の神、海の神、黄泉の神、そして天候の神として良く知られるバアル神など。日本の神々と良く似ていることに気づかれただろう。礼拝行為は創造主である唯一の神にのみ行うべきもので、死者を含めて、神に造られた被造物に行うことは許されていない。

次に、ヨハネが偶像というときに、繰り返し警告されてきた偽りの教えのことも強く意識されているようなので、後半は、そちらについて学んでいきたい。

「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています」(18節)。偽りの教えを説く人々は、罪を罪とも思わず、平然と罪を犯し続けていた。習慣的に罪を犯し続けていた。だが、神の子どもたちはそうではないとヨハネは言う。「神から生まれた者は罪を犯さない」と言われている。16節では「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら」とキリスト者が罪を犯す可能性を語っていたが、「罪を犯さない」とはどういうことだろうか。これについては、3章6節ですでに学んだ。「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません」。「罪を犯しません」という動詞は原語において継続の意味がある。だから、「罪を犯し続けません」と訳せよう。5章18節も同じで、「神から生まれた者は罪を犯し続けない」である。これらの表現は、積極的に、継続的に罪とかかわっている偽りの信仰者が意識されている。彼らは罪の行いを肯定して、罪を習慣的に犯し続けていた。彼らは罪を罪とも思わないで平然と罪を犯し続けていた。だが、神から生まれた真のキリスト者はそうではないということである。罪を罪とし、罪に背を向けて生きる歩みをしている。だがそれは、もはや私には罪はない、という告白を許すことではない。聖書は、地上で罪なき完全に達するとは教えていない。ヨハネは1章8節で言っていた。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私のうちに真理はありません」。私たちは罪を肯定はしない。しかし弱さから罪を犯してしまうことがある。気づかずに犯してしまうこともある。もし自分の罪に気づいたら、キリストの血潮によって罪をきよめていただく。そのようにしながら、私たちは、キリストのうちにあって神の子どもとしてふさわしい歩みをしていくのである。

「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと」に続いて、「神から生まれた方がその人を守っておられ」とあるが、ここでキリストは「神から生まれた方」と言われており、私たちを悪い者から守ってくださることが言われている。私たちを悪に誘う存在は悪魔である。ヨハネはこの手紙においては一貫して悪魔を「悪い者」と表現している。そしてここで、キリストの守りのゆえに、「悪い者はその人に触れることができない」と言われている。いったいこれは何が言われているのだろうか。悪魔が神の子どもたちにタッチしたくてもできない姿をマンガチックに想像する人たちがいる。それはやめたほうがいい。ここでは具体的に、異端の教えによって堕落させられることがないということが強く意識されているのであろう。それは20節の「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださった」という表現からもわかる。異端は真実な方、すなわちまことの神を知る理解力を与えない。だが神の御子はそうではない。真実な方を知る理解力を私たちに与え、偽りに気づかせ、偽りの教えとその不義から、悪い者から守る。

「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています」(19節)。私たちが神に属しているということは、私たちは悪い者の支配下にはおらず、御子イエス・キリストの支配下にあるということである。そのことが次節で述べられている。

「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(20節)。ヨハネは偽りの教えを意識して、神を「真実な方」と呼んでいるのだろう。「真実な方」<アレースィオン>を理解する助けとなるのはヨハネ17章3節である。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」。ここで、「唯一のまことの神」の「まことの」が<アレースィオン>である。すなわち「真実な方」とは、「唯一のまことの神」と言われている「父なる神」である。

そして「私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいる」と、父なる神と御子の一体性が言われている。御父のうちにいることは御子のうちにいること。御父と御子は一つ。私たちは御父のうちにおり、御子のうちにいる。「~のうちに」ということばは、「~の支配の中に」を意味することば。神の子どもたちは悪い者の支配の中にはいない。御父と御子の支配の中にいる。このことを、はっきりと自覚しよう。

