今日の区分は、「霊をすべて信じてはいけません」(1節前半)で始まる。霊の存在そのものを信じない人たちがいるが、執筆者のヨハネは、霊は存在しないと言っているのではない。霊は存在する。ただ、その霊を神からの霊として容易に信じてしまわないように、ということである。まこと唯一の神からの霊がある。それは2節で「神からの霊」と言われている。神からの霊でないものは、3節で「反キリストの霊」と呼ばれ、6節では「偽りの霊」と呼ばれている。霊だからといって、みな信じてはいけない。それが神からのものか、そうでないのか見分けることができなければならない。ヨハネは「その霊が神からのものかどうか吟味しなさい」(1節後半)と言っている。

「霊」というとき、世の人はどのようなものを思い浮かべるだろうか。一つには「幽霊」があるだろう。死者の霊である。それで死者の霊をなだめるとか拝むとか、また霊媒師、口寄せといった霊能者によって、死者の霊との交信を試みたりする。

また、アニミズムの霊を思い浮かべる人もいるだろう。アニミズムとは古代から現代にまで続く神観で、すべてのものに神の霊が宿っているというもの。水にも、石にも、木にも、山にも、動物にも、自然界にあるありとあらゆるものに神の霊が宿っているとする。神道をはじめ、世界中で古代からこの考え方がある。そして、すべてのものに神の霊が宿っているとするゆえに、自然界のありとあらゆるものが礼拝の対象となる。霊そのものに対しては、何か神秘的なもの、不可思議なもの、恐ろしいものという印象を抱く。そして様々な儀式を試み、霊を宥め、敬う態度を表わす。

諸宗教の神の霊を思い起こす人もいるだろう。何らかの神さまを信仰しているなら、それが宗教である。それぞれの宗教では信じる対象としての神がある。ヒンズー教、仏教、イスラム教、キリスト教という風に、それぞれに信仰の対象がある。そしてそれぞれにまた宗派があって、神の性格付けが異なっている。これに関して覚えておいていただきたいものに、宗教多元主義がある。これは、「宗教は違っても元は一つ。同じ神にたどり着く。だから、どれを信じても救われる」というものである。一休和尚の歌と言われるもので、有名なものに次の歌がある。

「わけのぼるふもとの道はおほけれど同じ高ねの月をこそみれ」

これを宗教に当てはめれば、異なった宗教の道がたくさんあるけれど、みな同じ神にたどりつくというものである。一見、なるほどと思ってしまうが、各宗教の教えを調べると、教えていることがかなり違っている。たとえば、イスラム教やユダヤ教は、キリスト教と似ているようでそうではなく、三位一体としての御子キリストをきっぱり否定している。大乗仏教では究極的実在は「空」であるし、創造神を否定する。とにかく根本的教えが違う。聖書はどの宗教にも同じ神の霊が働いているとは言っていない。

ではキリスト教を名乗るならば大丈夫なのか言うと、ヨハネはそうだとは言わない。ヨハネがこの手紙を書いた一つの理由は、教会から偽りの教えを説く者が起こされていったからである。2章19節に「彼らは私たちの中から出て行きましたが」とある。彼らはもと教会のメンバーであって、教会を惑わしている。私たちこそ本物の教えを説いているのだと。1節後半に、「偽預言者がたくさん世に出て来たので」とあるが、それが彼らのことである。この時代、すでにたくさんの偽キリスト教徒がいた。彼らはキリスト教を名乗り、哲学的かつ神秘的な教えを説き、自分たちの霊体験を語ることもしただろう。特別な啓示を受けたとか、神からの声を聞いたとか。現代でも良くある話である。彼らは聖書の神を信じていると言っていただろう。だが彼らは神から出た者ではなかった。

ではヨハネの教えを通して、偽りの霊、偽りの教え、偽りの信仰者を見分けるポイントを三つに分けて見ていこう。第一番目はイエス・キリストを正しく信じているかどうかということである。「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです」(2,3節)。ヨハネが話す「人となって来られたイエス・キリスト」というキリスト観が大切である。「人」のところにマークが付いていて、欄外注に「直訳『肉をもって』」とある。どうやら、偽りの信仰者たちは、神が肉体をとられた存在がイエスであると信じなかったようである。彼らは、霊は善、物質は悪の二元論を受け入れ、神が物質の肉体をとるはずはないと主張していた。このようにして、イエス・キリストはまことの神にしてまことの人という使徒たちの教えを拒んでいた。ヨハネはこのことを単に、彼らの理解の欠けの問題として片づけない。偽りの霊の問題として受け止めている。「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です」(3節前半)。偽りの霊は、イエスはまことの神にしてまことの人と告白しないのである。また告白させないのである。では反対に、イエスを告白させる霊は何か。パウロは言う。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第一コリント12章3節)。まさしく御霊は神からの霊である。

