ヨハネの手紙も最後の区分に入る。13節から21節までが最後の区分であるが、テーマは「永遠のいのち」である。13節で「永遠のいのち」の言及があり、20節でキリストが永遠のいのちであることが語られている。この区分を二回にわたり学んでいこう。本日は13~17節までである。

「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです」。私たちが持っている永遠のいのちとは何だろうか。ご自分なりに定義してみると良いと思う。永遠のいのちは長さ以上の意味がある。もし永遠のいのちが単に永遠の長さを意味するだけであるのならば、それは耐えがたいものである。退屈でもある。だが永遠のいのちが喜びであり、祝福であるというのは、永遠のいのちの本質が神のいのちであり、キリストご自身だからである。だから私たちにとっての永遠のいのちとはキリストであり、キリストとの交わりがあることと言っても良いだろう。キリストとの交わりなしに永遠のいのちがあると言うことはできない。この真理は11,12節ですでに言われていた。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。「信仰を持つと、死んでも死なずに永遠に生きられますよ」といった言われ方もされるが、永遠のいのちとはいのちある一つの実体であり、イエス・キリストそのものが永遠のいのちであり、イエス・キリストと切っても切り離せないものである。ヨハネは偽りの信仰者たちである異端も「いのち」ということばを使って色々言ってくるので、誰が永遠のいのちを持っているのかをはっきりさせている。そしてイエス・キリストを信じている読者に、永遠のいのちの確信を与えようとしている。

さて、その流れの中で祈りの教えが続く。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です」(14節)。永遠のいのちの教えの文脈で、なぜか祈りの教えになっている。話が飛んでいると思ってしまうかもしれない。初め、私もそう思った。しかし原文を良く観察すると、13,14節はつながっている。原文では14節の冒頭に「そして」という接続語が入っている。つまり、ヨハネは読者に永遠のいのちの確信を与えてから、続いて、祈りの確信を与えようとしている。それは祈りが聞かれるという確信である。私たちは、祈りが聞かれたと感動することがあるわけだが、そのように祈りの結果を目にする前に、祈りは聞かれたという確信を持つことができるというわけである。15節で言われているように、「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります」と、実現していない未来のことを、信仰の確信をもって受け取ることができると言うのである。

このような確信に至るための条件をヨハネは挙げている。それは「何事でも神のみこころに従って願うなら」(14節)ということである。神のみこころにかなう祈りである。では、神のみこころにかなう祈りをするのにはどうすればいいだろうか。二つのポイントを挙げよう。

第一は、御霊の助けを仰いで祈る。みこころにかなう祈りであるかどうかは御霊だけがご存じである。「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません」(第一コリント2章10,11節)。私たち人間は、神の願いがどこにあるのか気づけない無能な者たちである。だが、それを御霊が気づかせてくださる。御霊が私たちの心を神に向けさせ、自分勝手な願いではなく、みこころにかなうものを願うよう、導いてくださる。パウロは命じている。「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ6章18節)。もし御霊によらなければ、祈る人の声がすばらしくとも、熱のこもった祈りであっても、神が顧みてくださることはない。御霊によらなければ、一つのことば、一つの考え、一つの祈りさえ、神に受け入れられるものではない。だから、御霊の助けを仰ぐ、そのような心構えが必要である。そのときに、御霊が私たちの心に作用し、神のみこころにかなう祈りへと導いてくださる。

第二は、みことばにかなう祈りをする。ジョン・バンヤンは語る。「神のみことばにかなうものを求めるのであれば、それは祈りと言えます。けれども聖書に反することを願うならば、それは汚しことばか、せいぜい意味のない反復にすぎません」。ご存じのように、みことばとは御霊のことばである。御霊とみことばは一体である。だから、御霊はみことばにより、みことばとともに、みことばを通して私たちの祈りを導いてくださるだろう。御霊は私たちの心にみことばを思い起こさせてくださることもする。その結果、私たちはみこころにかなう祈りをささげることができる。

その結果はどうなるだろうか。祈りがかなえられることが期待できると、と期待できるレベルのことが言われていない。確約レベルのことが言われている。15節の後半では「神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります」と言われている。これを神さま側の立場に立って説明すると、祈りのリクエストが神の子どもからある。父なる神は「この子どもに願ったプレゼントをあげよう」と決めて、それを取り分けてしまう。だから、その祈りのプレゼントがまだ手元に届いていなくとも、すでに届いたのも同然。あとは、時が来れば、祈りのプレゼントは現実にその人の所有となる。祈っていて、神は私の願いを聞いてくださったという確信が与えられ、願い求める祈りが途中から感謝の祈りに変わったという経験もあるだろう。私たちはこれからも、そのような祈りの体験を積み上げていきたいと思う。

続く16~17節も祈りである。それはとりなしの祈りである。私たちが祈り願うのは、自分のためとは限らない。主にある兄弟姉妹のためにとりなしの祈りをささげる。聖書は互いのために祈るように繰り返し勧めている。この箇所はよく見ると、兄弟姉妹が罪を犯したときのとりなしの祈りであることがわかる。そして大別すると二つのことがある。一つは、死に至らない罪を犯している人たちが立ち直り、罪が赦されるように祈る。もう一つは、死に至る罪を犯している人たちのためには祈らなくとも良い。とりなしの祈りに関して、「死に至らない罪」と「死に至る罪」が並べられているのを確認してください。多くの罪は死に至らない罪である。キリストを信じていながらも弱さから、未熟さから犯してしまう罪は「死に至らない罪」である。兄弟姉妹が罪を犯したとき、さばいたり、陰口をたたいたり、バカにしたり、そんなことは誰にでもできる。しかしそれは、この世のやり方と何ら変わりがない。相手を批判することは容易だが、その前に、どれだけその人のために祈ったかを自問自答してみなければならない。「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます」(16節前半)。この命令を実行しよう。