さて、13節からが最後の区分で、そのテーマは「永遠のいのち」であることを前回お伝えしたが、20節の終わりに、「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」と言われている。「この方」とは誰を指すのだろうか。議論がされてきた。父なる神を指すともとれるし、御子イエス・キリストを指すともとれる。どちらも永遠のいのちを持っている。それならばどちらでも同じことだという結論で済ましてしまうこともできない。なぜなら、「この方」と言われているわけだから、どちらかに定めなければならない。では「父なる神」だろうか。そのように解釈されることが多かったことは事実である。だが、御子イエス・キリストと解釈することのほうが自然である。この手紙は、イエス・キリストをまことの神として信じない異端を反駁するために書かれたものである。ヨハネは冒頭から、イエス・キリストが永遠のいのちを持っている神であることを主張している(1章1,2節)。ヨハネは結語において、読者に訴えたいことのまとめとして、心に銘記してもらいたいことの要約として、「御子イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちです」と主張しているのだろう。文法においても、そのようにとるのが自然である。指示代名詞である「この方」の最も近くにある先行詞は「御子イエス・キリスト」である。文法的に言っても、「この方」を御子イエス・キリストととるほうが、より自然である。いずれにしても、ヨハネがこの手紙を通して訴えてきたことは、イエスは全き神にして全き人、まことの人となられたまことの神、永遠のいのちはこの方のうちにあるということである。

「子どもたち、偶像から自分を守りなさい」(21節)。この「偶像」の解釈を巡っても議論されてきた。一般的な意味での、手で刻んだ偶像、異教の偶像なのだという解釈を聞く。だが、この手紙の執筆事情、執筆目的から考えて、それだけに断定はできない。偽りの教え、異端的思想を外してはならないのではないだろうか。ヨハネは、異教の神々のことについてではなく、キリスト観が誤っている異端的思想を念頭に手紙をずっと書いてきて、最後の最後で、いきなり、異教の偶像だけを意識させて終わりというのも、あまりにも唐突な終わり方である。

「偶像」<エイドロン>は古典ギリシャ語では「幻影、実体のないもの、幽霊、空想、心象」などの意味があった。ヨハネ当時の異端のキリスト観に、キリストの肉体は幻影である、肉体をもっているように見えたにすぎない、というものがあった。肉体・物質は悪、霊は善という二元論が影響しており、神が悪の肉体をとるはずがないというわけである。だから、その目にしたメシアという存在は幻影であると。このように説く教えそのものが偶像である。ヨハネはおそらく、偽りのキリスト概念と言おうか、反キリスト的教え、誤った信仰告白を念頭に、この「偶像」ということばを使っているのであろう。まことのキリストから目を背けさせる教えは偶像である。イエスはまことの神、永遠のいのちと信じない教えは偶像である。偶像崇拝は罪である。

21節から心に留めたいもう一つのことは、18節では、キリストが守ってくださると教えていたが、21節はそうした受け身の表現ではなく、「偶像から自分を守りなさい」と言い放っている点である。実に印象的な終わり方である。ヨハネの意図を考えたい。ここで「守る」と訳されていることばは、18節の「守る」とは原語は異なっていて、「見張る」「監視する」という意味合いの強いことばである。名詞にすると「番人」となる。箴言のみことばを思い出した。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く」(箴言4章23節)。私たちは自分の心を見張る責任がある。ヨハネは何から自分の心を見張ることを命じているかと言うと、「偶像から」と、偶像に警戒させている。以前の新改訳第三版では、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」という訳だった。様々な教えが出回っている現状にあって、無防備でいてはいけない。見張ること、警戒すること、そうして最終的に守ってくださるお方は主ご自身である。

現代は多くの反キリスト的教えが、他宗教やニューエイジムーブメントに見られ、そしてキリスト教界内にも見られる。神々の偶像にとどまらず、反キリスト的偶像に警戒しよう。イエス・キリストはまことの神、永遠のいのちという信仰告白を揺るぎなく持ち続け、イエス・キリストにとどまり続けよう。