皆様は神を信じる前に、「愛」ということばにどのようなイメージを抱いていただろうか。ヨハネは愛の使徒と呼ばれるが、4章7~21節までに、「愛」ということばが27回使用されている。ヨハネがいかに愛を強調しているかがわかる。「愛」ということばは明治時代頃は色恋の愛というイメージしか持たれなかったと言われる。その愛のイメージを変えた根本的な書が聖書である。聖書の執筆者ということでは、ヨハネが大きな役割を果たしたわけである。

今日の箇所は愛の教えにおいてたいへん有名であり、圧倒されるような文章であるが、私は今日の箇所を読んでいて、疑問を抱いたことが一つある。それは前回の4章1~6節で偽りの信仰者の特徴を説明していたと思ったら、7節以降、内容がガラッと変わったように思えたからである。話のつながりが全くないというか。けれども、よく読むと、そうではないことを知った。ヨハネは偽りの信仰者の特徴として、彼らの教理が間違っていること、特にイエス・キリストをまことの神にしてまことの人と信じないことを問題視した(2,3節)。彼らの教理は間違っていた。そして今日の箇所では、彼らの愛のなさを念頭に置いている。それは8節の「愛のない者は神を知りません」からわかる。また20節の「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」からもわかる。行動においては、愛があるかないかが偽りの信仰者の試金石となる。それは前回、偽りの信仰者の特徴の二番目で触れさせていただいた。ヨハネはこのように偽りの信仰者を意識しながらも、真の信仰者の姿を、愛という側面から語ろうとする。真の信仰者は正しい教理を身に着けているだけではなく、兄弟姉妹を愛するという特性を身に着けているということである。

以上のことを踏まえながら、最初に7~12節より、互いに愛し合うべき理由を三つ見ていきたいと思う。互いに愛し合うべき理由の第一は、愛は神から出ているからである。「愛は神から出ているのです」(7節b)。「から」ということばは、源、起源を表わしている。愛は神から出ている。人間からは出ない。私たちは人間である。だが私たちは神から生まれ、神の子どもとされた。神が私たちの父であるのだから、神の子どもたちは神から出る愛という特質を身に着けることになるだろう。ヨハネは「愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています」(7節c)と証言する。「神から生まれ」に続く「神を知っています」の「知っている」ということばは、頭の知識として知っているということではなく、この場合、人格的に知っているということである。神から生まれ、神を知っている者は愛を身につけている。それはそうなのだが、愛の実践そのものは簡単ではないことも事実である。私たちは未信者のときは、他人のうちに愛を捜し、愛がないと批判していた。クリスチャンになると、自分のうちに愛を捜し、愛がないと悩むことにもなる。それだから、「愛は神から出ているのです」とあるように、絶えず、愛の源泉である神のもとに行って、愛を汲み上げたいと思う。

互いに愛し合うべき理由の第二は、神は愛だからです。「神は愛だからです」(8節b)。これは原文の意を汲んで訳すなら、「神の特性は愛だからです」となる。ヨハネは神の特性を前提にして、互いに愛し合うこと、兄弟姉妹を愛することを勧めている。これは大切なことである。ヨハネは、互いに平和に暮らすために互いに愛し合いましょうとは言っていない。争うのはお互いに損だから互いに愛し合いましょうとは言っていない。ヨハネは人間の側に前提をおいて愛し合うことを勧めているのではなく、神の側に前提をおいて、神は愛であるから愛し合いなさいと勧めているのである。あの人を愛せない理由があると言ってみても、「神は愛です」と迫られたら、はいそうでした、としか言えない迫りを感じる。愛せない事情があるんですよ、わかるでしょ、と言ってみても、「神は愛です」と言われたら、ぐーの音も出なくなる。そして、「愛のない者は神を知りません」(8節a)とまで言われてしまう。あの人とは性格が合わない、趣味が合わない、あの人の口の利き方がいやだ、とにかくいやだと言ったところで、「神は愛です」の前には言い訳にしかならない。