さて、皆様は、16節後半で祈るようにと勧められてはいない「死に至る罪」が何であるか気になるだろう。この罪の解釈は5~6つある。旧約聖書や福音書や他の手紙から様々なことが言われている。混乱を避けるために私たちが取るべき選択は、最善のアプローチは、ヨハネの手紙第一全体の文脈から生まれるということである。ヨハネの時代、イエスをキリスト(神の救い主)と認めない異端が教会を惑わしていた。ヨハネは異端の教えに注意喚起し、主にある兄弟姉妹の信仰を堅くする必要性を覚えていた。ヨハネはこの手紙において「死に至る罪」を犯している人々をすでに取り上げている。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです」(2章22節)。彼らの偽りの信仰告白自体が「死に至る罪」である。また、これらの人たちの特徴の一つは罪を罪と思わないということがあり、その中には兄弟姉妹を憎むことも含まれていた。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであっても、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」(3章10節)。これらの偽りの信仰者たちは、「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう」(2章19節)と言われている人々である。もともとは教会のメンバーのようであったが、袂を分かち出て行った。彼らの特徴は何よりも、イエス・キリストに対する信仰告白が間違っているということがある。イエスが肉体において来臨した神のキリストであることを否定していた。またキリストの十字架が罪の贖いのために必要な神のみわざであることを否定していた。彼らは、神との交わりがある、神を知っていると言いながらも実際はそうではない偽り者たちであったのである。

それにしても、「これについては、願うようにとは言いません」(16節d)とはどういうことだろうか。「死に至る罪」については願うようにとは言われていない。願ってもいいけれども救われる望みはないから願うことはないという意味にもとれるし、願うことを暗黙に禁止しているとも受け取れないこともない。エレミヤ書において、神はエレミヤに対して民のためのとりなしを何度も禁じている。「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ」(エレミヤ7章16節)(参照:11章14節 14章11節)。とりなしの禁止というのは、旧約聖書や新約時代の文書においては、悔い改めない罪人に対する神のさばきのしるしの一つとされている。悔い改めて神との交わりに入る可能性のある人のために私たちは祈る。悔い改めるということも神の恵みであるわけだが、あまりにも心が頑なで、悔い改めるという恵みさえ取り去られている状態であるならば、とりなしをしても意味をなさない。

ヨハネの「願うようにとは言いません」という表現は微妙である。共同訳は「願い求めなさいとは言いません」となっている。「願い求めてはいけません」「絶対に願ってはいけません」という表現ではない。かといって、「願ってみなさい」という表現でもない。いずれ、「絶対に願ってはいけません」という禁止の表現ではないので、「もしかすると」という思いで、一縷の望みを抱いて祈ることは許されるだろう。「反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません」(第二テモテ2章25,26節)。だが、神さまが悔い改める恵みを取り去る者たちがいることも事実である。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」(へブル6章4~6節)。このような人たちはキリスト信仰を完全に捨て去ってしまった人たちである。

ヨハネは難しい事例があることに触れつつも、同じ神の家族である主にある兄弟姉妹に対するとりなしの祈りを願っている。「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます」(16節前半)と。イエスは全き神にして全き人、まことの神にしてまことの人、私の罪の身代わりに十字架で死に、三日目によみがえってくださったお方と信じている兄弟姉妹であっても、誰にでも罪であるとわかる罪を犯してしまうことがある。その人にために祈るということである。それこそ、それは神のみこころにかなう祈りである。

ヨハネのエピソードを見ると、彼は異端に対しては厳しかったが、次のようなものがある。二世紀の有名な神学者のクレメンスが伝えた話に、盗賊回心物語がある。ヨハネが伝道旅行中に一人の若者と出会い福音を伝えた。ヨハネはこの若者をその町の教会の監督にゆだね、エペソへ帰った。その若者はバプテスマを受けるも、その後、盗みを覚え、盗賊の首領となり、山をねぐらにして生活するようになってしまった。これを聞いたヨハネは、衣を裂き、頭をたたいて悲しみ、さっそく馬を用意させ、山へ案内させて出かけると、見張りの盗賊に捕らえられた。彼は逃げも拒みもせず、「このために私は来たのだ。私を首領のところへ連れて行け」と言った。首領はヨハネを見ると恥ずかしくなり、逃げ出した。ヨハネは彼にこう言った。「なぜ逃げるのか。わが子よ。おまえの父から?無防備の年老いた父から?わが子よ、私をあわれと思わないのか?恐れることはない。おまえはまだ救われる望みがある。おまえのために、私はキリストにとりなそう。もし必要なら、キリストがわれらのために苦しまれたように、おまえのために喜んで苦難を忍ぼう。私はおまえのために、私のいのちをあげよう。まことにキリストが私を遣わされたのだよ!」これを聞いた若者は意気消沈して立ち止まり、武器を投げ出し、身をふるわして泣きだした。そして年老いたヨハネを抱いて、真心からの回心を誓った。ヨハネはひざまずいて、彼のためにキリストに祈り、彼のすべての罪が赦されたことを宣言し、彼を教会へ連れ戻った。ヨハネは彼のために常に祈り、慰め、励まし、後に彼は教会の監督になったとのことである。ヨハネ自身、「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、神に求めなさい」を実践したのである。

さあ、私たちは神のみこころにかなう祈りをすることに努め、主にある兄弟姉妹のためにも祈り、その人の信仰の成長や回復を願っていこう。