ここで、神からの霊としての御霊について、説明を加えさせていただきたい。「御霊」は3章最後の24節を見ていただくと、「神が私たちに与えてくださった御霊」と呼ばれている。「御霊」という訳語であるが、「霊」ということばに接頭語の「御」をつけて尊敬語にしているわけである。「御霊」の原語は<プネウマ>ということばで、直訳は「霊」である。協会共同訳は、ただ「霊」と訳している。4章1節の「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません」の「霊」も<プネウマ>である。3節の「イエスを告白しない霊」の「霊」も<プネウマ>である。原語では「御霊」も「霊」も同じく<プネウマ>となっており、直訳は「霊」である。ヨハネは、3章24節で「神が与えてくださった霊によって分かります」と述べた後に、4章に入り、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません」という流れで警告を与えている。神からの霊<プネウマ>とそうではない霊<プネウマ>を見分けよ、ということである。悪しき霊<プネウマ>もあるからである。私は新改訳では、「霊」が三位一体の第三位格の聖霊を指す場合、「霊」に「御」という接頭語を付けて「御霊」と訳し、尊敬語にして、その他の霊と区別しているのが気に入っている。それは、あれもこれも神からの霊にしてしまったり、霊的な働きや現象を、なんでもかんでも神からの霊に帰してしまう傾向あるからである。

偽りの霊、偽りの教え、偽りの信仰者を見分けるポイントの第二番目は、罪に対する態度がどうかということである。「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいるよりも偉大だからです」(4節)。ここでは、神の子どもたちは神から出た者であり、そして「彼らに勝ちました」と、すなわち、偽預言者たちに対して霊的勝利者であり、霊的に優位であることが言われている。その理由は、後半で、「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいるよりも偉大だからです」と言われている。「あなたがたのうちにおられる方」とは、文脈上、神の御霊のことである。私たちにも御霊が与えられている。神の御霊は「この世にいる者よりも偉大」である。では「この世にいる者」とは誰か。それは主イエスが「この世を支配する者」と呼んでいた悪魔のことである(ヨハネ12章31節 同14章30節 同16章11節)。ヨハネは5章19節では、「世全体は悪い者の支配下にある」と言っている。悪魔は「この世の支配者」であり、「この世にいる者」である。「この世にいる者」である悪魔が偽りの教えの源泉であるならば、ここで直接の言及はないが、悪魔が源泉なわけだから、その教えは必ず罪に対しては寛容になる。ヨハネが警告している偽りの信仰者たちは、罪を肯定する教えを語り、御霊に反する汚れを行い、また神の子たちに対して憎しみを抱いていた。それは神からの霊がすることではない。

見分けのポイントの第三番目は、使徒の教えを受け入れるかどうかということである。「彼らはこの世のものです。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます」(5,6節)。ヨハネが言っている私たちの言うことを聞く聞かないの「私たちの言うこと」とは、ようするに使徒たちの教えである。使徒たちの教えは真理の御霊から来ている。主イエスは使徒たちに向けて語っている。「しかし、その方、真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(ヨハネ16章13節)。使徒たちの教えが新約の文書である。使徒の教えに耳を傾けることが肝要である。偽りを教える偽預言者たちの場合は、5節において、「ですから、世のことを話し」とあるわけだが、言い換えると、罪を罪としない教え、世の欲望を満たすような教え、大衆受けする教え、使徒たちの教えにはそぐわない真理を捻じ曲げた教え、偽りを語る。6節で「神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません」というとき、それは今日において、新約聖書の教えに聞き従わないことであると言えるだろう。その教えはまちがっているとか、だいたい正しいがまちがいも含んでいるとか、もう書いてあることが古いとか、時代に合わないとか、新たな神の啓示がこの新約文書のあとに続いてもいいとか、そのように主張する人たちが今も大勢いるが、それは神から来たものではないだろう。このようにみことばの真理に戦いを挑む教えが現代も蔓延している。だからこそ、私たちは真理のみことばに固執するのである。真理のみことばがテスターとなって、霊を見分けさせる。