互いに愛し合うべき理由の第三は、神の愛は、ひとり子イエス・キリストによってはっきりと示されたからである(9~11節)。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を世に遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」。ヨハネはキリストの十字架の愛を強調している。原文を見ると、9節では、「それによって神の愛が私たちに示されたのです」が文頭に来ている。10節では、「ここに愛があるのです」が文頭に来ている。ヨハネは「それによって神の愛が」「ここに愛があるのです」と強調することによって、どこに神の愛があるのかを知らせようとしている。その愛は十字架に現されている大きな愛である。

ヨハネは9,10節において、イエスとかキリストということばを一言も使っていない。その代わりに、「ひとり子」と「御子」ということばを使っている。それは神の愛の大きさを親子関係から考えさせるためであろう。それはひとり子をも惜しまず犠牲にする愛。「ひとり子」の「ひとり」<モノゲネース>は「唯一の」を意味する。だから、「ひとり子」とは「たったひとりの子」ということである。「たったひとりの子」であるので、ご自分の分身のような存在である。だが私たちへの愛のゆえに「たったひとりの子」を犠牲にしてくださった。具体的には、私たちの罪のために「宥めのささげ物」としてくださった。「宥めのささげ物」<ヒラスモス>は、罪を取り除くためのいけにえを意味する用語であり、「罪を償ういけにえ」という訳でも良いだろう。神は私たちの罪の償いのために、御子を遣わし、御子のいのちを代価とし、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えようとしてくださった。ここに愛がある。どこに愛があるのかと捜している人たちには、「ここに愛があるのです」と教えてあげよう。

私たち自身、「ここに愛があるのです」の愛に何度も立ち返らなければならない。罪深い自分の罪がどれほどの愛で愛され、赦されたのかを思えば、あの兄弟の罪は赦せないで済ますことはできないだろう。私たちは、あの人が私に見せた態度、あの人の目線、あの人の口の利き方というように、そうしたことが入口となって気になり、悪感情をもってしまうことがあるが、十字架の愛、そこに見られる破格の愛を振り仰いでみるときに、こだわりは消え、愛する力も与えられるのである。ヨハネは、十字架の愛を語った後に、11節において、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」「べきです」と、逃げ道をつくることを許さない。

ヨハネは12節において、互いに愛し合うときの絵図を示している。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。「いまだかつて神を見た者はいません」と、神は目に見えないという性質をまず語る。ヨハネがこの節で話していることは、目に見えない神は、私たちが互いに愛し合うことによって私たちのうちにとどまり、神の愛の回路は私たちのうちに完成をみるということである。「神の愛が私たちのうちに全うされるのです」を、電気回路でたとえてみよう。電気回路に電流が流れる。しかし、何らかの問題によってショートしてしまう。電源プラグその他にほこりや水が付着しているとか、コードが劣化しただとか、ハンダくずが接触しているとか、配線処理に不具合があるとか、ねずみがかじっただとか、部品に問題があるとか。では神の愛の回路を妨げてしまうものは何か。神の愛の回路を妨げてしまう原因を考えてみた場合、神の愛と反対の性質のものが私たちのうちにあるということ。そねみ、ねたみ、憤り、分裂、20節で言われている憎しみであったり。そうであるなら、神の愛の回路は回復しないし、完成をみない。「愛は神から出ている」わけだが(7節)、私たちのうちに問題が生じると、その愛が部分的にしか流れないか、全く流れなくなってしまう。

次に電気回路ではなく、湖にたとえてみよう。北海道に摩周湖がある。日本一、汚染物質が少ない湖として知られている。透明度が非常に高く、かつてはシベリアのバイカル湖をしのいで透明度が世界一と言われた清くすんだきれいな湖だった。だが少しずつ汚染物質が増えてきている。現在も研究機関が汚染物質が入り込まないように監視し、研究を続けている。私たちは川、海、湖水の汚染を聞くと悲しい気持ちになるわけだが、同じように神は、ご自身と反対の性質のものが私たちキリスト者の交わりを汚染するときに、悲しい気持ちになるのではないだろうか。神はご自身の愛がキリスト者の間で百パーセント現されることを願っている。

