今日は、二つのことばをキーワードにしたいと思っている。一つは「重荷」。もう一つは「勝利」である。

ヨハネは今日の区分を「イエスがキリスト(神の救い主)であると信じる者はみな、神から生まれたのです」(1節前半)という宣言で始まる。神から生まれた神の子どもとは、イエスをどう信じているのが正解かということである。ヨハネはこの手紙において、イエス・キリストに対する信仰告白にこだわりを見せてきた。それは、イエスがキリストであることを信じない偽りの信仰者が教会から起こされていったからである。ヨハネはすでに、そのことを語ってきた。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう」(2章23節)。「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です」(4章2,3節)。イエスが肉体をとってこの世に来られたまことの神であること、イエスは神の救い主キリストであると信じない者たちがいた。彼らは人間イエスと、キリストという二つの存在に分けてしまった。人間イエスに一時的にキリストの霊が憑依した、そのような教えを説いていた。

そして、ヨハネが偽りの信仰者の特徴として挙げていた特徴には、兄弟姉妹を愛さないということもあった。それは前回も学んだ。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」(4章20節前半)。

では、真の信仰者の特徴はどうだろうか。それは偽りの信仰者とは正反対である。真の信仰者は、一節前半にあるように、イエスがキリストであると信じる。そして1節後半にあるように、兄弟姉妹を愛する。「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者をも愛します」。「生んでくださった方」が生みの親の神で、「その方から生まれた者」が神から生まれた兄弟姉妹である。ヨハネは、神を愛することと兄弟姉妹を愛することは分離できないことをすでに告げていた。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けているのです。」(4章20,21節)。ヨハネはこの教えを繰り返す。神を愛することと兄弟姉妹を愛することはコインの裏表のような関係にある。

それを踏まえて、2,3節に目を落とそう。「このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません」(2,3節)。まず、神を愛するということに改めて着目しよう。ヨハネが神を愛することを繰り返し語るのは、神を愛することが私たちの目標だからである。かつてゼレミー・テイラーという女性は、片手に火を持ち、片手に水を持つ女性の絵を描いた。ある男性がこの絵にはどのような意味があるのかと尋ねると、彼女はこう答えた。「私はこの火をもって天を焼き尽くし、この水をもって地獄の火を消しましょう」。なんという過激なことを言うのかと思うのだが、彼女は続けて、「そのようにして、人が、天国の望みによって心惹かれることなく、地獄の恐怖によって脅かされることなく、ただ神ご自身のゆえに、神に仕えてもらうためです」と答えた。天国に行きたいからという理由で神に仕えるのではなく、地獄に行きたくないからと理由で神に仕えるのでもなく、ただ神への愛ゆえに神に仕えるべきだという思いが彼女のうちにあった。純粋な神への愛への勧めである。

では神への愛はどのようなかたちで表されるべきなのだろうか。それは神の命令を守ることによってである。3節では、「神の命令を守ること、それが、神を愛することです」と言われている。神の命令ということで、ヨハネが強調していたことは、兄弟姉妹を愛するということであった(4章21節)。この神の命令についてもう少し考えてみよう。「命令」ということばは、他の箇所では「戒め」と訳されていることばと同じある。聖書に記されている戒めはすべて神の命令である。

では、「神の命令は重荷とはなりません」とはどういうことなのだろうか。「神の命令を守ることはおちゃのこさいさいだ、非常に簡単でやさしい」ということではないだろう。そうではなく、「神の命令は耐えがたいものではない。従いたいと思わせるものだ」ということだろう。神の命令をしょい込みたくはないお荷物のように感じたらどうだろうか。ひたすら、「いやだ~、いやだ~」となるだろう。しかし、神を愛する者にとっては、そうした重荷にはならない。格言にも「愛は重荷を感じさせない」というものがある。見知らぬ人のためならしたくない苦労であっても愛する人のためなら何ほどのことはない、ということを考えてみると良いだろう。イスラエルの父祖ヤコブはおじのラバンのところに居候して仕えようとした時、ラバンにどういう報酬が欲しいのか尋ねられた。ヤコブはラバンの次女ラケルと結婚することを望んでいたので、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。そして、こう記されている。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた」(創世記29章20節)。ヤコブが実際にした労働そのものは楽ではなかったはずである。羊を飼う仕事である。だが愛は重荷を感じさせなかった。もし皆さんが誰かに用事を頼んだとする。頼まれた一人の人は、あなたのためならと言って、一つ返事で引き受け、汗をかきながらも喜んで用事を済ましてくれた。もう一人の人は、ぶつぶつ言いながらしぶしぶ引き受け、見たいテレビがあったのにと、いやそうにやった。皆さんとしては、どちらの人が嬉しいだろうか。前者のはずである。

