前回は15節の「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません」までであった。「兄弟を憎む」とか「人を殺す」とか、聞き捨てならないことばを使ったヨハネであったが、今日の区分では、それとはまったく正反対の態度について語っている。16節では「兄弟のためにいのちを捨てるべきです」と、最高のコントラストを示して、愛の教えを説いていく。
では、16節から見ていこう。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(16節)。16節の前半を直訳的に訳すと、「このことによって私たちは愛を知った。あの方が私たちのために自分のいのちを捨ててくださったことによって」。「私たちは愛を知った」と、冒頭部分でヨハネは言っている。ではそれまで愛を知らなかったのだろうか。松坂慶子の「愛の水中花」という歌の冒頭の歌詞は、「これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛」。このフレーズが繰り返される。「愛」ということばは多くの事柄に適用されるものである。だがヨハネは真の愛をキリストの十字架に見た。罪人のためにいのちを捨てる愛。「これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛」というよりも、「これぞ愛」という姿を彼は見た。それは歴史上に示された十字架の愛。真の愛はベールを脱いだ。その愛を知ったのである。ならば、「ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(16節後半)。
主イエスはいのちを捨てる愛を、十字架におかかりになる前に弟子たちに語っておられた。そして、それにならうようにとも。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15章12~14節)。ヨハネは「人が自分の友のためにいのちを捨てる」という愛を、このみことばを聞いた翌日に目撃することになる。ヨハネは十字架の下に立っていた。彼はそこで、キリストの苦しみとその流される血とともに、そこから輝き出る神の愛を見た。彼は愛の現実を目の当たりにした。いのちを捨てる愛を目の当たりにした。ヨハネはこの愛を受け止めて、「ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と語る。
私たちは、誰かのためにいのちを捨てるということがあるだろう。あったとしても、それは、人生の一時点のことであり、毎日のことではない。それであったら、いくらいのちがあっても足りない。この愛を日常生活に置き換えるとどういうことになるだろうか。それが17,18節で語られる。「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」(17節)。愛は兄弟が困っているときに発揮されるべきものとして言われている。「自分の兄弟が困っている」の「困っている」ということばは、原文を見ると「必要」という単語が使われており、「困っている」を「必要なものが足りない」と別訳できる。それが困っている状況である。その困っている状況に対しては「あわれみの心」がふさわしい。「あわれみの心」の同族語は、キリスト(マタイ14章14節「大勢の群衆をご覧になって…深くあわれんで」)や放蕩息子の父親(ルカ15章20節「かわいそうに思い」)に使用されている。「あわれみの心」とは、もともとは「内臓」「はらわた」ということばから造られており、それが揺り動かされるような心情のことである。「愛情のこもった心」とも別訳できるだろう。それを「閉ざす」、シャットするなら、「神の愛」はその人にとどまっていないと言うのである。
「どうして神の愛がとどまっているでしょうか」の「神の愛」をどう解釈するかは三通りある。一つ目は、人に対する神の愛(神から人への愛)。兄弟を愛さない者には神からの愛はないというわけである。二つ目は、神に対する人の愛(神への愛)。神への愛は兄弟への愛によって示される。それは4章20節でも言われている。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(4章20節)。神への愛と兄弟への愛は一つであることは確かである。三つめは神に帰属する愛、神固有の愛、神が持っている愛、神本来の愛。もし、兄弟が困っているのを見てもあわれみの心を閉ざすならば、その人のうちに神が持っている神本来の愛はないというわけである。この解釈が一番自然かもしれない。4章7節三行目を見ていただくと、「愛は神から出ている」とある。だから、ヨハネが述べる愛を実践するときに、その人の愛は人の愛のように見えて、本質は神から出ている神の愛なのである。
ヨハネは次節で愛の実践を勧めている。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」(18節)。「ことばや口先だけ」というのは、言うだけでやらないというわけである。「兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう」(ヤコブ2章15,16節)。ですからヨハネが「行いと真実をもって愛しましょう」というとき、それは単に具体的な行動に出ることを求めているというだけではなく、ことばと行動が一致する言行一致の愛を求めていることがわかる。ことばや口先だけの愛は、真実ではなく偽りとなるわけである。