後半の13~21節を学ぼう。13~16節前半は、これまでの復習である(3章23,24節 4章2,3節)。13節で御霊の言及で始まり、次いで、神のうちにとどまること、イエスが神の御子であると告白することが神のうちにとどまっていることであること、そして16節前半で神の愛という言及に至っている。ヨハネは、御霊が与えられ、イエスを信じ、神のうちにとどまる信仰者の当然至極の実が愛であることを語っていきたいので、その前準備として13~16節前半を語っている。

そして、いよいよ今日の区分の中心と言ってよいみことばが登場する。「神は愛です」(16節後半冒頭)。これはあまりにも有名なみことばである。「神は愛です」。この宣言を知らないクリスチャンはいないだろう。何ゆえにこの宣言がされたのだろうか。私たちは、ああ素晴らしい宣言であると、ここで止まってしまうことがある。ヨハネにとっては、「神は愛です」と宣言すること自体が目的ではない。では何が目的だろうか。それは、私たちが愛のうちにとどまり、神のうちにとどまること、具体的には神の愛を実践に移してもらうことが目的である。「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」(16節後半)。「愛のうちにとどまる」とは、具体的には神の愛を知り、また信じた者として、兄弟姉妹を愛することである。

17,18節は、愛とさばきの関係について言われている。まず17節前半において、愛の完成が言われている。「こうして、愛が私たちにあって全うされました」。これは12節のみことばの実践の結果である。12節を確認してみよう。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。12,17節で「全うされる」と訳されていることば<テレイオー>は、「完成する、目的が達成する」という意味のことばである。互いに愛し合うならば神の愛は私たちのうちに完成をみる。つまり、愛の回路の完成である。

この時、この愛は個人レベルでは「全き愛」となっている。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです」(18節)。ここでは、愛と恐れについて言われているが、これはどういうことだろうか。恐れは17節にある「さばきの日」との関連で言われている。すべての人がやがてキリストのさばきの座に立たせられる。さばきの座に立たせられると知ってどのような心境になるだろうか。恐れをふつう抱くものである。18節で「恐れには罰が伴い」とあるが、この恐れは刑罰への恐れである。参照として、マタイ25章45,46節を読んでみよう。「すると、主は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。「おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。」こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです』」。兄弟姉妹を愛さなかった者に対して刑罰が宣告されている。「刑罰」<コラシス>ということばは、実は他では第一ヨハネ4章18節で使用されているのみである。「恐れには罰が伴い」の「罰」ということばである。では、この刑罰への恐れを締め出してしまうものは何だろうか。ヨハネは、それが愛だというのである。全き愛はやがてキリストのさばきの座に立たせられたとき、恐れとは反対に、大胆にさせる。それが17節において、「私たちはさばきの日に確信を持つことができます」と表現されている。ここで「確信」と訳されていることば<パルレーシア>の元の意味は「自由に発言できること」ということである。そこから自由に発言する態度である「大胆さ」を意味するようになった。以前の新改訳第三版では「大胆さ」と訳されていた。それは「恐れ」と正反対の態度である。この態度を持つことができる理由として、17節後半では「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです」と言われている。これは、キリストにならって愛のうちにとどまる者は、さばきの日も案ずることはないというわけである。カギとなるのは愛である。すなわち、18節で言われているように、キリストが持っているのと同じ全き愛が恐れを締め出してしまうというわけである。この全き愛が推奨されているわけである。