このような話がある。ある工場の終業時間の光景である。その工場では終業時間を待ちわびつつ働く、多くの工員がいた。そして時間が来ると、彼らは一斉に急いでその場を去った。ところが、一人の青年は残っていて、楽しげに歌いつつ仕事を続けていた。その青年の働く様子だけが違っていたので、ある人が「どうしてあなただけ違うのか」と聞くと、彼は答えて、「あの人たちは時間労働で雇われた人たちです。けれども私はそうではなく、この仕事に興味を持つ者です。これは私の父の事業で、私は父の愛する息子です」と答えたそうである。神の子たちにとって、神の事業、神の命令は重荷とはならない。そして、神の命令とはよくよく考えてみると、すべてが私たちの幸せのためである。

ところが、この世の人たちから、次のような話をよく聞く。「キリストを信じ、信仰など持つと、あれもするな、これもするなで、何か生活が窮屈になりそうだ。今の自由奔放な生活ができなくなる。聖書の戒めというものは、重い荷のようなもので、今の自分の生活を妨害するものに思えてしまう」。結局、私たちが神の愛を信じ切っているかどうかではないだろうか。神の愛を信じ切っているならば、神にどのようなことをしなさいと言われても、「この戒めは私を幸せにするための神の愛の指針だ、神の国の律法だ」と言って、戒めを喜ぶだろう。神の愛を信じ切って従っていくことが、自分を真に生かすことになる。

信仰者にとっての不要な重荷も確認しておこう。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」(へブル12章1節)。ここで信仰生活がレースにたとえられているが、「一切の重荷」ということばがある。もちろん、これは神の命令・戒めのことではない。これは主イエスのために捨てたほうが良いもの。重荷には余計なものというニュアンスがある。いわば信仰生活のぜい肉。それは立ち止まっていてはわからないが、主イエスのために走ろうとするとわかるもの。続く、へブル12章2節には、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」とあるが、この主イエスから目を離さず、本気になって信仰のレースを走ろうとすると、立ち止まっていたときに気にならなかったぜい肉が気になりだす。それは罪とまでは言えないものであるが、やめるのがベストな習慣、ライフスタイルの中で不必要な何かである。それはまとわりつく罪とともに捨てることが奨励されている。

そこで大切なことは、やはりイエス・キリストに対する信仰である。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(4,5節)。それでは次に、「重荷」の次に「勝利」をキーワードに学んでいこう。私たちの信仰生活は戦いという要素がある。ヨハネは「勝つ」とか「勝利」ということばを使うわけである。私たちは誰しもが、スポーツ競技とかトランプなどのゲームで、「一回ぐらい勝たせてくれ~」とそのような気持ちで対戦した経験があるだろう。私は何をやっても負けるたちで、ジャンケンも弱くて勝ったためしがない。