ヨハネは行いと真実をもって愛する者たちに、安らかな心を約束する。「そうすることによって、私たちは自分が真理に属することを知り、神の御前に心安らかでいられます。たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです」(19,20節)。さて、この文章は何を言っているのだろうか。私たちは行いと真実をもって愛するとき、心安らかにされる。神の命令を実践できたと。しかし、私たちの良心はしばし私たちを責め立てる。「あなたの為したことは不十分ではなかったのか。不完全ではなかったのか。もっとやりようがあったのではないか」。しかし、「神は私たちの心よりも大きな方であり」とあるように、神の心は私たちより大きく寛大なので、その行いを受け入れる。それはちょうど、愛情深い親が、幼児のつたない絵を見て、傑作だとほめ、喜ぶようなもの。幼児が幼児なりに努力して描いた絵を見て、へたくそとどなりちらす親はいないだろう。また神は「すべてをご存じだからです」とあるように、私たちの心の中をすべてを知っておられ、純粋な動機でやったのならば、そのことも知って認めてくださる。だから、私たちは神の御前で安心できる。
後半は、神の命令を守る者の特徴について、21~24節から二つの事を見て終わろう。その前に「神の命令」とは何かを確認しておこう。この短い区分で「神の命令」ということばが三回も登場していて、神の命令が強調されているが、「神の命令」ということばはすでに2章3節で使われていた。「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることがわかります」。ヨハネの念頭にある神の命令とはこれである。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒め(命令)です」(ヨハネ15章12節)。実は「戒め」も「命令」も原語は全く同じ。だから、キリストが与えた戒めとはキリストの命令であり、キリストの命令とはヨハネが述べる神の命令のことである。
では神の命令を守る者の特徴を見ていこう。第一は、祈りが聞かれるということである(21,22節)。神の命令を守る者は、「私の神は私の祈りを聞かれる」という確信を持つことができる。そして実際にその祈りは聞かれる。一年待つとか三年待つとか、祈りが聞かれるまでの時間は要するかもしれないが、それは聞かれる。22節では「求めるものは何でも」とある。ここでは、神の命令を守る者に、神の御手がどれほど開かれるかが強調されている。「お父さん欲しいものがある」「何だい、言ってごらん」「グローブとバット」。父親の言いつけを守っている子どもが大胆に願い出て、それが聞かれるように。
神の命令を守る者の特徴の第二は、神がその人のうちに住み込んでくださる(23,24節)。24節をご覧ください。「神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまたその人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります」。「とどまる」という表現が何度も繰り返されているが、これは「~の中に住む」という表現である。「神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまたその人のうちにとどまります」と、相互に内に住むことが言われているが、神が私たちのうちに住むということが強調されている。神が私たちのうちに住むというのは、キリストが私たちのうちに住むことと同じである。主イエスの次のことばにも耳を傾けよう。「だれでも私を愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(ヨハネ14章23節)。「私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます」とあるように、神が私たちの中に住むことと、キリストが私たちの中に住むことには厳密な区別はない。神の内住、キリストの内住は同じことである。そして24節後半において、「神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」からわかるように、神が私たちのうちに住むことと御霊が私たちのうちに住むことも厳密な区別はない。私たちは私たちのうちに住む御霊を通して、神の内住がわかる。
では、私たちは神の命令を守ることに努めよう。それはキリストを信じる者にとって当たり前の姿なのである。23節を良く見ると、イエス・キリストを信じることと、兄弟愛が結びつけられていることがわかる。信じることと愛することがセットである。信じることと愛することとががっちり結びつけられている。それはちょうど、朝起きたら顔を洗うようなもの。朝ごはんを食べたら歯をみがくようなもの。勤め先に行ったら働くようなもの。お昼、食堂に入って定食を食べたら代金を払うようなもの。払わなかったら食い逃げである。聖書は、信じて終わりと言っていない。
最後に、参考に、神の命令、キリストの戒めを守る者に対して愛の関係から説いたキリストの約束を見て終わろう。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、私自身をその人に現します」(ヨハネ14章21節)。この約束は、神がその人のうちにとどまるということの言い換えである。それは親しい人格的交わりである。神の命令、愛の戒めをおろそかにする人は、ここで言われていることと反対のことが起こる。それをどう口で表したら良いのか難しいが、神との関係、キリストとの関係はよそよそしいものとなり、親しい家の住人から、なじみの薄い客のようになり、悪くすると、もう訪ねても来ない赤の他人になってしまう。私たちはそうでありたくはない。神を愛し、キリストの臨在を喜びたい。御父また御子イエス・キリストとの交わりを大切に生きていきたい。私たちは、キリストの十字架を通してすばらしい神の愛を知った者たちとして、神の命令を守り、神を私の現実、私の父、そしてキリストを私の主、私の友として歩んでいきたいと思う。