今、皆様の中で、人から聞いて、また書物を読んで、この教えが神から来たものなのだろうか、と疑問を持つ教えがあるだろうか。そのような場合、みことばに立ち返ることである。ただし、これまでの経験上、偽りの教えを説く人たちも、みことばを引用して、聖書にこう書いてある、こう書いてあると言ってくる。主イエス・キリストの有名な荒野の誘惑の場面においても、悪魔はみことばを引用してキリストを誘惑してきた。私たちが大切にしたいことは、聖書全体を繰り返して読むことの必要性である。そうするときに、聖書の一節を切り取って主張する相手の主張が正しいか誤っているか、見抜くことができる。何か変だなと思う教えは、他の聖書箇所との整合性が取れていない場合が多い。けれども、聖書全体を読んでいないとそれに気づけない。

キリストが出現した当時、キリストの教えを拒んだのは、なんと、聖書に精通しているはずのパリサイ人や律法学者たちであった。彼らのどこに問題があったのだろうか。彼らの場合、聖書というよりも、口伝律法という先祖の言い伝えの教えに、聖書と同等の権威を置いて、いやそれ以上の権威を置いて教えていた。だからキリストは、「彼らがわたしを礼拝してもむなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから」とイザヤのことばを引用し、「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」「あなたがたは自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」と叱責した(マルコ7章6~9節)。けれども、律法学者たちの教えは神の教えの標準として受け入れられていたものであった。これが正当な聖書の解釈であり、生活への適用ですよと。人々は盲目的にそれに従った。教会が誕生した後の歴史を見ても、人の教えが神の教えとされるということが繰り返されてきた。中世や近代の教会の歴史を見ると、この世の思想や哲学の影響を受けた教えであったり、時代の風潮に流された教えであったりしても、当時にあっては神の教えなのだと教えられてきた。百年後になって、主流となっていたあの過去の教えは間違っていた、ゆがんだ教えであったと言われても、その当時の人たちからすればえらい迷惑。死んでから言われても困る。だから、生きている一人ひとりが、人の教えに振り回されず、自分で聖書を繰り返し読んで、神の教えを自分に染み渡らせていきたいと思う。特に、使徒の教えに耳を傾け続けることが何よりも大切である。参考書を頼りに読むのも良いが、それ以上に大切なことは、自分で注意深く聖書を読むことである。それにまさるものはない。聖書をパッと読んで参考書に目を移すだけだと、結局、参考書に書いてあることを頭ごなしに信じて終わりになってしまうか、聖書の字面だけ頭に入れて終わってしまうことになる。だから、祈り心で、聖霊の助けを願いつつ、「神さま、語ってください」と聖書を注意深く読んでから、参考書に目を移すことである。

パリサイ人や律法学者のもう一つの大きな問題は傲慢である。私たちは高邁な学者や神学者でもないので、聖書を正しく読み解けないかというと、そうではないと思う。反対に、多くの世の学者、知者と言われている人たちが、聖書を読み誤っている。そしてキリストを拒むこともしている。私は、神の前に心を低くできないと、どんなに頭が良くとも、どうしてもご都合主義の読み方になると思っている。自分がちりにすぎない人間であることを認め、自分の罪深さを素直に認め、神の前に心を低くし、悔い改める心を持って読まないと、人間のことばに相対するような態度で読むだけとなり、都合の良い受け止めになる。または懐疑心、挑戦的な心で読むことにもなり、神を恐れる心は育ってはいかない。そして自覚のないまま、偽りの教えを信奉することにもなりかねない。私は、聖書を読むときの心の態度がいかに大切であるかを、年齢を重ねることに痛感させられる。私たちは偽りに騙されない霊性を身につけることを心がけつつ、神の御前には、素直な神の子ども、心の低い救われた罪人として出ていきたいと思う。

今日は、偽りの霊、偽りの教え、偽りの信仰者を見分けるポイントを中心に見てきたが、私たち自身が偽りに流されないための霊性を身につけたいと思う。