では、ヨハネは私たちの対戦相手は誰だと言っているのだろうか。ヨハネはびっくりするようなことを言っており、対戦相手を「世」と呼んでいる。ヨハネは「世」について、5章19節において、「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」と告げている。悪い者と呼ばれている悪魔は神の敵である。そして、「世」に対する警戒自体は、すでに2章で言われていた。「あなたは世も世にあるものをも愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(2章15~17節)。世の態度や価値観そして世の欲は、神を愛させない。私たちは神を愛するか世を愛するかの狭間にある。「世」はかつての私たちの生き方に引き戻そうとする。神に背を向けさせようとする。神を愛することをやめさせようとする。神から引き離そうとする。世の力は強く、様々な方法で私たちを攻撃してくるだろう。その背後にあるのは「悪い者」の存在である。けれども、私たちは世に勝ち続けることができる。なぜなら、キリストを信じる者は、その信仰のゆえに世に勝つからである。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利」である。なぜ信仰が勝利なのかと言えば、私たちの信仰の対象であるキリストが勝利者だからである。ヨハネはキリストについてこう宣言した。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1章5節)。そしてキリストご自身こう言われた。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16章33節)。「世にあっては苦難があります」とあるが、なぜ世にあって苦難があるのだろうか。それは世に同調しないところから来る摩擦である。世との戦いがあるということである。けれども主は、「しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われる。実際の勝利は十字架で勝ち取られる。「わたしはすでに世に勝ちました」という宣言は、十字架にかけられる前であったが、勝利は確定していたので、先取りした表現になっている。キリストは勝利者であることを覚えよう。だからキリストを信じる信仰は私たちの勝利となり、私たちを神のうちにとどまらせる。世ではなく神を愛させる。神の命令を守らせる。
キリストは勝利者である。それが私たちの勝利の前提である。私たちは勝利者を信仰している。それは、罪と死と悪魔に打ち勝った勝利者、世に打ち勝った勝利者である。私の信仰はまだまだだ~と、自分の信仰の貧しさに目を注ぐ前に、勝利者であるキリストに目を注ごう。私たちの主人は全き愛の持ち主であるとともに勝利者。私たちはそのしもべである。これ以上に喜ばしいことはない。

では、4,5節を改めて目を落とそう。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです」(4節前半)。この「勝つからです」は継続の意味があり、「勝ち続ける」ということである。つまり、神の子どもたちは世に勝ち続ける勝利の人生を送っていくことができるということである。それを現実にするのが信仰である。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(4節後半)。ここでは「信仰」が勝利というゴールに導いてくれる何かであるとか、「信仰」が勝利を得させるための何かといった書き方はされていない。信仰イコール勝利という書き方がされている。信仰と勝利は同義語なのである。信仰は勝利なのである。それは「世に打ち勝った勝利」である。「世に打ち勝った」の「打ち勝った」という動詞の態は、すでにそうなりました、という事実を表している。これからそうなります、ではなく、やがてそうなります、ではなく、すでに勝利しました、ということである。それはキリストが勝利を勝ち取ってくださったからである。キリストは勝利者である。闇に打ち勝つ光である。偽りを打ち砕く真理であり、腐敗から救ういのちである。憎しみに打ち勝つ愛である。私たちはこのお方を信じている。だから私たちは、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(5節)にアーメンと言うのである。

さて、皆さんは今、現実にどのような戦いを覚えているだろうか。世の欲との戦い?言い換えると、世の誘惑との戦い?世のプレッシャーとの戦い?あの人を愛せるかどうかの戦い?神を愛することを妨げる障害物との戦い?悪しき霊との戦い?それがどのような戦いであっても、キリストは勝利者、信仰は勝利であることを覚えて、「神から生まれた者はみな、世に勝つからです」という勝利を我がものとしよう。

最後に確認したいことがある。今日の区分では共通してイエス・キリストに対する信仰が言われていたが、1~3節では、神を愛するということが言われていた(3節前半)。4,5節では、世に勝つということが言われていた(4節前半)。神を愛するというテーマと、世に勝つというテーマは、全然別のことではないことに気づこう。世に勝つことが神を愛することとなる。私たちは神を愛するために世に勝つ。世は神を愛させない。神の戒めを守らせまいとする。そして世は私たちを虜にしようとする。私たちは神を愛するか世を愛するかの狭間にいる。ヨハネは、神を愛するということが世にある私たちの生涯のテーマであることを知って、世に勝つ秘訣を教える。私たちが気づかなければならないことは、自分の力で戦うのではないということ。私たちの主イエス・キリストは全き愛を持って私たちを愛してくださる方であると同時に、世にある一切の闇の力に対して勝利者である。このお方を仰ぎ、このお方に全き信頼を置き信仰を働かせることが、世に勝ち続け、神を愛し続ける秘訣である。