19~21節も「全き愛」の良き説明文となっている。「全き愛」を成立させる愛の要素は三つある。それが19~21節で描かれている。ヨハネが教える、全き愛を成立させる三つの要素とは、一つ目は神からの愛。二つ目は神への愛。三つ目は兄弟への愛。愛の三位一体である。この三つが一つとなって「全き愛」となるのだが、ヨハネは全き愛が全き愛となるために私たちに問いかけていることが、兄弟を愛することである。これによって愛は完成をみるからである。では三つの愛を意識しながら見ていこう。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(19節)。ここでは「神がまず私たちを愛してくださったからです」と、「神からの愛」が愛のトップに来るものとして言われている。これがなければ何事も始まらない。実は、この文章の前半の意味が論じられることがある。「私たちは愛しています」とあるが、誰を愛しているのか、目的語が記されていないので、愛している対象は誰なのかと論じられるわけである。神を愛しているということなのだ、と受け取ることができる。事実、初期の写本にそのようなものがある。また、兄弟を愛しているということなのだ、という受取りもある。さらには、ヨハネはあえて神を愛することと人を愛することを区別していないという受取りもできるだろう。いずれにしろ、後半で「神がまず私たちを愛してくださったからです」とあるように、愛そのものは神から出ており、神がまず私たちを愛してくださったという事実が先行しているということである。神からの愛である。この愛がなければ、何事も始まらない。「私たちは愛しています」に至ることはない。

そしてヨハネは20,21節において、「神への愛」と「兄弟への愛」に言及する。神を愛することと兄弟を愛することは一つなのだと教える。神を愛していると言いながら兄弟を愛していない者は神を愛してはいないと語る。「神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています」。もし私たちが人前で神を愛していますと公言しながら、その心の中で兄弟姉妹への憎しみがあるなら、偽っていることになる。また兄弟姉妹に対して憎しみを抱いているにもかかわらず、自分は神さまを愛していると思っているならば、大変な思い違いをしていることになる。ヨハネは、兄弟を憎む者は神への愛はないに等しいと教える。神を愛することと兄弟を愛することを分離して考えてしまい、観念的に神を愛している自分に満足してしまうことをヨハネは許さない。「神よ。あなたを愛しています~涙ポロポロ」。その一方で、「あんちくしょ~、○○め」という姿を神に見せていたらどうだろうか。アウトである。「目に見える兄弟」ということばを「いつも目の前に見ている兄弟」と表現することもできるだろう。それは地球の反対側に住む兄弟姉妹のことではない。私たちは身近にいる兄弟姉妹への愛を通して神への愛が試されていると言えるだろう。

19~21節では三つの愛を見ることができた。「神からの愛」(神の私たちへの愛)。次に「神への愛」(私たちの神への愛)。そして「兄弟への愛」(兄弟姉妹への愛)。この三つの愛が重なり合い調和をみるときに、それは「全き愛」となる。ヨハネは、この愛は兄弟への愛がなければ完成をみないことを知っていた。最後にヨハネは21節において、「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています」と、兄弟を愛することは神の命令なのだと強調している。「この命令を神から受けています」は、「神から」のところに印がついていて、欄外注を見ると、「別訳『キリストから』」とあり、「この命令をキリストから受けています」という別訳になることがわかる。原文では、「この命令を彼から受けています」となっている。「彼」を「神」と採っても「キリスト」と採っても、どちらも正解である。

私たちが今日覚えておきたいことは、愛の出発点は神であり、愛は神から出ているということ。神は愛であり、愛の完全なかたちは御子イエス・キリストを通して示されたということ。それが神からの愛である。神からの愛、神への愛、兄弟への愛が重なり合い、調和を見て、全き愛となるのだということ。神への愛と兄弟への愛は結びつけられていて、分離できないものであり、兄弟への愛を実践してはじめて、愛は完成を見、全き愛になるのだということ。兄弟への愛は神の命令であり、キリストの命令であるということである。

ヨハネは年老いて弱くなり、歩くことができなくなると、教会まで他の人に運んでもらって説教をし、「子どもたちよ。互いに愛し合いなさい。これが主の命令なのだから」と言うのが常であったという話は有名である。ヨハネは主の命令を耳にたこができるほど語り続けた。歩けなくなっても語り続けた。私たちも主の命令に従いたいと思う。